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ゼノの追想譚 かつて不死蝶の魔導師は最強だった  作者: 遠野イナバ
第ニ章/後『海霧の怪人編』

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87 呪いの化身

「────え?」


 しゅるり、ゆらり。

 地面にたまった影が動きだす。

 槍のように細長い影が、ティアの身体から引き抜かれて鮮やかな赤が虚空を染め上げる。


 まるで(したた)り落ちる養分を吸い取るかのように、床に描かれた魔法陣が不気味に輝き出した。


「かはっ──」


「……ひっ、ティアさん⁉」


 少女が悲鳴を上げて崩れたティアの身体を揺らす。

 返事はない。

 ぽっかり空いた胸の空洞から零れる血が魔法陣に広がって、より輝きを増すばかり。


「なんだ……、あれ……」


 魔法陣の上に捧げられた大量の髪が、何かのかたちをなしていく。

 ティアが持っていた黒いハサミを核にするように禍々しい気を発しながら、それはやがて膨れ上がって、六本脚の生き物へと変貌した。


蜘蛛(クモ)……?」


 巨大な蜘蛛のようだった。

 身体は黒く、目はないが、くぼんだ複数の眼窩(がんか)には赤い光を宿している。

 日頃よく見る大きさとは違い、その身は天井に届くほどの高さだった。


 その大蜘蛛(オオグモ)が、口から糸の束を吐いた。


「危ない!」


 ゼノが叫ぶと、少女はとっさに右へと転がり飛んだ。ゼノの頭上を糸が通る。


 岩が砕ける音がして、後方に首をひねれば床に大きな穴が開いていた。

 しかも白煙まで上がっている。

 かなりの豪速で床を穿ったのだろう。


 異臭を放つ糸をひっこめると大蜘蛛は天井に張りつき、ぎょろりと目玉を動かして、少女に狙いを定めた。


「こっちだ!」


「待って! ティアさんは──」


 無理やり少女の手を引いて廃倉庫の入り口まで走る。が、逃がさないとばかりに幾本もの黒い糸がドアの前に突き立てられた。


「チッ! なら、地下に──」


 急いで、地下へと続く階段に目を向ければ、すでにそちらも封鎖されていた。

 逃げ場がない。

 ほかにどこか──とゼノが瞬時にあたりへ視線を走らせると、少女がローブの袖をぐいっと引っ張ってきた。


「ねえあれ、おばけ? おばけだよねっ⁉」


「おばけ? いや──」


「ど、どどどどうしよう! わたし、おばけとかダメだの────っ!」


 ゼノの言葉をさえぎり、少女が半泣き顔で大蜘蛛を見上げた。

 身体を寄せてくるので、少し心臓に悪い。

 床に転がるモニカとティアをさっと一瞥してからゼノも天井を振り仰ぐ。


「落ちつけ、あれはお化けじゃない。蜘蛛だよ、蜘蛛」


「うそだ! だって髪? 糸みたいので出来た蜘蛛とか見たことないよ⁉ きみはある⁉」


「無い」


「でしょ⁉」


「そうだけど、あれはお化けじゃない。大丈夫。根拠は無いけどきっと違う。だからいったん落ちついて出口を探そう」


「うわーん。怖いよー」


 さっきまでの緊張感はどこへやら。

 少女は、「悪霊退散悪鬼退散オバケ退散」とぶつぶつとつぶやき始めた。

 だがまあ、自分も怖い。

 あんな巨大な蜘蛛がいるわけがないし、どうみても異形の類だろう。


 だけどそれを考えたら足が動かなくなる。

 ここはあれから逃げることだけを考えよう。

 ゼノは倉庫内を見渡した。


(そもそもここ。なんで壁に窓がないんだよ……!)


 天井にしか窓がない。

 一面を覆うガラス窓。

 そこには大蜘蛛が張り付いていて、風の腕輪で脱出しようにも、まずはあの大蜘蛛を何とかしなければならない。


 そこでふいに、ザザザとノイズのようなものが脳裏に走った。


 ──呪詛(じゅそ)。たたり。人を呪い殺す、禁じられたサクラナの古いまじない。


 発動すれば、対象者の命を取るまで止まらず、場合によっては術者の命すらも奪う諸刃の術だったはず。


 ではもし仮に、あれがティアの祈ったアルスの幸福ねがいのかたちだったとしたら?


 あの魔法陣は間違いなく良くないものだ。

 つまりここで対処しなければ、ラパン商会はおろか、アルス自身に災いが及ぶ、ということだ。

 ゼノは震える少女に告げた。


「……前言撤回。あいつと戦うぞ」


「え! あれと⁉」


「うん。多分あの蜘蛛、ここで仕留めないとアルスさんのところへ行くと思う。そうなれば、あの人の命が危ない」


「アルスの⁉ なんで……って、そうか呪詛の陣……」


 ぐっと唇を噛むと少女は苦しそうに剣を握った。


「知ってるのか」


「うん。わたしのお祖母様がサクラナ出身だから。似たような陣が書かれた書物をお祖母様の部屋で読んだことがあるの」


 少女はごくりと唾を飲みこんだあと、まっすぐと大蜘蛛を見据えた。


「そういうことなら何とかしなきゃだね!」


 ちょっと怖いけど。

 つぶやいて、少女が木剣を地面と水平に構えて姿勢を低くする。


「どうする? おばけに剣が効くかわからないけど、このままつっこんでみる?」


「いや、正面から叩くのはきつい。それに──」


 と、倒れるティアたちに視線を向けた時だった。


 ばんっと、背後で大きな音がした。

 振り向くと、水の柱が立ち昇る。

 大蜘蛛の糸はキラキラとした水滴をまとって、ふわりと地面に降り立った。


 封鎖されていた地下へと続く道が、突如開いたかと思えば、そこから這い出てきたのは深紅の姫君ことミツバだった。


「いた! おまえこんなところで何やってって──ひゃあああ! なにあれ、すごく怖いんですけどっ⁉」


「ミツバ」


「やっほー、僕もいるよ」


 ひらひらとリィグが手を振ってくる。

 いまのは彼の魔法か。

 ミツバは大蜘蛛に釘付けなのか、青い顔で大蜘蛛を見上げている。


「ちょうど良かった! 悪いふたりとも、モニカさんと……ティアを連れて外へ!」


「は⁉ お前はどうするの? あ、あのなんかよく分からないものと戦うの⁉」


「そうだよ! ──リィグ、急げ」


「りょーかい」


 リィグがモニカのもとへ走り、彼女を背負うと、続くようにミツバがティアのところまで走った。

 そこを狙って大蜘蛛が黒い糸を吐く。


「させるか!」


 ゼノは近くにあった油瓶(ゆびん)を投げた。

 がしゃんと耳を突く音ともにびんが割れ、糸に色の濃い油がついた。

 嫌がるように大蜘蛛が糸をひっこめる。


「ちょっと! あたしにまでかかった──ってまさか、死んで……?」


 ミツバが血まみれのティアを凝視する。


「あとで話すよ。ひとまず今は急いで逃げてくれ。頼む」


「……戻ったらちゃんと説明しなさいよ。あと、死ぬんじゃないわよっ」


 ミツバが地下に潜る。

 それを一瞥して、少女が離れた位置で大蜘蛛相手に吠える子犬によびかけた。


「シュバルツァー! あの人たちについていって!」


 子犬が、くぅんと心配そうな声を出す。


「大丈夫! それよりみんなのことを守ってあげて!」


「わんっ!」


 任せた、と言わんばかりに鳴いて、子犬も地下まで走っていった。

 最後にリィグが階段へと潜るところでゼノは彼を呼びとめた。


「リィグ! お前、火、出せるか⁉」


「火? もしかしてあれを燃やすの?」


「そう。勝算はあるか?」


「うーん。五分五分かな。本体が朽ちても、ここに残る怨念が消えない限りは難しいと思うけど。……だた、そうだね」


 ちらりとリィグが少女に目を向けた。


「彼女と一緒なら、なんとかなるんじゃないかな」


「わたし⁉」


「そう、君。なんでか、君のまわりの気だけは清浄だから、呪いの媒介となるものさえ壊せれば何とかなるんじゃないかな。幸いこのタイプは依り代があるからね。それごと燃やすといいよ」


「やっぱりあのハサミか。──で? 火は? ここじゃオレ、火の魔法は使えない」


 使えば、自分も少女も焼け死ぬことになる。

 いくら広い倉庫とはいえ、魔法を制御できない自分にとっては狭い場所だ。

 ゼノが問えば、リィグはすぐさま首を横に振った。


「ごめん。炎は僕の領分じゃないんだ。なんとか頑張って」


 それだけ言って、リィグは地下へと続く階段を降りていった。


(困ったな……)


 ちらりとあたりに置かれた油瓶を見る。

 古いものとはいえ、火をつければいい燃料になるだろう。

 大蜘蛛の原理は不明だが、少なくとも髪は燃えるから、かなり有効な手段となりうるはずだが……。


 飛んでくる糸をかわしながら、「火があれば」とゼノがつぶやくと、少女が服から何かを取り出した。


「それならわたし、これ持ってるよ」


 火棒箱(マッチばこ)だ。


「──! それでいい! オレが合図したら火を投げてくれ」


「わかった! でも何に使うの?」


「すぐにわかるよ! オレは右を走るから、そっちは左を行ってくれ。なるべく壁づたいに奥まで走って、いいって言うまで動き続けろ。──行くぞ!」


「う、うんっ! よくわかないけど、了解!」


 互いに頷き合い、勢いよく駆け出す。

 大蜘蛛は左右にわかれたゼノたちに戸惑ったのか、一瞬動きをとめる。

 しかしすぐに少女へ向かって糸を吐く。

 ひらりと少女がかわし、糸が床をうがった。


 その衝撃で、割れたつぼから油がこぼれて濡れた床へと広がっていく。


 今度は自分に向かって糸が飛んできた。

 頭をさげて避けきると、壁に糸がぶつかり、大きな音がした。

 だがつぼは割れない。

 それをもう一度繰り返すが壁に穴が開くだけだった。


(うまく当たらないな……でも!)


 小型のつぼを掴んで床に投げる。

 がしゃんと割れて、土の破片とともに油が舞う。

 そのあいだに少女が廃倉庫の奥までついたらしい。

 繰り出される攻撃を避けながら、動きをとめずに、こちらまで走ってきた。


「このあと、どうすればいい⁉」


 そう彼女が叫んだ時だ。

 大蜘蛛が痺れを切らしたのか、天井から降りてきた。

 ばあんと破裂するような着地音とともに、鋭い突風が吹き荒れる。次々と周囲の(かめ)が割れていく。


「──いまだ! 火をつけて水面に投げ入れろ!」


「水面⁉ わかった!」


 少女が火棒をすり、投げる。

 するとぼっと火の手があがり、瞬く間に水上を伝って炎が広がった。

 まるで燃え上がる海を見ているようだ。


 少女が息をのみ、ゼノはローブのすそで口元を覆った。

 鼻につく黒い煙。

 炎の隙間から、ぼろぼろと身体が崩れていく大蜘蛛を見守ると、やがておぞましい咆哮とともに悪しき化生は消え失せた。

 最後は灰すら残らなかった。


「──たお……した?」

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