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「別に、悩み事なんてないさ」
「さようですか」
軽く鼻で笑ってジジクは盤面に目を戻す。駒を取り上げ、一思案するそぶりを見せる。横目に俺の顔を窺っている。腹立たしいくらいに、見透かされているような気がする。
「なんだよ」
「その割には随分と深刻な顔をしてらしたから」
「班長は色々考えないといけないんだよ」
「さようですか」
ジジクは慇懃に繰り返す。駒を置き、またテンポよく交互に駒を動かしていく。静かな談話室に駒を置く音だけが響く。俺は立ち上がろうとして、止めた。ジジクは退屈そうに駒を動かしながらも、俺の様子を窺っていた。それは気配で分かった。
「なにかあるのか?」
「ほう?」
ジジクは驚いた顔で俺を見た。
「なにかあるとすれば、それは班長殿の方ではありませんか?」
また沈黙。ジジクの目線は盤の上。駒の音。俺はため息をついた。ジジクに聞こえるように。完全に相手の思惑に乗った訳ではないと示しておきたかった。
「最近よく物がなくなってるだろ」
「ああ、そのことですか」
「どうしたもんかなって思ってよ」
俺は困った表情を作って唸った。半分くらいは本心だった。
「そのせいで班の空気も良くねえしよ。まったく頭が痛いぜ」
「そんなことですか」
ジジクはくすりと笑った。
「そんなことって言ってもよ、大変なんだぜ、俺としては」
「本当、滑稽な話ですよね」
ジジクは言った。心の底から愉快に思っていそうな声だった。少しムッとする。
「なにが、おかしいんだよ」
「だって、みんなヒーローになるためにここに来たのだろうに、それがちょっと物がなくなったくらいで機嫌が悪くなるなんて……ねえ」
笑った目をしたジジクが俺に問いかける。その言葉に俺の心臓は嫌な感じに跳ねた。俺は目をそらす。
「誰だって触られたくないものぐらいあるってことだろ」
「そりゃあ、そうだ。大切なものがなくなったんだ、不機嫌になるのも当然だし、他人を信じられなくなるのも当たり前だ」
こんと音を立てて、ジジクは片方の主力ヒーローを倒した。ジジクはその駒を拾い上げて目の前に持ってきてじっと見つめながら言う。
「ヒーローになってからもそんな甘ったれたことを言うつもりなのかねえ」
再び鼓動がいやなリズムを刻んだ。ジジクは駒を見つめたまま言葉を続ける。
「自分の都合で、不機嫌になって仲間を信じられなくなって、それでご立派にヒーローをやれるつもりとは、なかなか自信家ぞろいですな」
「なにか知ってるのか?」
「まさか」
ジジクが鼻で笑い、首を振った。
「知りませんよ。私はなにも。何も知らない。でもねぇ」
ジジクが俺を見る。
「ヒーローってのはそういうもんじゃぁ、ありませんか?」
ジジクの目がぎらりと輝いた。その光は底知れぬ決意のようなものに見えた。
「そうかもな」
俺は曖昧に返事をして陣地盤に目を逃がした。ジジクの言葉は正しかった。正しいからこそ、俺は居心地悪くてたまらなかった。
「まあ、別に班長殿が悩まないといけないことではないかもしれませんが」
ジジクはあざけるように付け加える。俺はゆっくりと首を振った。
「いや、お前の言うとおりだよ」
「そうですか?」
少し意外そうにジジクが笑う。
「ああ、少し考えてみる」
「そうですか」
「ありがとよ」
目をそらしたまま、俺は礼を言った。「どういたしまして」とジジクはまた笑った。相変わらず本心の読めない笑顔だった。
「だってめぇ! こらあ!」
不意に怒鳴り声が響いた。寝室の方から聞こえた。ハングラの声だった。
俺はため息をついた。
「大変ですな」
ジジクが笑った。今度の笑顔はまだ意図が読めるような気がした。
【つづく】