34 リィグとの契約
「──いつっ!」
背中を木に打ちつけた。
詰まる呼吸とともに土を握り、薄くまぶたを開けて前を見れば、白髪の男が立っていた。
「ペリード……なのか?」
短いはずの彼の髪が、みるみるうちに伸びていく。
白い髪。
ばさりと腰まで伸びてとまった。
まるで獣のたてがみのようだ。
瞳も赤い。
爛々と不気味に光るそのさまは貧民街で戦ったあの大男の姿を彷彿させた。
「ああ、最高だ。気分が高揚するよ! いまの僕なら兄さんたちをも超えられる……!」
ペリードが声高に叫ぶ。
ぎらついた眼と邪悪に歪んだ笑み。いつもの彼とは違う。
狂気に満ちた表情に、思わず一歩あとずさる。
「すごいや、変身したよ」
リィグがこちらに駆け寄りながら目を丸くした。
「でもあれはまずいね。光蝶たちが怖がってる」
「光蝶?」
リィグの言葉にペリードから視線を外せば、火の粉が舞う中を光蝶たちが慌ただしく飛び交っている。
あんな場所にいて、あいつら燃えないのか?
実体があってないような光蝶にそんな心配などいらないだろうが、疑問くらいには思う。
「どうしちゃったの? あれ」
リィグが指さす先には声をあげて笑う狂人がいる。
「魔狂薬。禁忌の薬だ。国が指定する禁制品のひとつに、故意に魔力暴走を起こさせるものがあるって聞いたことがある」
「魔力暴走? 体内のマナバランスを狂わせるってこと?」
マナ?
聞いたことのない名前だ。
「マナって?」
「きらきら光る星霊粒子……ってそっか、流石に人の目には見えないか。魔法を使う時に必要なものなんだけど、とにかくそれが狂うってこと?」
「……? 多分、そうかな。さっき言った秘薬が一時的に魔力を高めるものなら、こっちは体内魔力を狂わせて極限まで力を引き出すもの。桁違いの魔力が放出されていたのも、それが理由だったんだ」
もう少し早く気づいていれば、対処が出来たものを。
後悔にぎしっと奥歯を噛む。
「もしかしなくても、かなりよくない状況?」
「よくないどころか最悪だ」
あれは、死を招く禁薬だ。
「灰化病っていう魔力崩壊を起こす病があるんだけど、あの薬はそれを引き起こす。魔力が暴走して、一気に魔力を放出したあと、運が悪いと灰になって身体が崩れるんだ」
「うわぁ……怖い病気だね、それ」
そうだ。だからこそ、そうなる前に止めなければならない。
「────」
ふいに、ペリードの笑い声がとまった。
何かと思い彼を見れば、地面に手をついて顔を伏せている。
「ペリード?」
名前を呼ぶ。
けれど応えはない。それどころか、
「がぁああああああああ!」
「な、なんだ⁉」
頭を抱え、急に苦しみ出した。
口から発するそれはもう、自我を失っているように見える。
なにを言っているのか理解ができない。
苦しい。
ただそれだけが、彼から伝わってくる。
「もう限界って感じかな」
リィグが残念そうにつぶやいた。
(どうする……)
あの様子。
かなりの魔力が膨れ上がっている。
周囲を焦がすほどの熱気を包んだ魔力の奔流が、さらに勢いを増して拡大していく。
あのままあれを放置すれば、魔力は放出され、ここら一帯が焼け野原となるだろう。
そう。あのとき森を焼いた、自分のように。
「クソッ!」
思い出される光景と、これから起こると予測される未来に、ひどく焦りを感じる。
これは、あくまで可能性の話だ。
このあと彼から放たれるだろう魔力の塊が、どこにいるのかもわからない、王子たちに届いたらどうなる?
確実に死ぬ。
軽傷で済めばいいが、おそらくそうはいかない。
自分だけなら何とかなる。
隣の少年を連れて、ペリードの魔力が暴発するタイミンングにあわせ、風の腕輪で上空に飛び上がればいい。だけど王子たちは──
(……どうせもう、あれは助からない)
だったらいっそ、魔力の源を潰したほうが早い。
生かしておいても、このさき敵になる男だ。王子の敵。
──そうだ。敵は排除しなければ。
暗い湖の底。
まるで水底に沈んでいくような感覚に、心がスッと冷えていく。
〈面倒だ。いっそ殺すか〉
つめたい声が、自身の口からすべり落ちた──
「殺すの?」
「──っ!」
ぱっと光が差しこんだ。
リィグが自分の顔を覗きこんでいる。
闇に溶けた意識が、ぶくぶくと泡を立てて浮上する。
「あ、いや……」
違う。そうじゃない。
まだ間に合う。助けられる。きっと大丈夫だ。
なのになぜ、オレはいま諦めた?
「……っ」
血のついた槍の切っ先に目を落とし、ゼノは頭を振った。
「時間がない。ひとまずアイツを助ける。上の竜をうまく避けて、オレとお前でペリードを気絶させる」
「気絶って……、無理じゃない? あんな状態じゃあ、どのみちもう助からないよ」
上空の火竜に氷矢を放つリィグの先に、地面をのたうち回わるペリードの姿が見える。
髪の先から、かすかに風に乗る粒子。
薬学書で読んだ内容と一致している。
もう時間がない。
「助ける」
「なんで? 別に彼、友達じゃないんでしょ? だったら放っておいて、さっさとここから逃げようよ。なんか危ないみたいだし」
リィグがゼノのローブをひっぱる。
「駄目だ。このままだと王子たちに危険が及ぶ。それに──」
──僕の友人です。
この前、アイツが言っていた。
「あんなんでもあの馬鹿は、オレことを友人だって言ったんだ。いつもうるさいし、面倒なやつだけど、このまま放っておくわけにはいかない」
アイツはサフィールの部下で王子の敵だ。
本来ならば助けるどころか、このまま命を奪ったほうが都合がいい。
(だけど……)
友人と呼ばれたことが嬉しかったわけじゃない。ただ少し、心地よかったから──
苦しむペリードを強く見据えてゼノは言う。
「さっきお前、言ってただろ」
「?」
「友人は大切にしろ。──そうだろう? リィグ」
ゼノが不敵に笑って見せれば、リィグは大きく目を見開いた。
そして「友達……」とつぶやいて、空を見上げる。
迷うようなほんのわずかな逡巡。
一瞬だけ、もの悲しそうな顔をしたあと、ひとつ頷いてリィグがこちらを見た。
「手、出して」
「手?」
リィグに言われ、左手を前に出す。
その上にリィグの手が重なる。
「あとでちゃんとお菓子ちょうだいね? それが契約の貢ぎ物だから」
「は? 契や──、っ⁉」
──ドクンッ。
鼓動がする。右手に重なったリィグの手。
そこから熱い波がつたわってきて、身体の奥でどくりと脈が跳ねた。
なにかくる。
さざ波のような音とひとつの声。
ぼんやりとした一枚の絵が、脳裏に流れてきた。




