桜と同期と
春と言えども朝はまだ少し寒い。いや、まだ少し寒いは訂正。寒い、寒過ぎる!
空が未だ暗く、天気が良い日によくある放射冷却で冷えきった早朝、私はブルーシートの上で縮こまっていた。
「ううう……先輩達が本気で挑めって言ってた訳だわ……」
これは去年入社した二年目の社員がやる、というのは我が社の伝統だ。皆経験者だからこそのありがたい助言だったのに、どこか甘く見ていた。
新入社員だった去年はこの花見で先輩や上司とコミュニケーションを取ろうと必死だったが、今年もこんなに大変だとは。
そう、今年の私達の役割とは、新入社員歓迎会兼親睦会である花見の場所取りである。
「西出、ほら。あんまり役に立たねぇけど少しは温かくなるから」
「古藤君! ありがとー! めちゃくちゃ役に立つよ!」
あったかい缶コーヒーを買ってきてくれた彼は、同期の古藤君だ。晴れだしすぐに暖かくなって邪魔になるからと、大して厚着もせずにジャケットとストールと膝掛けでこれに挑んだ愚かな私とは違い、彼はきちんと先輩方の助言通り対処していた。
今日も私に予備のカイロや毛布を貸してくれるなど気配り満点、加えて普段から仕事も出来る素晴らしい人物である。彼は私の隣に再び座った。
「はぁ~さむっ! 今日はいつも以上に時の流れを遅く感じるな」
「ねぇ、場所取りってもっと遅くなっても大丈夫じゃない? なんでこんな早朝から待たないといけないのよ」
周りを見渡せば満開の桜、そして私達のような場所取り要員はちらほら見える。だが、場所取りにここまでやる必要性はおそらくかなり低い。
「そりゃ取れるだろうが……社長がおっしゃるには『忍耐力』と『同期の絆を深める為』らしいからなぁ。ま、伝統らしいししょうがないだろ。ブラックだけどしょうがない。うちの社長典型的なワンマンだし」
「うーん、そうだけどさぁ」
古藤君に宥められる。そりゃあ、私だって分かっている。わかってはいても、ただやっぱり今寒くてキツイから言わずにいれなかったのだ。
周りの大気からも、地面からも、身体の芯まで届くような冷えを感じる。
忍耐力も同期の絆も十分これまでの一年間で鍛えられたと思っていただけに、この時間が無駄に思えてしょうがなかった。
「ほらほら、早朝に見る桜もいつもと違ってまた乙だぞ!」
そう言って朝日に照らされて姿を現していく桜を指す古藤君。
確かに早朝の桜も昼や夜に見るのと少々違い、幻想的で美しい。澄み切った空気の中で徐々に光に身を晒していく桜は清浄そのものだ。でも……。
「桜じゃ暖かくならない。別にここまでして見たいもんでもないし」
「……あー、そうかよ」
あ、やばい。やってしまった。私の態度に呆れたのか古藤君はそう言うと私とは逆の方向を向いて黙りこんでしまう。
入社してから散々私の愚痴に付き合ってくれたり宥めてくれたりしてくれた古藤君に、なぜ私は今この時に八つ当たりを……。
我ながらマズイと思ったが、もう遅い。今もカイロや毛布を貸して貰っといてこの態度……最悪だ。
社長! 同期の絆、深まるどころか逆効果じゃないですか! あー私って本当に馬鹿!
非常に居心地の悪い空気が漂う。桜がいくらキレイでもこれはどうにもならない。沈黙がより寒さを感じさせる。
寒いし辛い、辛すぎる。寒さが身体的にも精神的にも追い詰める。
とうとう、この状況に耐えかねて私は泣き出してしまった。これじゃもっと呆れられるだけだと必死にこらえるも、一度堰を切ったものはなかなか止められない。
「……っな、何泣いてんだよ!?」
古藤君が気づいて振り返った頃にはもう、私の顔は涙でぐちゃぐちゃだった。そんな私を見る古藤君の表情からは驚きと焦りが見え、かなり迷惑そうだ。
とにかく涙を堪えて謝らなければと思う私だが、話そうとするほど涙が止まらず言葉に詰まってしまう。
「ごめっ、ん、なさい! 今までも今日もこんな、バカな、同期に古藤君は、付き合っ、てくれてるのに……!」
思わず借りた毛布で涙を拭ってしまう。化粧もついて汚れてしまった。
……これも洗って返さなきゃ。もうっ、最悪じゃん私!
泣きながらハッとしたり、激しい後悔に苛まれたりで混乱状態。そんな私を見て、どこからか吹き出す声が聞こえた。
どこもなにも近くにいるのはただ一人。そう、古藤君が腹を抱えて笑っていた。澄んだ朝の静寂に笑い声が大きく響き渡る。
その後ろのぼやけた視界には遠くから不思議そうに私達を眺める人達。
「ウハハハハ! っクク、ハハハ!」
「……古藤君、ちょっと」
「ッブ、ハハハ!」
「……ちょっと~」
しばらくして私が泣き止むと同時に古藤君の笑いも止まった。ヒーヒー言いながらだが。
今まで私がどんなにドジってもここまで露骨に笑わなかったのにどうして?
顔を上げる彼の目には涙まで見える。人が泣いてるのにも関わらず、ここまで笑われるのは正直ショックだった。
「西出、お前は本当に、バカだな! ハハハ!」
まだ笑ってる。笑われたのは始めてではないにしてもここまでは始めてだし、実は彼にバカと言われたのも初めてだった。
目の前でバカと言われて唖然とする私。それが尚更面白いのか更に続けてきた。
「いや、もうね、一年間我慢してきたけどさ! ちょっと考えろよ社会人だろ!? 女子だし笑っちゃ可哀想かと思ってたが、もう駄目! ウハハハ!」
私はあまりのショックで固まった。自分でもそう思うくらい馬鹿だけど、だけど、そこまで言わないでよ。優しかった彼は何処へ、あまりの衝撃に言葉が出ない。
「ッハハ、……でも俺、好きなんだよなーそんな女の子! 俺はもっと馬鹿だな! プッ、クハハハ! 笑えてしょうがねぇーよ! ハハハ!」
「………………っうぇえええ!?」
更なる衝撃だった。衝撃過ぎてやっと出た言葉が『っうぇえええ!?』なくらいに。
一瞬で顔から耳から真っ赤になったであろう私の目の前へ、突然古藤君が寄ってきた。ち、近い! 近いよ!
「もうさ、今の声何だよ! いや、さっきもちょっとからかっただけなのに、まさか泣くとは……ほらほら悪かった。化粧も落ちて酷いぞ。毛布で拭かないでこれ使いな」
私はポケットティッシュで顔を拭かれた。思わず目を閉じる。彼は口調と違って優しく撫でるように拭いてくれた。ただし至近距離で、だ。
ただの良い同期と思い込み、これまで意識した事はなかった彼を私は今とんでもなく異性として意識していた。恥ずかしくなって顔を引くと空いてる手でぐいっと戻される。……うわー駄目だ!
今、顔と顔を合わせてしまうと一気に惚れてしまいそう。我ながらチョロ過ぎてとても恥ずかしかった。
「ほら。終わったから目開けろよ」
「……うん」
と目を開けると古藤君の顔が正に目の前にあった。
「う、うわぁ! ちょっと、古藤君!?」
逃げようとする私を見てニヤッと笑った彼は捕まえて離さなかった。私の顔は最高潮に熱くなる。おそらく耳も首もどこかしこも真っ赤だろう。そして彼は私の耳元に口を寄せて……。
「返事は今日中だからな?」
彼はそれだけ言うとあっさり解放した。なんだ、てっきり――。
「キスされるかと思ったってか?」
思っていた先を言われてしまい、ビクッとした私を見て再び笑い出す古藤君。その後ろを明るくなってきた空を背景にして桜が優しく揺れる。
「まー……満開の桜の下だからこんな風になったのかもしれないなー。フラれようが、フラれまいが、俺はこうやって西出と二人で桜を見て、場所取り出来て嬉しい。心からそう思うよ」
柔らかに微笑む彼に私はどう返事するのか。フラれようがフラれまいがと彼はいうが、なんとなく私の返事を確信してこう言っている気がする。くうっ、悔しい。
社長、同期の絆とはちょっと違う気がするけど二人の絆はこれでかなり深まりそうです……。