59 走るときは前を見よう
「王子ー! 王子ー! ってそうだ、名前」
うっかりしていた。
ゼノは呼び名を切替え、走りながら叫んだ。
「ライ様ー! 坊ちゃん! どこですかー⁉」
返事が無い。
思ったよりも足の速い王子にゼノは辟易した。
「あー、くそ。ほんとどこに行って──」
「わっ!」
「──へっ?」
どすんと、うしろから何かがぶつかってきた。
一瞬、こけそうになって足を踏みしめると、すぐに自分の脇から、勢いよく何かが飛び出した。
「うきゃあ!」
「っ! 危ない!」
とっさに手を伸ばす。
しかし、間にあわない。
次の瞬間に見えた光景は、髪の長い少女が地面に転がる姿だった。
「……って、ええ⁉」
ごろごろと三回転。
勢いよく、華麗な転がりをみせた少女は、ゼノの助けが間に合わなかったばかりに、最後にはずざーっと滑って、この先の樽山に激突した。
「いたたた……」
身体をむくりと起こして、頭をさする少女。
見たところミツバと同じくらいの年齢か。
腰まで伸びた栗色の髪に、半袖のジャケットとショートパンツ。
服から伸びたすらっとした肢体は猫のようにしなやかだ。
じんわりと目に涙を溜めているようすから、相当に痛かったのだろう。
ゼノは彼女に手を差し出した。
少女はゼノの手を借りて立ちあがると、ありがとう、と言った。
「大丈夫か?」
「うん、大丈夫。それよりもごめんなさい。君に怪我はない?」
「ああ、オレは無いけど……」
「そっか、なら良かった」
少女がふわっと笑う。
優しく細められた瞳は、グラスに入れたチェリー酒のように、きらきらと輝いている。
きっとこんな状況じゃなかったら、純粋に綺麗だなと思っていたことだろう。
彼女の膝から、だらだらと血が流れていなければ。
「あの、それ……」
ゼノは少女の膝に指を向けた。
見るからに痛そうな擦り傷。
破れた黒地のタイツから、溢れる泉のように流血している。
あれでは傷口を縫う必要がありそうだ。
しかも、ぽたぽたと地面に血が落ちて、一歩間違えたらここが事件現場のようになっている。
「あ、これ? 大丈夫だよ。それより、わたしもう行かなきゃ。じゃあね」
「え、ちょっと!」
行ってしまった。
少女はゼノが止めるのも聞かずに、そのまま通りの脇道へと入っていった。
おかげで血痕が点々と路地裏まで続いていて物騒極まりない。
「嘘だろ……あの傷、相当痛いぞ?」
世の中には我慢強い人がいる。
だけどあれは何というか……ちゃんと治療したほうがいいいと思う。
そんなことを考えながら、呆然と突っ立っていると、うしろから聞き慣れた声が耳に届いた。
「こんなところで何をしておる」
「あ、ライ坊ちゃん」
「は? 坊ちゃん?」
「王……ライさま」
王子が通りの物陰から顔を出した。
フィーもいる。
「血痕……? ここでなにかあったのか?」
ほら、やっぱり。
ゼノは心中で「だよね」と突っこみを入れた。
「少し人とぶつかっただけです。それよりも王子。先に行かれると困るんですけど。イナキアは広いし、迷子にでもなられたら探すのが大変なので……」
(また誘拐にでも遭ったら困るし)
あんな面倒ごとはもう御免だ。
そう思うゼノだが、こちらの想いなど知らんとばかりに、ばっさりと返された。
「来るのが遅いおまえが悪い」
「……はい」
泣きたくなった。
「それで。姉上とリィグはどうした」
「あー、たぶん遅れてくるとは思うんですけど、ミツバが宿に行きたいって言って」
「ふむ。宿もいいが、まずは金を換えないと入れんだろう」
「換える? 何に?」
「イナキアの金に、だ」
「そっか。うちの通貨は使えないのか……」
ここは外国だ。
ユーハルドとは流通する貨幣が違うから、一度イナキアのものに換える必要がある。
となれば、行先はおのずと決まってくる。
「じゃあ、換金所に行かないと」
「そういうことだ。さっさと行くぞ。場所はこの先の通りにある」
「わかりました」
王子のあとをついていき、換金所へ向かう。
歩き出して、ちょうど先ほどの少女が入っていった裏路地の前を通った時だ。
「────っ!」
ぞくりと、嫌な気配がした。
まるで何かが身体にまとわりつくような。ねっとりとした不快感。
(なんだ、これ……)
悪寒がする。
ぞわぞわと、氷のように冷たい何かが地面から這いあがってくるこの感じ。
とにかく寒さと気持ち悪さが合わさった、なんともいえない気分の悪い感覚だった。
これは一体……?
「路地裏の奥……か?」
なんとなく気配をたどると、路地裏の奥から伸びているようだった。
どうしよう。
行くべきか、無視するべきか。
ゼノはその場に立ち止まり悩んだ。
感に頼るのなら近づかないほうがいい。
だが、あの少女はどうなる。
この先で待つものを予感して、ゼノは勢いよく顔をあげた。
「王子! オレ!」
静かな路地。
あれ? 王子、いない。
もちろんフィーも。
「……またいないよ」
がっくりと肩を落とし、『まぁいいや、勝手に行こう』とゼノは路地裏に足を向けた。
なんとくだけれど、あの子を助けたいなと思ったから。
◇
裏路地に入ると、表の通りとは違う独特の汚さがあった。
無造作に置かれた木材やら殻のボトルとザラっとした空気。
海が近い街ということもあって、潮気の含んだ湿っぽさが充満している。
(結構、奥まで続いてんな……)
歩くこと十分程度。
迷路のような作りの通りに、いったん引き返そうかと半歩うしろに足を引いた時のことだ。
「誰か! 助けてっ!」
緊迫した叫び声。
ゼノは弾けるように走りだした。
「おい、どこだ! この先に誰かいるのか⁉」
問いかければ、細い声が返ってきた。
「っ! ここです! 髪切り犯が──いやぁ!」
(……っ!)
さらに足を早める。
途端、深い霧が立ち込めてくる。
だんだんと近づく悲鳴に、ルイスから聞いた話を思い出す。
たしかいま、商都では女の髪を狙った通り魔が現れるのだと。
(ついた!)
だが、霧のせいで何も見えない。
たたっと誰かが走り去る音がして、徐々に霧が薄れていった。
そこで見えたものは金の糸だった。
「……なっ」
金の髪。
それが大量に散らばっている。
「……っ、ひっく……」
高い壁の前で、女がひとり頭を抱えてうずくまっている。
それを見て、ここが行き止まりだと気がついた。
彼女のすぐ側には、金糸をまとった黒いハサミが落ちている。
「──っ……ひぐっ」
「……あ」
思わず言葉に詰まる。
震える肩。聴こえてくる小さな嗚咽。
頭が真っ白になる。
なんて声をかけたらいいかと悩み、躊躇いがちに『大丈夫か』と口に出そうとしたとき、それは甲高い声に遮られた。
「何があったの⁉」
「っ! ミツバ⁉」
振り向くと後方、焦ったようすのミツバが立っている。
やや遅れてリィグが到着した。
「あ、マスターだ。やっほー」
のんきに手を振っている。
お前、この状況でそれはないだろう。
「悲鳴が聞こえたから走ってきたけど──って、まさかその髪、例の髪切り魔⁉」
ミツバが地面に落ちたハサミを拾って、あたりに散らばる髪を見た。
「たぶんそう、いま──」
「多分って馬鹿! なんで犯人つかまえないのよ!」
「いや、そういわれても! オレが来たときには霧が酷くてっ」
激昂するミツバに言い返しながら、ゼノは女を横目で見た。
(良かった。怪我はないみたいだ)
幸い目立った外傷はない。
髪こそ短いが、ひとまず安堵の息を吐く。
「大丈夫か?」
「あっ……」
ゼノが側にしゃがむと、彼女は顔をあげた。見たところ二十歳前後だろうか。
オレンジ色のふんわりとしたブラウスに、白いロングスカートを着た大人しそうな子だった。
月明りのように淡い金髪が、肩よりも上でぶつ切りになっている。
ゼノが彼女の手を取り、立ち上がらせると、リィグが彼女に名前を聞いた。
「君、名前は?」
「わたしはティア……ティア・コニーと申します。助けに来てくれてありがとうございます」
彼女──ティアが、か細い声で名乗って頭をさげる。
ぽたりと目から涙が零れた。
もっと早く駆けつけることが出来ていれば。
痛々しいその姿にゼノは顔を伏せた。
輝く金髪が、石畳の上に散乱している。
「ちょっと」
「……? どうした」
顔を上げると、不機嫌そうな面で腕を組むミツバが真横に立っていた。
視線の先はゼノの手。
あっと思って、慌ててゼノがティアの手を離すと、ミツバはむっとした声色で彼女を叱り始めた。
「お前もお前よ。なんでこんなところにいるわけ? ああいうのはね、人通りのあるところなら起きないんだから、ちゃんと大通りを歩きなさいな!」
「す、すみません……」
いきなり怒鳴られて、びくりと肩を震わせるティア。
(さすがにそれは可哀想だろう……)
髪切り犯に遭遇して、怖い想いをしたところに、この叱責。
言い方というものがあるだろうに。
手厳しいミツバにゼノは眉を寄せた。
「おい、なにもそんなに怒らなくても」
「だって見ていてイライラするんだもの。どこぞのリーアみたいで」
「ええ……、リフィリア姫は関係ないだろ」
「ふんっ」
ミツバが顔を背ける。
ティアにも、当然かの姫にも失礼である。
態度の悪い彼女に困っていると、ゼノたちを諫めるようにリィグが間に入った。
「まぁまぁ落ち着きなよ、ふたりとも。ここにいても何だし、とりあえずどっかお店にでも入ろうよ?」
そのひと声で近くの料理屋に入った。




