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 俺は息をひそめ、慎重に棚の戸を引いた。金属の扉は音もなく開く。行儀よく積み重ねられた食器の影が姿を現す。俺は慎重に手を伸ばす。三番コップの位置は確認済み。今俺は寝室の布団の中にいるはずだった。抜け出していることは誰にもばれていないが、長居すればそれだけ見つかる可能性が増す。早く見つけ、早く片づける。それが俺の今するべきことだ。

 いつもの食事で見慣れたコップに手をかけ、ゆっくりと持ち上げ「手は洗ったか?」「っ!」飛び出しかけた声を辛うじて呑み込む。汗の吹き出した手の平からコップが滑り落ちそうになる。なんとか持ち直して、そのままの姿勢で恐る恐る振り返る。

「手を洗ったかを聞いているんだが」

 もう一度、質問が投げかけられた。欠伸交じりに俺を見ているのは食堂の爺さんだった。いつもと同じ殺し屋みたいな顔をしていた。爺さんの手が何気なく弄んでいるのは、ギルマニア星人の刃腕よりも鋭い包丁だった。俺は死を覚悟した。

「すみません、悪さをするつもりはなかったんです」

「もしも、お前が訓練の後の泥まみれの手で食器を触ったとしたらだな」

 とんとんと爺さんの包丁の背が調理台を叩いた。俺はその歯が喉元に突き付けられているような気がした。

「この訓練校の全員が腹痛を起こす危険を犯していることになるんだが」

「洗いました」

 俺は声をひねり出した。

「ほう?」

 爺さんの眉がピクリと動いた。俺は慌てて言葉を続ける。

「その、カシュウに言われて、手だけは洗っとけよって、それで手洗い場でちゃんと、ええ、石鹸も使って」

 ふむ、と爺さんは唸った。そのまま片手に包丁を持ったまま、音もなく近寄り、俺の手をとった。ぐいと強い力で手が引っ張られる。抗うこともできず、手は爺さんの鼻元に近づけられる。強く息が吸われる風を感じた。

 手が解放される。

「まあ、いいだろう。だが、次からここに来るときはもっと丁寧に洗え」

 爺さんはそう言うと、包丁を調理台に置いた。どうやら許された。カシュウの助言に従って文字通り命拾いをした。俺の体中から安堵の汗が噴き出す。爺さんはぎろりと食器棚を睨んだ。三番コップの棚、一番奥の山に鋭い視線が突き刺さる。

「カシュウが隠したものか」

「ご存じだったのですか?」

「厨房で起きたことで、ワシの知らんことはない」

 爺さんはふんと鼻を鳴らして、調理台の端に置かれた消毒液を顎でさした。

「取り出したら、そこの消毒液で食器を拭いとけ」

「は、はい」

 俺は震える声で答える。コップの山を持ち上げる。はたしてそこには数日前になくなっていたヒーローチェスの大駒があった。ふう、と俺の口からため息が漏れた。とりあえず、一つだけ問題は解決したようだった。

 もちろん、カシュウがなぜこんなことをしたのかは解らないし、この事態を他の班員にどう説明すれば丸く収まるのかなんて考え突きもしないけれども。

「ありました」

「だろうな」

 爺さんは頷く。俺は慎重に動き消毒液を手に取った。爺さんの前を通り過ぎる時に、爺さんの顔が目にはいった。変わらぬ殺し屋の顔。けれども視線が引っかかった。その口角が微かに上がっているのが見えた。何かを笑うように。

 でも問いただすには爺さんの纏う雰囲気は恐ろしすぎた。だから俺は何も言わずにコップに消毒液をふりまくことしか出来なかった。

「おい」

 背後から、低い声が投げつけられた。

「はい」

 俺は裏返りかける声を押さえて答えた。

「カシュウが、自分でそこに隠したって言ったのか?」

「はい、そうです」

 俺は質問に答える。正直に、かつ簡潔に。「そうか」と爺さんは唸る。少し間を開けて爺さんは言った。

「あんましあいつを責めるな。あいつが悪いわけじゃない」

「はい、そのつもりです」

 俺は答える。今度の返事も正直なもの、であるつもりだった。納得したのか、爺さんはもう何も言わなかった。消毒液を振りまく音だけが厨房に流れる。

「あの」

 その沈黙は、俺に質問することを許しているように思えた。だから、俺は凍りついたように動かない口を何とか動かした。返事はなかった。けれども、俺は言葉を続ける。

「なにかご存じなのですか?」

「いいや」

 返事は素早く帰ってきた。簡潔な返事だった。でも、正直な言葉には聞こえなかった。それにしては笑みが含まれすぎているように思えた。

「何も知らんなぁ」

「……そうですか」

 俺は答えた。爺さんの声は、これ以上何かを話すことを拒絶する声だった。だから俺はそれ以上何も言わず消毒液を元の場所に戻した。

「お邪魔しました」

「まあ、がんばれや」

 大駒を手に取り、立ち去ろうとした俺に爺さんは言った。

 その声はどうやら本当のことを言っているように聞こえた。


【つづく】

 

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