愛の味
※
わたくしは、いつもあなたの帰りをお待ちしております。
周りにはやめろと言われます。
あんな奴は忘れろと言う者もおります。
けれど、そんなことが出来ますでしょうか。
真っ暗闇の世界。自分が実在するのかすら不安になる中。
あなたが、あなただけが、そこに差す一筋の光なのですから。
◆
カタン。
郵便の音です。珍しいですが、一体どなたからなのでしょうか。
「お母様! 郵便屋さんでございます!」
少しして、お母様が二階から降り、玄関へと向かう音が聞こえました。
そして。
「リリー! アベルから手紙よ!」
「あ、ア! ほ、本当ですか、お母様!」
「ええ、確かにアベルからって書いてあるわ」
「読んでください! 読んでください、お母様!」
わたくしは、字が読めないのでございます。
彼の言葉がどれだけ欲しくても、彼の温もりを髪一本でも近く感じたいと願っても、それは叶わないのです。
「読むわ。
『愛するリリー。
聞くまでもなく、君は元気だろう。盲目なくせに、君ほど元気な人間を俺は知らんからな。
かくいう俺も元気だ。西部戦線は非常に厳しく、誰も生きて帰れないという。が、俺にはへっちゃらだ。悪戯のしすぎで飯を抜かれてた日々を考えれば、三食付きなだけで天国みたいなもんさ。
まあ、要するにだ。俺を心配する必要はない。
だが、お前が恋しい。一月に一度は手紙を送れるようだ。必ず送る』」
ああ。
彼が戦争に駆り出されてから二ヶ月。
その間、ひたすらに彼の無事を祈り続けておりましたが、ようやく。ようやく、彼が生きていることが分かったのです。
彼の無事が分かって安心しました。
本当に。本当に。本当、に?
むくり。と、小さいけれど無視できぬ不安が顔を覗かせました。
あの手紙は、本当に彼からの物なのでしょうか? そうだとして、本当に彼の無事を知らせる内容なのでしょうか。
お母様はとても優しい方ですが、だからこそわたくしを思って嘘をつくこともあります。
そう思うと、いてもたってもいられません。
手探りで手紙を見つけ、慌てて表面をなぞりました。
しかし、インクの凹凸はあるものの、それで文字を読むなんて芸当はできません。だって、文字の形すらわたくしは知らないのですから。
どうすれば、彼の本当の言葉を聞けるのでしょうか。
手紙を撫で、額に当て、耳元で揺らしてみたりもします。
当然ながら何も分かりません。
ふと思い立ち、わたくしは手紙を顔に近付けました。そして、舌を伸ばします。
口いっぱいに広がったのは……。
染み込んだインクの味、刺激的な異国の香辛料の味、そして、少し塩辛い彼の汗の味……
彼は、いつもインクをつけすぎる癖がありました。彼が書き物をする時は、決まってインクの充満する匂いを感じたものです。
それに、食べ物もよくこぼしていました。それを手で拾って食べ、そのまま手を洗いもしないのです。きっと、食べ物で汚れた手のまま、手紙を書いたのでしょう。
そして、汗。文字で書いていたのとは裏腹に、やはり戦場は大変ということなのでしょうか。
でも。
それでも。
彼が汗をかいて頑張っているというのは、彼が生きている証なのです。
「生きててくれて、良かった……!」
感情の渦に呑まれ、思わず座り込みました。気付くと、涙が頬を伝っていました。
「良かった……。生きててくれて、ありがとう……」
◆
カタン。
『ブルーベリーってのが支給された。まあ中々美味かった。ほんと、タダ飯食らいの楽な生活だよ。
それと、ロンって名前の馬鹿面の大男と相部屋になった。気に食わない奴だが、弾除けくらいにはなりそうだ。
少しでも早くお前に会いたいよ。また手紙を書く』
酸味の効いた味。これがブルーベリーなのでしょうか。彼は苦手な系統の味なはずですが、わたくしを安心させるために美味しいと言っているのでしょうか。
彼とはまた違う人の汗の味。ロンさんのでしょうか。きっと、書いた手紙を見せたのでしょう。書いてあったのとは裏腹に、きっと仲のいい友達なのだと思います。友達が出来るのはいいことです。わたくしも嬉しいです。
◆
カタン。
『犬の世話に立候補した。軍用犬らしいが、これが結構人懐こくて可愛いんだ。お前にも見せたい。
戦況だが、明日から攻勢に転じるらしい。だが大したことじゃないから心配はするな。俺は必ず生きて戻る』
雑多な粥のような味。犬の餌、でしょうか。もしや、犬の餌を少し横取りするため、世話係に立候補したのでしょうか。まったく、彼の食いしん坊にも困ったものです。
石鹸の味。明日から戦うからと、お風呂に入れてもらえたのでしょうか。やはり、大きな戦なのでしょうか。ただただ、彼のことが不安でなりません。
◆
カタン。
『この前の戦闘では勝利した。まあ俺のおかげだな。ロンの後ろにずっと隠れてたなんてことは断じてないぞ?
ところで、看護婦がやってきた。お前ほどではないが、可愛い女だ。こんなことなら、怪我の一つでもすればよかったな。
冗談だよ。お前だけを愛してる』
お酒の味。勝ったというのは本当みたいです。彼が活躍しようと、隠れていようと、わたくしは彼が無事なら問題ありません。
問題なのは、香水の味です。看護婦さんのものなのでしょうか。彼がわたくしを忘れて看護婦さんに熱を上げたりしていないか、とても不安です。ちょっと怒り気味です!
◆
カタン。
血の味。
どうしましょう!
何かあったのでしょうか。いや、何かあったに違いありません!
こんな時に限ってお母様はおらず、詳しい内容は読んでもらえないのです。
どうしましょう、どうしましょうどうしましょう……
彼が、彼に、何かあったら、わたくしは、どうやって生きていけば良いのでしょうか……
誰か。
神でも悪魔でも、なんだって構いません。彼を、わたくしから奪わないでください……!
「リリー!」
お母様の絶叫で目を覚ましました。
わたくしは、血をどくどくと流しながら、額を地にこすりつけていたそうです。
とにもかくにも、お母様が読むには、彼は大した怪我は負っていないそうです。
確かに、言われてみればそんなに濃い血の味は感じませんでした。
そう分かったら、また泣いてしまいました。最近、涙もろいみたいです。
◆
カタン。
『初めて返事が来たと思ったら、お義母さんからの小言で驚いた。心配するなって言ってるだろ?
こっちは雪が降ってる。初めて見る雪は、思ったより白かった。溶けるだろうが、手紙にも入れといた。
もう少しで、兵役が終わりそうだ。この手紙もあと三回くらいで済むだろう。その次は、きっと俺本人が帰ってくる。
ただ、来月からデカい戦場に行かされることになった。だが、これさえ生き延びれば、もう危ない目には遭わないはずだ。
だから、待っててくれ』
雨の味。見たことはなくても、雪が甘いってことはわたくしも知ってます。わたくしを元気付けようと、雪が降ったなんて嘘をついたに違いないです!
それから。
灰っぽい、苦い味。銃の練習をたくさん積んでいるのでしょうか。どうかどうか、彼が生き延びますように。
◆
カタン。
『明日から戦場だ。だが安心しろ。俺は、必ず生きて帰る。
お前の香りが、肌が、声が恋しい。早く会いたい』
涙の味。わたくしも。わたくしも、早く会いたいです……
どうか、どうか。わたくしの世界の唯一の光が、消えませんように……
◆
カタン。
「アベルが、死んだそうよ」
軍からの手紙。
何の味も、しませんでした。
◆
コンコン。
ノックの音で、目が覚めました。
久しぶりに起きたような気がします。
真っ暗闇の中で日にちの感覚もありませんが、お母様によればもう一月もベッドの上にいるそうです。
「どなたですか?」
お母様の声がします。
「ロンと申します。戦死した友人からの手紙を、届けに来ました。死ぬ直前に口付けをしただけの、白紙の手紙なのですが……」
どくん、と心臓が脈打ちました。
彼からの、手紙。
彼の、最後の言葉。
「ロンさん。申し訳ないですが、娘にそれを読む余裕はありません。お引き取りを」
「お母様……。お母様……!」
声を枯らして呼ぶと、慌てて誰かが飛び込んでくる音がします。
「リリー! また二日も寝てたのよ!」
「お母様! 手紙を、わたくしに手紙を……!」
「あなた……」
「お母様、手紙を……」
「リリー。私は世界で一番あなたを愛してる。だから」
「お願い、します。お母様……」
しばらくして、手に何かが触れました。
「後悔はしないで」
「はい」
シワになり、よれている手紙。
顔に近づけると、むせるくらいの鉄の匂いがしました。
さらに顔に近付けます。
そして。舌を。伸ばし。味が。手紙の、味。
アベル…………
◇
「リリー、風邪を引くよ。そろそろ家に戻ろう」
「あら、ロン。もうそんな時間?」
彼の優しい腕が、ゆっくりと私を立ち上がらせます。
「またね、アベル」
最後に墓石を一撫でしました。
「じゃあ、行こっか、ロン」
彼の温かな手に導かれ、ゆっくりと家への道を歩いてゆきます。
春の香りが、動物たちの歌声が、私たちを包んでいます。
「アベルは何か言ってたかい?」
「うん。太ったなって言ってた」
「あいつらしい」
「ほんとね」
「なあ、リリー」
「なあに?」
「あいつの墓に行くといつも気になるんだが、あの手紙はどんな味がしたんだい? 君はいつもはぐらかすじゃないか」
「はぐらかしてるわけじゃないの。説明がとても難しいのよ」
「どんな風に?」
「うーん。あれは、あれはね、言葉には表せないような色んな味がしたの。幸せになれとか、悲しむなとか、世界は明るいから外に目を向けろとか、そんな色んな想いの味。だから、ね。私は、それを読んで前を向かなきゃなって思ったの」
「そうか」
「だから、あの味はね、言うなれば……」
「言うなれば?」
※
ねえ、アベル。
あれから二年が経ちました。
浮気者と怒られるかもだけれど、あなたと同じくらい大切な人も出来ました。
私は、いま幸せです。
全て、あなたのおかげ。あなたが、最後の手紙をくれたから。
あの手紙を。
愛の味に満ち満ちた、あの手紙を。