86 信じる想い
強硬手段はよくない。
この状況で、それをやれば間違いなく少女が近づいた瞬間にティアはその鋭い歯牙を少女に突き立てることだろう。
なにより双方が救われない。
だからわずかな逡巡ののち、ゼノは言葉を選んでティアに伝えた。
「確かにさ」
「?」
ゼノの呼びかけにティアが虚ろな瞳を向ける。
「世の中、ズルしないと勝てないことばかりだよ。だから……、ティアの気持ちは分からなくもない。綺麗ごとだけで店がやれたら誰も苦労はしないし、邪魔な奴を消したくなるのも……まあ、生きていればふつうに思う感情だ」
もちろん実行するのはダメだが。
「だけどさ。オレ思うんだ。たとえ遠回りでも、まっすぐ走り続けた先に報われる奇跡を信じるのも案外楽しいもんだよ。そりゃ、報われないことのほうが多いし、最初に思い描いたものとは全然違うこともあるけど……、それでも、そっちのほうが勝ったときに百倍嬉しい、と思う」
だからなんだとでも問うように、ティアの瞳がじとりと動く。
「──清廉潔白。もしもアルスさんがなんのズルもせず、このまま実力だけで上まで行けたらそれこそ本物の商王になれるんじゃないか?」
そこまで言うと、やっと瞳に抵抗の色を宿してティアは口を開いた。
「……欺瞞、ですね。その志は立派ですが、身ぎれいなままでは商人は務まりませんよ。わたしはもう、落ちこむ会長を二度とは見たくない。だからこうして──」
「分かってるよ」
分かっている。
ティアがアルスを思ってやったことも。
商人の道が険しいことも。
これでも城で文官をやっているんだ、それぐらいよく解っている。
だからこそ、信じてほしかった。
ゼノはティアの瞳を見て、まっすぐ問いかけた。
「ティア、どうしてアルスさんのことを信じてやらないんだ?」
「……え?」
ティアがぽかんと口を開けて、目を瞬いた。
「お前が好きになった男は、少し転んだくらいで潰れるような腑抜けた奴なのか? 違うだろ?」
そう、アルスはあれでも強い。
なぜならミツバが髪を切られたとき、彼は真摯に彼女と向き合った。
素直に謝罪を口にして、己の過ちを認めた。
ふつうは出来ない。
逃げたくなる。
だって、アルスが悪いわけじゃない。
仮にあの場でミツバから責め立てられとしても、お前たちの油断が招いたミスだ、俺は悪くない、と言ってもよかったはずだ。
それでも、彼は怒鳴ることも、はぐらすことも、言い訳のひとつさえしなかった。
自分が依頼したことで、相手を危険な目に合わせてしまった。
そのことへの責任と失敗。
それから悔恨。
それらすべてを素直に受け入れて、自分の中で消化した。
反省できる人間は、前に進める。
次へ活かして、同じ轍を踏まないよう策を巡らせる。
だから上手く行く。
アルスには、もともと成功を掴む素質が備わっているのだ。
「あの人なら、どんなに失敗にしても取り返せるはずだ。現に一度店をたたんで再起できた。だったら万が一いまがダメなっても次がある。そしてその次もまた──。それでいつか、必ず成功を掴めるはずだ。だからそれまでティアは余計なことを考えずにただアルスさんのことを信じて支えてやればよかったんだよ」
ひたすら走って叶えばよし。
ダメでもきっと次がある。
何度転んでも立ちあがれる強さを彼は持っているのだと、最初からティア自身がアルスのことを強く信じていれば、こんな事件は起こらなかった。
加えて、アルスを独占したいという彼女の心も悪い方向へと加速させた。
すなわち、
「ティア、これはお前の心の弱さがまねいたものだ。落ちこむ姿を見るのがつらくても、他のやつに取られたとしても、そこから逃げずに相手の成功と、その幸せを祈れなかったお前の負けだよ」
はっきりと告げる。
「っ──」
ティアは悔しげに下を向いた。
そしてなにかを堪えるようにぐっと唇を噛みしめて、彼女は無言で動きを止めた。
ゼノは少女に視線を向ける。
なにか言いたげな表情で、一度口をもごもごと動かしてから少女は伏し目がちに口を開いた。
「──大丈夫、だよ?」
小さな、静かな声が心地のよい音を奏でる。
「アルスはそう簡単に負けたりしない。だって、ああみえてかなりの負けず嫌いだから。わたしの言葉じゃ説得力はないかもしれないけど、でも大丈夫。だから、そんなに心配しないで見守ってあげてほしい、な」
右腕に左の手を這わせて、所在なさげな様子で少女は言う。
ティアのことを直視できないのは、否定されるのが怖いからか、自信が無いからか。
ゼノは少女を一瞥して、ティアに告げた。
「ティア。アルスさんを信じてやれ」
信じてやってほしい。
それが歯がゆく、わずらわしいことだったとしても、彼女には信じ通していてほしい。
「信じることは願うことと同じだ。──大丈夫、ちゃんと届くからさ。こんな儀式なんかしなくても、ティアの祈りはきっといつか形になるよ」
だから、信じろ。
ティアの瞳を見て、強くそう言い放てば、彼女は目を見開いた。
「────」
数秒の間。彼女は無言のまま天を仰いだ。
そして、力なく笑うとぽつりと声をこぼした。
「そんなことは、言われなくても分かっているんですよ……」
その目尻には涙が溜まっている。
窓から冷たい夜風が入ってきて、彼女の淡い金髪を優しく揺らす。
風の音だけが、この場に満ちて、それほど長くはない時間だった。
「………」
すっとあがる細い腕。
どこか諦めたような、吹っ切れたような表情で、ティアは首を下げると、何も言わずにそろえた両腕を胸の前に掲げた。
少女がゼノを一瞥する。
ゼノが小さく頷き返すと、少女はティアに近づいて、静かにかしゃりと手錠を落とした。
抵抗はしない。
ティアはやっと敗北を認めたようだ。
(月……)
天窓を仰げば、雲影に隠れていた満月がひょっこりと現れて、ひと幕降りた決着に終わりを告げた。
ティアが少女の手を借りてゆっくりと立ち上がる。
金の髪が綺麗な青に染まっていく。
それを見て、ゼノはそういえば──と切り出した。
「そうだ、ティア」
「?」
ティアが振り向く。
その髪は、この港から見える海のように青々しくて、キラキラと輝いていた。
戦闘中、何度も視界に入ったそれは、さながら太陽を浴びた海面のごとく美しかった。
「ティアは嫌いだって言うけれど、その髪綺麗だよ。海雫草の花みたいだ」
ウソでも世辞でもない。
真に心に生じた感想だ。
だから自分のことを卑下せずに、まっすぐ前を向いて歩けばいい。
そんな想いをこめて告げた言葉は、視線を下にそらして言ったから、ティアの表情までは分からなかった。
けれど、息を呑む彼女の気配を感じて顔上げれば、その目端からはひと筋のしずくが流れ落ちていた。
「──────」
次第にぼろぼろと溢れ出し、彼女の白い頬を滑って地面を濡らす。
ゼノが何も言えずに呆気に取られていると、ティアはなぜか嬉しそうに笑って目尻の端を指でぬぐった。
「はっ……ははは……」
「ティ、ティア?」
ゼノが恐る恐る声をかけると、次第に「ははは!」と狂ったように夜空に向かって彼女は哄笑する。
ひとしきり声を上げて笑うと、
「……ふ、ふふ。そんな風に、褒めてもらったのは、ゼノさんで二人目ですね」
悲しそうに、切なげに、嬉しげに。
そして、愛おしそうに。
彼女はいつもと同じやさしい笑顔で微笑んだ。
「どうぞ、連れて行ってください。──もう、思い残すことはありませんから」
今度こそ、くもりなき晴れやかな笑みで彼女は言った。
そうしてクレハに手を引かれ、ティアが足を踏み出すと、音もなく現れた黒い突起が彼女の背後から胸を貫いた。
海雫草→ローズマリー




