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俺は考えていた。
誰もいない談話室の隅の椅子に座り、壁に並んだヒーローチェスの棚を見つめていた。棚の扉越しに見える駒は全部そろっていた。
なくなってた大駒は、俺がソファの隙間に落ちているのを見つけた。そう言うことにした。そう説明したら、中には怪訝な顔をする奴もいたけれども、ほとんどの奴はとりあえず納得することにしたようだった。
いずれにせよ、今の疑心暗鬼の空気漂う中では、穏やかにヒーローチェスをやる奴もいないのだから、さほど興味を引く話題ではなかった。
立て続けに起こっていた問題が一つだけでも解決したのは、俺にとってかなり良いニュースだった。だが、万事が円満に解決したわけでもなかった。不可解な点はいくつも残っていた。俺は立ち上がり、棚の前まで歩く。駒を撫でながら思考を巡らせる。
一番不可解なのは、なぜカシュウがあんなことをしたのか、ということだった。少なくとも訓練の様子を見る限りでは、カシュウは真面目で変な悪ふざけを進んでやるようなタイプではなかった。何か理由があるのだろうか。あるいは、それを聞き出せば他の物品の紛失の手がかりが……。
「おや、班長殿ではありませんかぁ」
突然声を掛けられて、思考に沈んでいた俺の意識が急浮上した。振り返る。そこには軽薄な笑みを浮かべるジジクがいた。
「どうしたんだ、こんなところで」
「それは、こちらのセリフですよ。お忙しいのでしょう? 班長殿は」
ゆっくりと首を振りながらジジクは曖昧に俺の問いをごまかした。その目は細められていて、瞳は見えない。意図も読み取れない。
「たまには一人で考え事をしたくもなるんだよ」
「なるほど、哲学的ですなあ」
ジジクは聞くだけで適当なことを言っているとわかる口調で言うと、俺の隣に立ち、駒入れのケースを手に取った。
「どうです? 一局」
「やめとくよ」
俺は首を横に振る。そうでなくても考えないといけないことはたくさんあるのだ。ジジクとの対局で思考を巡らせる余力はなかった。
「それは残念」
ジジクはさして残念でもなさそうな口調でそう言うと、それでも棚を開け駒を拾い始めた。
「俺はやらないって言ってるだろ」
「ええ、一人でやるんですよ」
俺が首をかしげる間にジジクはケースに駒を入れ終えると、別のケースを取り上げた。
「一人ヒーローチェスか」
「良い暇つぶしですよ」
ジジクの口調は軽かったが、駒の種類が多く、状況が複雑になるヒーローチェスは一人でやるのは難しいゲームだ。少なくとも暇つぶしで簡単にできるようなことではない。
けれども、ジジクは二つのケースを机に運ぶと、手際よく盤を広げ、駒を並べ始めた。
ずいぶんと慣れているのか、敵陣にあたる反対側の陣にも素早く駒を並べてしまう。普段と逆向きなので、本当なら随分手間取るはずなのだが。
「これでよし」
呟くとジジクはカチャカチャと駒を動かし始める。
「すごいな」
思わず声が漏らす。ジジクは手を止めることなく駒を動かし続けていた。もちろん適当に動かしているわけではない。双方が恐らく最善と思われる手を指し続けていた。
「こりゃ敵わないわけだ」
「慣れればそんなに難しいわけじゃないんですがね」
俺の独り言にジジクが答える。その間も駒を動かす手が止まらないのが恐ろしい。
「で、班長殿」
相変わらず感情の読めない口調でジジクが俺に呼び掛けた。
「何かお悩みのようですな」
ジジクが顔を上げる。鋭く細められた三日月の目が俺の顔を覗き込んできた。
【つづく】