120 月下のクレハは綺麗だった(1/2)
「あー……、痛かった」
ずっと眠っていたからか、軽く肩を回した拍子に腕をやった。
右腕の外側。
肩から腕にかけてつるというかなんというか、ともかく痛かった。
ひとまず痛みが引いてきたので、窓のへりにぐったりと身体を預けてゼノは外を眺めた。
冬は空気が澄んでいるから星がよく見える。
綺麗だなと夜空を見上げていると、宿の下を白いなにかが通っていった。
シュバルツァーだ。
相変わらず、たったかたーと身軽に走り去る子犬に『え? こんな真夜中に?』とゼノは首をひねる。
クレハは一緒ではないようだが散歩だろうか。
ゼノは宿を出て子犬を追いかけた。
別に放っておいても大丈夫だとは思うけれど、万が一ということもある。
野犬に噛まれた無惨な子犬の姿など見たくはないし、なによりクレハが悲しむ。
灯りの乏しい路地を行き、暗闇の先に目を凝らす。
あの白い毛並みは闇夜の中でもよく目立つ。あわせて静かな夜だから子犬の軽い足音がよく聴こえる。
おかげですぐ見つかった。
「どうした? こんな深夜に。クレハのところに返らないと心配するんじゃないか?」
「わん!」
「うん、わかった。夜だから静かにな? で、どこに行くつもりだったんだ?」
「わんっ、わんっ!」
「ちょっ⁉ シュバルツァー、だから静かに──」
「……ゼノ様?」
嬉しそうにじゃれつく子犬の鼻先を右手で押しのけると、うしろから凛とした声がかかった。
クレハだ。
キョトンとした顔で子犬と戯れるゼノを崖の上から見下ろしている。
「クレハ? なんでこんなところに?」
この辺りは廃墟区だ。
宿屋のある表通りから一本、中に入った暗い路地。
そこを抜けると廃材転がる旧住宅街が広がっている。
その昔、この町には多くの職人たちが住んでいた。
しかし時代が経つにつれてその数も減少し、いまでは使われずに放置された住宅跡地がそこかしこにあるのだと、シスタスに向かう途中でクレハが話していた。
子犬を抱き上げ朽ちた外壁をつたい、クレハがいる崖上まで移動する。
緑の苔に覆われた、石造りの屋根の上。
前方に広がる朽ちた住居の数々。
廃屋の上から眺める光景は、夜の静けさも相まってよりいっそう寂しげな印象を受けた。
「──で? クレハはこんなところでなにしてたんだ?」
ゼノが子犬を差し出すとクレハは不思議そうに目をぱちぱちとさせて首を曲げた。
「私? 私はね、ここで剣の稽古をしてたんだけど……。ゼノ様は夜のお散歩? だったら南の区画だよ。娼館は向こうにあるからこっちだと真逆だね」
娼館?
まさかクレハの口からそんな言葉が飛び出すとは思わず、ゼノは一瞬時が止まった。
すぐに思考が回転し、ぶんぶんと頭を振って否定する。
「娼館⁉ ち、違う違うっ! シュバルツァー見かけて追いかけてきただけだから! そんなところに用はないから‼」
「そうなの? じゃあ賭博のほう? それなら娼館と同じ歓楽街の通りにあるよ」
「とばっ、ちが……クレハ、人の話きいてる⁉」
「? 大丈夫だよ? 男の人がそういうところ好きなの知ってるから。お爺様もよくフィーティア神話に出てくる異郷みたいな楽園だって言ってるし、別に隠さなくても驚いたりはしないよ」
「隠してないし好きじゃないし、それからその話フィーティアに怒られるぞ……」
とんだ勘違いにがっくりと肩を落とす。
クレハの中での自分のイメージって一体……。
少しばかり消沈するゼノから子犬を受け取り、クレハは綺麗な笑顔で「ありがとう」と口にする。
それから「みんながそうってわけじゃないんだね。確かにアルスも同じこと言ってたっけ」と笑っていた。
無事に誤解が溶けたようでなによりである。
「今日はとくべつ綺麗だね、お月さま」
「そうだね」
天上に散りばめられた星々の下。淡い月の光が彼女を包む。
きらきらとした美しい紅星の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥り、ゼノは思わず彼女の瞳から目をそらした。
だけど、なぜだろう。
長い栗毛の髪がさらさらと夜風に躍るたびに、つい目で追ってしまう自分がいるのだ。
「知ってる? あの赤い星はね、竜王星、アークリーゼって言うんだよ」
赤い星を指して、クレハが嬉々と語りだす。
「その隣が海竜星メレディア。フィーティア神話に出てくる緑竜様の星で、向こうの青星が天竜星ヴィクタラン。そして、あれが──」
「冥竜星。ゼノスの星」
「そうそう! ゼノ様、星の名前詳しいね。お兄ちゃんと一緒だ」
クレハが笑ってぽんと両手を合わせる。
「せっかくだから座る? 一緒に夜空を眺めようよ」
屋根の端へと移動するとクレハは腰をおろして、ぽんぽんと隣を叩いた。
ふたりでぶらぶらと宙に足を放り出して夜空を見上げる。
月だか星だかなにやらに、釘付けになっている様子のクレハを横目で見てからゼノは目元を指で押さえた。
(気のせい、だよな?)
一瞬だけここが、ノーグ城の見張り塔から見える景色に見えた。
赤い星が瞬く夜空。
おそらく夏。
隣で星の名前を言い当てる誰かがいた。
それがクレハと重なりつい答えてしまったけれど──
(──ん? ってことはあれ? クレハが言ってたの全部、いまの季節じゃ見えない星だよな……)
再び隣を見る。
膝に子犬を乗せて鼻唄をさえずるクレハの姿。
(──まあ、いいか)
わざわざ指摘して、楽しい気分を壊しても可哀想だ。
ゼノは口をつぐんでおいた。
クレハが身体を揺らして心地のよい音を口ずさむ。
「らーら、らーら。らららぁーららららー。ら、らー、らぁらーらーららー」
歌詞はない。
けれど、どこか懐かしくも感じるその音律に、ゼノはクレハに首を向ける。
「それ、なんの曲?」
「亡くなったおばあちゃんが好きだった歌。サクラナの古い詩歌なんだって」
「ああ、そういえばサクラナの出身なんだっけ、クレハのばあちゃん」
「そうだよ。貿易でサクラナに来てたお爺様に見初められて海を渡ってイナキアまで嫁いだんだって。だから、ウチでは昔からサクラナの交易品をいっぱい扱ってるんだ。島が無くなっちゃったあとも、独自で作った商品なんかを販売してるんだよ」
酒とか、菓子とか。
とくに最近は『子犬まんじゅう』なる商品が飛ぶように売れているらしい。
看板商品だとクレハは語る。
どうでもいいが、まんじゅうの売り上げがいちばんとかアウロラ商会の未来が心配だ。
「商都でカガリに泊まったんでしょ? あそこの宿の名前はおばあちゃんの名前からつけたんだよ」
「へー、どおりで宿のあちこちに灯篭があったわけだ」
ざらざらとした薄い紙で出来た四角い箱。
その中には油が入った皿が置かれ、小さな火が灯っていた。
薄明りの篝火。
宿の廊下をぼんやりと照らす灯篭は、なかなかに幻想的な光景だった。
「あの宿ね、ふつうに泊まると一泊五千ラビーはするんだよ? お小遣い貯めてやっと手が届く贅沢宿。だから、ゼノ様いいなぁ」
タダで泊まれてうらやましいよ、とぼやくクレハにゼノは思わず「たっか!」と叫ぶ。
ちなみに、クレハが宿泊するときであっても特別価格は適応されない。
娘からもきっちり料金を取るヒューゴは意外とシビアである。
「小さい頃はね。お父様の仕事の都合でイナキア内を転々としてたから、商都に来るたびにその宿にはお世話になったんだ。その頃はまだ弟と……お母様も一緒でね。カガリのご飯はすごく美味しいから、いつもいっぱいおかわりしてお母様によく節度をもちなさいって怒られたっけ。でも、そのたびにおばあ様が『いいのですよ、元気な証拠ですから。もっと食べなさい』って言って、煮物とか分けてくれたんだー」
「へぇ、いい思い出だな」
たくさん食べる幼少期のクレハを想像してゼノは思わず笑みがこぼれた。
「そういえば、クレハの母さんってどんな人なの?」
ここのチャプター長いので二ページに分けます。




