94 クレハさん再び
湖島から宿に戻ると、ミツバたちはまだ帰っていなかった。
もうじき外は暗くなる。
ちゃんと夕方までには帰ってきなさいと、リィグに伝えるべきだった。
ゼノは宿のラウンジで軽食を取りながら、ぼんやりとふたりの帰りを待っていた。
「ゼノ、これ、は……?」
「ん? それは『湖』な」
対面に座るフィーが本を見せてきた。
ウェナン王の大冒険。
最近の彼女のお気に入りの一冊らしく、こうしてよく持ち歩いているようだ。
あれから王子は寄るところがあるからと言ってどこかに行ってしまった。
夜遊びだろうか。
珍しく置いていかれたフィーがしゅんとしていたから声をかけたら豪華なデザートセットを奢らされた。
もぐもぐと、ケーキの盛り合わせを平らげながらゼノの傍らで楽しそうに本を読んでいる。
しかし、読めない文字が多いのか、ときおり顔をしかめているので、ゼノは彼女に字の読み方を教えてやっていた。
「ひかる……みず、うみ……」
「さっき行ったとこ。たぶんここに書かれている『輝く湖』って、あのベル湖のことだと思うよ。ベルって古い言葉で『光』とか『輝く』とか、そんな意味合いだし」
ちょうどフィーが読んでいるのは、さきほど足を運んだベル湖が出てくるシーンだ。
宝剣の故郷を見たいと言ったウェナン王。
あっさりと洞窟まで到達するが、その帰りにひどい吹雪に見舞われる。
そうして現れた謎の敵。
幻術を使う弓使いに翻弄され──といった内容である。
「もり……たみ」
「森族のことだよ」
「しんぞく?」
「たまに民話に出てくる森の妖精。人によく似た外見で、だけど年を取らなくて、耳の先が尖っていてーとかなんとかってやつ。一説には神の眷属、あるいは神そのもので、高度な魔法を使うんだとさ。そこに出てくる謎の弓使いは、おそらくその森族だろうって言われているよ」
小首をかしげるフィーにゼノはスコーンを見せる。
「いつも、森に入るときに菓子を用意するだろ?」
「ん。クッキー」
「そ。クッキーとかスコーンとか。元は森に棲むそいつらの機嫌を取るために菓子を供えようってことから始まった慣習らしくてさ。なんでも人の心を読んで、幻を見せて、森の中で迷わせるんだと。いたずら好きの魔精とも言われているな」
「ませい……まぞく?」
「まぞく? なにそれ」
「赤い目、してる……やつら。ライアスと、一緒。……ゼノも」
「ああ……」
ライアス王子の瞳は紫色だが、光の加減によってときおり赤に見えることがある。
それはゼノも同じで、普段は真昼の太陽みたいな明るいオレンジ色をしているが、たまに黄昏時の夕陽の色に変わることがあるらしい。
フィーが言っているのはそのことだろう。
「瞳の色はその人が持つ魔力の量を表すからな。潜在的に有する魔力量が多ければ、瞳の色が赤くなるし、少なければ青に近くなる。黒とかは混沌色って言われていて、見た目ではわからないけれど……、昔の人たちはそれで魔力の強さを計ったそうだよ」
ユーハルド王家には、異郷返りの血が入っている。
王子は『魔法は使えない』と話していたが、潜在的に魔力を持っていてもおかしくはない。
それを伝えると、フィーはきょとんした顔で目をぱちぱちとしばたたかせた。
(ちょっと説明が難しかったか……)
ゼノは苦笑しつつ、昔のことを思い出す。
自分もこんな風にシオンからよく文字の読み書きを教えてもらっていた。
ときおりこうして伝承を交えながら話してくれたが、きっと当時の自分も目の前の彼女のように難しい顔をして聞いていたに違いない。
あの頃の自分と重ねて、つい口元が緩んでしまう。
「これ、は?」
フィーが本の挿絵を指でなぞる。
湖のほとりに立つ、長いひげを携えた魔導師の挿絵。
そのまわりには、光り輝く光蝶たちが描かれている。
「それは大祭司オーゼン。ほら、洞窟で王子が話してた──って、フィーは寝てたんだっけ、さっき」
「ん、子犬、も、一緒に……寝てた」
空いた椅子の上で眠りこける子犬を一瞥してゼノは逸れた話を戻す。
「ユーハルドの初代大祭司。いまでいう王佐……ロイドみたいな立場の魔導師がいたんだけど、ほら、『悪い子にはオーゼンが来るぞ』って言うだろ? 不死蝶の魔導師オーゼン・アンブローズっていえば、逸話こそ少ないけれどけっこう有名な人だよ」
「おーぜん……ここ、にも……書いて、ある……」
フィーが本を閉じて表紙を見せてくる。
オーゼン・フィラ。
著者名が同じだと言いたいのだろう。
まあ、ウェナン王を本の題材にするあたり、おそらくは作者の遊び心。
シオンやロイドのように、伝承や民話が好きな奴が書いたのかもしれない。
そう伝えようとして、ゼノが口を開いた時だ。
「それはたぶん──」
「あれ⁉ ゼノ様?」
「?」
凛としていて、よく通る声。
本から顔を上げると、ロビーの先で目を丸くするクレハが立っていた。
煌びやかな秋色ドレス。
長い裾をたくし上げ、いまにも走り出しそうな雰囲気だ。
否、こちらに向かって駆けてきた。
荒い息遣いと上気した頬。
鬼気迫る顔だが、何かあったのだろうか?
(いや、それ以前になんでここに?)
ゼノは驚いて、少しばかり声が上擦ってしまった。
「クレハ⁉ ──って、そっか。シュバルツァーがいるからいるのか……」
「シュバルツァー? あれ? ほんとだ。なんでここに……あっ! ご、ごめん! ちょっとだけ机の下に隠れてもいいかな⁉」
「ど、どうぞ……」
ゼノが頷くと、クレハは素早く机の下に潜った。
テーブルクロスがめくれて、冷たい風が入ってくる。
白い布地が彼女を隠すと同時に、やたらと芝居がかった声がラウンジに響き渡った。
「ああ我が愛しの女神よ! どうかこのカールめに、いま一度そのお美しいお姿をお見せください。貴女がいないほんのわずかな時間でさえ、こんなにも胸が潰れる想いなのです。これ以上の駆け引きなど無用。さぁ、私の腕に飛びこんでくるがいい!」
ばっと両腕を広げて、ラウンジの中央に佇む貴公子風の男がひとり。
(うーわ、ひどい恰好……)
色素の薄い紫の髪。
跳ね返りの強いくせ毛。
無理やり油脂で押さえつけているせいで、若干髪がべたついている残念な彼の名前は、カール・ウィエ・ビスホープ。
例の、ビスホープ侯爵の息子だ。
御年十九歳。純白のコートの胸ポケットには赤薔薇を差し、ひらひらとはためくスカーフには光蝶の刺繍が施されている。
センスの欠片もないというか、相変わらず派手な格好だ。
ゼノが心の中でドン引きしていると、彼は首をめぐらせ誰かを探しているようだった。
「どこだ? 私のクレハ。……はっ、まさか! 美しい私に恥じらって、どこかにその身を隠してしまったのでは?」
ハッとした表情で、片手で顔面を覆う彼。
馬鹿なことを真剣にのたまう馬鹿である。
もはや聴いているこちらが恥ずかしい。
ゼノはテーブル下の彼女に囁いた。
「クレハさん。呼んでますけど」
「しっ! 静かに」
足元のクロスがわずかに揺れる。
カールがこちらを向いた。
なにかに気付いたようだ。
つかつかと歩いてくる。
(あ……)
ゼノが目線を下げると、オレンジ色の布地がテーブル下からはみ出ているのが見えた。
ドレスのスカートだ。
おまけにすぐ横では子犬が千切れんばかりの勢いで尻尾を振っている。
クレハと再会できて嬉しいのだろう。
しかし、残念ながらそれが逆に彼女の居所を教えてしまい──
「ふむ、この子犬はクレハの……。そしてわずかに見える紅葉色……」
なるほど、とひとつ頷き、彼は爽やか(?)な笑顔を見せた。
「ここにいたのか、我が女神。大丈夫。なにも恥じらうことはないさ。はやくそこから出てきて、私の胸に飛びこんでおいで」
「遠慮しておきます!」
「ははは。そんなに照れずとも」
「照れてません!」
テーブル下から聞こえる拒絶を無視して、彼は腰を屈めてテーブルクロスをめくると、半ば強引にクレハを机の下から引っ張り出した。
「さぁ戻ろうか。夜には父上たちが帰ってきてしまう。ふたりの時間は今だけ……。部屋に戻り、愛を語り合おうではないか」
「わ、私は語り合いたくないです!」
ぐいぐいとクレハがカールを押しのけようとする。
だが、彼は離す気など無いらしく、クレハの腕を掴んで抱き寄せると、彼女の耳元で、吐息まじりに囁いた。
「ああ、やはり美しい。まるで月から舞い降りた天女のようだ。もっと近くで顔を見せておくれ、俺のクレハ」
カールがクレハの顎に手を添えて、ぐいっと自分のほうに向かせる。
彼女は声も出せずに目を瞑っている。可哀想に。
(これはとめたほうがいいよな……)
明らかに彼女は嫌がっているようだし、まわりの客たちも気まずそうにチラチラとこちらを見ている。
ちょうど鳥肌も立ってきたところだ。
ゼノは椅子から立ち上がり、カールの腕を掴んだ。
「そのへんで、やめてはどうですか」
「うん?」
彼はいちど眉を寄せると、すぐに蔑んだ瞳を向けてきた。
「ああ、お前は確か罪人アウルのご養子だったか。なぜここに? 旅行か何かかね」
「そんなところです。それより、彼女が嫌がってますので、手を離してあげてほしいのですが」
「嫌がる? まさか。彼女は我が美貌に恥じらっているのだよ」
左手で、ふぁさっと前髪をかきあげる。
「なんだ、まさかとは思うが彼女に一目惚れでもしたのかな? だったら、はっきりと言ってやる。彼女は私のものだ。いかに君が彼女に懸想しようともそれは叶わぬ夢。だいたい平民風情が私に気安く声をかけるな。目障りだ。さっさと失せろ」
心底煩わしそうにゼノの腕を振り払ったあと、彼はクレハに向き直り、熱っぽい瞳を浮かべて、女神がどうのと再び口説き始めた。
(しょうがない……)
あまりこういう手は使いたくはないが。
ゼノは机の上のティーポットを掴んだ。
「はい、そこまでー」
ごつっと鈍い音を奏でて、同時にカールの舌がとまる。
そのままぱたん。
彼は絨毯の寝床に転がった。
「あっ……」
クレハが戸惑うような視線をゼノに送る。
「大丈夫。たぶん気絶してるだけだから。フィー」
「ん」
フィーが彼の身体を引きずり、椅子に座らせる。
まわりの客たちが一瞬ざわついたが、すぐに全員目をそらしたので、いまの一件が騒ぎになることはないだろう。
見て見ぬふり。
そういうのは好きではないが、この状況ではありがたい。
「はー……、ごめん。ありがとう。すごく助かったよ」
「どういたしまして。それより、なんでこいつといるんだ? これ、ビスホープ侯爵んとこの馬鹿息子だろ?」
ちらりと横を見る。
完全に伸びている彼。
分厚い唇に太眉。面影がかの侯爵そっくりだ。
あまり人の容姿をどうこういうのもあれだが、この顔に迫られていたクレハは本当に可哀想だった。
「ああ……うん。実はこの人ね。私のお見合い相手なんだ」
「見合い⁉ あー、それでそんな綺麗な恰好をしてるのか」
「え、綺麗……かな?」
ゼノが驚くと、クレハは照れた様子で頬を掻いた。
(そういえば……)
商都で彼女の父親が、縁談がどうのとアルスに話していた。
つまり、彼女はここでこの馬鹿息子と見合いをしていたということか。
けれど、なぜわざわざこんな寒い町で……?
「ゼノ様たちは観光かな?」
「そんなとこ。エオス商会っていう商会に用があって来たんだけど、ここに拠点があるらしくてさ。クレハは知ってる?」
「もちろん知ってるよ~。エオス商会はうちの取引先だし」
(やっぱり知ってたか……)
ヒューゴの娘なのだから当然か。
「もしかして、エオス商会でお買い物? それならよければ私、取り次ごうか? アウロラ商会の従業員価格でちょっと安くなるよ」
「あー……、うん、その……」
お手頃な従業員価格はともかく、どう説明したらいいだろうか。
父親が武器商……いや、おそらくは兵器開発。
戦争につかうような道具を作っていると知れば、彼女はショックを受けるだろう。
ゼノが口ごもると、フィーがローブのそでを引っ張ってきた。
「こいつ、起きそう」
小さな呻きとともに、カールの肩がぴくりと跳ねる。
ここは一度、場所を変えたほうがよさそうだ。
その旨をクレハに伝えると、外に出るなら着替えてくる、と言うので三十分後に宿の前で待ち合わせることにした。




