70 倉庫の影
「シュバルツァー!」
歩くこと数十分。姿の見えない子犬を探して、港の倉庫街を歩く。
さっきまでいた場所とは違い、古びた建物が並んでいる。
潮風で劣化した壁。
錆びついた扉。
観光場所から一歩それると寂れているのはどこも同じだ。
ゼノはさっと首をめぐらせ、あたりを確認する。
(……いた)
廃倉庫の古びた扉の前に、白い子犬を見つけた。
嬉しそうに尾を振って、何かを口にしている。
こちらには気づいていないらしく、近づいても顔をあげなかった。
「なに、食ってんだ? シュバルツァー」
「わん!」
「……クッキー?」
みれば、ぼりぼりという音と共に、食い散らされたクッキーの欠片が地面に落ちている。
しかも魚型だ。
見覚えのある、というよりも、フィーの土産にと先刻買ったやつと同じものだった。
「……? 誰かにもらったのか?」
こんな場所で?
不思議に思い、ゼノが首をかしげると、子犬は食べ終わって満足したのか、その場にこてんと寝転んだ。
(いや、ここで寝るなよ)
自由すぎる。
半分呆れながら子犬をすくいあげ、その場から立ち去ろうとする。
だが、ゼノはそれが出来なかった。
(———っ!)
しゅるり。ゆらり。
廃倉庫の窓に、黒い影のようなものが映っている。
——いや、違う。
正確には一瞬だけ影のようなものがみ視えて、瞬いた次には消えていた。
(気の……せいだよな?)
ぞっと背筋がこわばる。
嫌なものを見てしまった。
直観的にそう思う。
しかし、自分は幽見の眼などは持ってはいないし、いまのは物理的なもの……だと信じたい。
ゼノはすくんだ足を奮い立たせ、全速力で恐怖から遠ざかった。
◇
「あ、マスター。意外と早かったね」
観光場所へ戻ると、リィグが黒いソフトクリームを片手に、こちらへ駆けてきた。
お前さっき昼食とったばかりだろと思えば、すこし離れたところでは、ミツバもアイスを食べながら道行くひとに何かの紙を見せていた。
「ゼノさん、大丈夫ですか? すこし顔色が悪いような……」
ティアが心配そうに近寄ってくる。
その手には当然アイス。
(つっこまない……)
心にそう決めて、ゼノはなんでもないように笑ってみせた。
「大丈夫。急いできたから、すこし疲れただけだよ」
「そうですか。でしたら、なにかお飲みでも買ってきますね」
「ありがとう」
ティアが近くの露店の列に並んだ。
その間、ゼノは子犬を膝に乗せ、近くの長椅子に腰かける。
隣にリィグが座って、ゼノの顔を覗きこんできた。
「ほんとに平気? すごく顔青いよマスター。怖いものでも見た?」
「ちょっとな。なんか変な影を見てさ」
「影?」
「うん。こう、細長くて黒い触手のような影。それが廃倉庫の窓にうつってた。見間違いだと思うけど、すごく嫌な感じがしたんだよなぁ」
冷えた指先と、ひどい疲労感。
いまだにバクバクといっている心臓。
身体の奥底では、寒さと気持ち悪さが同時に渦巻いている。
深く息をすって、呼吸を整えても、手にぬくもりが戻らない。
「はぁ……」
額に手をあて俯くと、急に頭上から影が覆いかぶさった。
「戻ってきたのなら声、かけなさいよ」
「ああ、悪い」
顔をあげると、少しむすっとした顔のミツバが立っていた。
「どうだった? なにか手がかりは見つかったか?」
「全然ね。みんな髪切り犯のことは知っているけれど、肝心の犯人像みたいなものは分からないみたい。一応、おまえが言っていた自警団の連中にも話を聞いてみたけれど、怪しそうな奴はいなかったわ」
「そっか」
「ま、こういうのは地道に情報を集めるしかないよねー」
リィグが空を見上げて呟いた。
そこに飲み物を持ったティアが戻ってくる。
「どうぞ。秋りんごのジュースです」
なみなみと木のコップにそそがれた乳白色の液体。
爽やかな甘い香りが、採れたての果実の新鮮さを教えてくれる。
「………りんご」
嫌いな果実で作った飲み物。
この状態で飲めとはなかなかなに鬼畜の所業だが、彼女はゼノがりんご嫌いだということ知らないのだから仕方がない。
ゼノは礼を言って、素直に受けとった。
(まあ、固形じゃないだけましか)
ぐっと一気にあおって飲み干すと、隣から「いい飲みっぷり」と合いの手が入った。リィグは知ってて、言っているから始末が悪い。




