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「その駒は今取らない方がいいぜ」
「でも、今ならタダでとれるじゃねえか」
サルワが駒を持ったまま、首を傾げた。俺は少し思案した。どう説明するのが良いのだろう。始めて数週間の初心者にヒーローチェスの動きの自由さの重要性を説明するのは難しい。
「そうなんだが……そこに動くと後がかなり窮屈になるんだよ」
俺はサルワの手から駒を取ると、陣地盤に置いて、他の駒の可動域を示して見せた。
「この盤面だったら駒を取るアドバンテージより、駒を動きやすくしておいた方が有利になりやすいんだよ」
「それってなんか判断基準あるのか?」
サルワが眉間に皺を寄せて尋ねる。俺は唸る。それこそがヒーローチェスの難しいところの一つだ。
「そのあたりは慣れになってくるかな。とりあえず今は序盤は広く動けることを優先した方がいいって覚えな」
「ううむ」
サルワは低く唸った。
サルワと俺はヒーローチェスの陣地盤を挟んで向かい合っていた。せっかくヒーローチェスのセットが空いていたので、俺はサルワにちょっとしたコーチングをすることになったのだ。
「でも、それ覚えるだけで勝率結構変わってくるはずだぜ、ハングラくらいならカモにできるはず」
「別にあいつが突っかかって来るだけだからいいんだけどよ」
サルワは口を尖らせた。そうは言っているが、負けがこんだ時にむきになって再戦をせがみがちなのがサルワの方であることを俺は知っていた。
「それに、もうあいつここには来ないんじゃないか」
「そうだな」
俺は頷き、談話室を見渡した。談話室には俺とサルワの他に誰もいなかった。がらんとした談話室はやけに広く、静かに感じられた。他の候補生たちは寝室の自分のベッドの上に引き篭もっていた。自分のものがなくならないか、警戒しているのだ。
はあ、とサルワがため息をついた。
「よく、ねえよな」
「何がだよ」
ぼんやりと陣地盤を見つめながらサルワがこぼした言葉に、俺は聞き返す。
「だから……班の空気とかだよ」
「それは俺も悩みの種だよ」
俺も顰め面で答えた。駒を持ち上げて眺めるふりをしながらサルワの顔を窺う。口はへの字で眉間に皺が寄り、真剣に考え込んでいる様子だった。その顔を見て俺も唸った。答えた言葉は正直なものだった。けれども、一人で考え込んでいるときよりは少しだけ気分が楽だった。
俺は手を伸ばしサルワの肩を叩いた。
「きっとなんとかなるさ」
「だといいんだけどよ」
「それに、どうせあと数週間もしたらこの班も解散だ。そしたら班の空気なんてどうだっていいことになるさ」
「それもそうだな」
サルワは曖昧な笑みを浮かべて肩を竦めた。それまでに何とかなっていた方がうれしい、と思っているのだろう。もちろん、それは俺も同感だった。あと数週間とはいえ今の重苦しい空気のまま生活するのは気が重い。それに解決しなければならない問題は他にもあるのだ。
「なにしてるんだ?」
「うわ!」
不意に、声が聞こえた。考え込んでいた俺は予想外の声に驚いて手に持ったままの駒を取り落とした。駒がソファの下に転がり込むのが見えた。
「コチテか、どうしたんだ」
サルワが振り向いて声を掛けた。俺は顔を上げる。驚いた顔をして入口の所に立っているのはコチテだった。
「ああ、うん、特に理由はないんだけど」
どこか曖昧に笑いながらコチテが言った。
「ちょっと寝室でライアとヤカイが言い争い始めちゃってさ。居づらくて、逃げてきちゃった」
「マジかよ」
俺はソファの下を覗き込みながら言った。少し意外な話だった。ライアとヤカイはそれなりに良好な関係を保っていたはずだった。駒を見つける。俺は手を伸ばして駒を拾い上げた。無理な姿勢をしとったせいで少し肩が痛かった。
「なんでケンカしてんだ?」
「さあ? よくわからないんだけど」
コチテは首を傾げた。俺は立ち上がり、ため息をついた。放って置くわけにもいかない。
隣でサルワも立ち上がった。
「俺も行くぜ」
「ありがとう」
ハングラが相手出ないなら、サルワの助力はありがたい。
「知らせてくれてありがとよ、コチテ」
「ううん、止められなくて申し訳ないよ」
コチテはとても申し訳なさそうに首を横に振った。
【つづく】