遠い一点・前篇【Cパート】
「痛っつっ!」
一回裏、一番打者、鈴木隆義の何という事もないゴロを三塁手の太刀川がファンブルした。
バックアップに就いていた星野が打球を迅速に処理したものの、一塁へは投げられなかった。
「どうした!?」
松浦が太刀川に声を掛ける。
「わからねぇけど、手に何か痛みが‥‥。」
「タイム!」
すかさず三浦がタイムを掛けた。
「太刀川さん! 左手!」
星野が慌てて指をさす。
「ん? 俺の手がどうかしたか?」
太刀川が自分の左腕を見てみると、そこにはスズメバチが止まっていた。
「やっべえ!」
太刀川は左手からグローブを取り、それでスズメバチを払いのけようとしたが、
「あぎゃっ!」
興奮したスズメバチは再度、太刀川の左腕を刺してきた。
試合は思わぬ乱入者の登場で一時中断となる。
その後、乱入者はどこかへ逃げて行ったものの、太刀川はアナフィラキシーショックを起こさないよう医務室に直行する。
グラウンドドクターが応急処置をしたものの、やはり専門の治療を受けた方がいいとの判断で太刀川は病院に搬送されて行った。
「あーあ、ご愁傷様。
『黒闇天に愛された男』に掛かっちゃ、天下のスラッガーも形無しだねぇ。
ナンマイダブ、ナンマイダブ。」
一塁側ベンチで試合再開を待つ二番打者の高橋頼基がお茶らけて合掌した。
「ヨリ、相手を侮蔑する真似はよせ。」
礼節を重んじる遠藤文覚が高橋を窘めた。
「へいへい、了解でやんすよ。」
● ● ●
それから五分後、試合は再開された。
太刀川に代わって宮町中の三塁手には加藤が入った。
松浦は初球、内角高めのストレートでストライクを先行させる。
「リー、リー、リー。」
鈴木がジリジリとリードの幅を伸ばしていく。
その度に牽制球を投げる松浦。
(次、走ってくるぞ。)
土肥は松浦に一球、外角に大きく外すようサインを出す。
額の汗をアンダーシャツの袖で拭い、松浦は頷く。
そして、要求通り外角へ大きく外す。
高橋がアシストの空振りをする。
立ち上がって捕球した土肥が二塁にベースカバーに入った新井に向かって送球する。
判定は、
「セーフ!」
クロスプレイであったが、わずかに鈴木の足が勝った。
(あのキャッチャー、捕ってから投げるまでは速いけど、肩は並クラスだね。
三塁も頂いちゃおうかな?)
そんな鈴木の目に鬼崎から送りバントのサインが目に入る。
(ほんっと、ウチの監督は慎重だね。)
鈴木と高橋は心の中でユニゾンした。
三球目、内角へ食い込みながら沈むシンカーで三振を取りに行く松浦。
バントをするには高難度のその球を、高橋はいとも容易く三塁線に転がす。
打球は加藤が一塁へ送球してアウトを確実に取った。
これで一死三塁。
「ヨリさん、ナイスバント!」
鈴木が高橋に声を掛けると、
「イエィ!」
高橋は右手の親指を立てて答える。
続く三番の三善が左打席に入る。
外野フライでもスクイズでも点が取れる状態である。
そんな中、春日部輝松の監督、鬼崎が出したサインは初球スクイズだった。
モーションと共にスタートを切る鈴木。
しかし、それは宮町中バッテリーの想定内だった。
外角へ大きく外す松浦。
これでスクイズは失敗かと思いきや、
「こんにゃろーっ!」
ジャンプしてバットに当てに行く三善。
猛然と本塁へ突っ込んでくる鈴木。
コツッ!
辛うじてバットの先端が軟球に当たる。
フェアグラウンドに落ちる打球。
転倒した三善の身体によって舞い上がる土埃。
「土肥っ!」
松浦のバント処理は完璧だった。
土肥へトスを送る松浦。
だが、
「ふぇっくしょん!」
土肥が捕球寸前で鼻から吸い込んだ土埃でくしゃみをしてしまい、痛恨の捕球ミス。
その間に鈴木は生還。
起き上がった三善も一塁へ全力で走る。
「行かせっかよ!」
本塁のベースカバーに入っていた加藤が一塁へ送球し、打者走者の三善はフォースアウトとなった。
「悪い、松浦。
こんなアクシデントは初めてだ。」
「どうも春日部輝松と当たると妙な事が次々に起こるんだ。
県大会の俺の怪我や鷹ノ目の記憶喪失、今日も太刀川のスズメバチ騒動‥‥。
もしかしたら、今朝の高崎線の遅延も‥‥。」
「いや、高崎線は年中遅れるから。」
真顔で語る松浦に土肥がツッコミを入れた。
気持ちを入れ替えた宮町中バッテリーは続く四番の中村を三振に斬って落とし、この回を終えた。
0対1――この一点がどれほど遠いものになるか、この時、誰もが思いもしなかった。
感想、評価、ブクマを付けてくださっている方々、本当にありがとうございます。
1990年という時代なので、ストライクとボールのコールの順番は現代(2022年)とは違っています。




