プロローグ
2021/12/27 09:16現在
プロローグが長すぎたので、ブラッシュアップしました。
2022/01/08 プロローグと1話を入れ替えました。
内容は変わりありません。
――その日、わたしは絶望と恐怖の中で、確かに死を覚悟した。
怖くて。
でも逃げる事しかできなくて。
やがて、それさえもできなくなって……
……でも――
その人は決して誰にも届かないと思っていた、わたしの声を見つけてくれた。
その人はまるで希望の光のように、きらきらと輝いて見えて。
だから、わたしは強く強く魅せられたんだ。
――わたしもあんな風になりたいと……
東雲美奈は気づくと、苔生した岩場に倒れていた。
「……どこ? ここ……」
身体を起こして呟きながら、周囲を見回す。
空は暗く、辺りには線香のような香りに混じって、なにかが腐ったような匂いが漂っている。
美奈は鞄からスマホを取り出して覗き込んで見るが、周囲に精霊が居ないのか、伝源が切れていた。
「……もしかして、突発異界災害?」
最近、増えているから気をつけるよう、学校で担任が言っていたのを思い出す。
美奈はまさか自分が巻き込まれるとは思ってもいなかった為、担任が話していたはずの、巻き込まれた場合の対処法をまるで聞いていなかった。
「――とにかく出口を……」
言って、立ち上がると、美奈は恐る恐る歩き出す。
石がゴロゴロ転がっている地面は歩きづらく、思うように進めない。
近くに川があるのか、見えはしないが、ゴウゴウと流れる音が聞こえる。
と、その川音に混じって、ぼちゃりというなにか粘液質なものが落ちたかのような音が、すぐ側で聞こえた。
美奈が視線を向けると、そこには鈍色の甲殻に覆われ、その隙間から黒色の粘液状の肌を持った、大きな――高さが美奈の腰ほどまである――カニのような生き物がいた。
「魔物っ!?」
悲鳴のように呟き、美奈は後ずさる。
ぼちゃりぼちゃりと水音が続き、大カニの数がどんどん増えていく。
白かったカニの眼が、美奈を捉えて赤く染まった。
その巨大なハサミが振り上げられる。
「――ヒィ!」
かわせたのは、自分でも奇跡だと美奈は思った。かすった太ももが熱くて、見るとスカートが裂けていて、そこから赤く血を流す傷口が見えた。
身体が自然に震える。それでもこのままでは殺されてしまう、と美奈は考えて必死に逃げ出した。
激流の音を伴奏に、砕けた硝子を擦り合わせたような不快な音が響く。それがカニの鳴き声なのだと気づいて、美奈の肌は泡立った。
怖くて後ろが振り返れない。
とにかく走るのだけれど、石の転がる地面は走りづらく、思うように速度が出ない。
息が上がる。
胸が苦しい。
脚が痛んで、踏み出すたびに目の前がチカチカした。
どれくらい走っただろう。
背後から聞こえる硝子音は、いよいよ数え切れないほどとなっていた。
しかし出口は一向に見当たらない。
脚の痛みをこらえて、なおも必死に走った。
けれど、やがて目の前に巨大な岩壁が現れ、美奈の前に立ちはだかった。
登ろうと手を伸ばすけれど、苔で滑ってうまく登れない。
「どうして……」
背後を振り返る。
そこには視界をいっぱいに埋め尽くすほどの大カニの群れ。
ギャリギャリという不快な音は、やはりカニの鳴き声だったようだ。
まるで美奈をなぶるように、大カニはゆっくりとこちらへやってくる。
美奈は脚が竦んで動けなくなった。ぺたりと地面に腰をついてしまう。
「いやだぁ……」
なんでこんな事になったのか。
ついさっきまで、いつも通りの帰宅風景で。
担任に進路調査で小言を言われ、その不満を晴らそうと、ちょっと書店に寄り道して、いつものように、いつもの道を帰ろうとしていたのに。
待っていたのは、日常とはかけ離れた状況だ。
このまま殺されてしまうのだろうかと思うと、涙が溢れ出て、家族の顔が脳裏に浮かんだ。
「……助けて……」
美奈はかすれた声で、しゃくりあげるように呟く。
薄闇の中に無数に輝く、大カニの眼の赤い色が美奈の恐怖を加速させる。
「嫌だ! 死にたくない!」
身体を庇うように四肢を縮込め、声の限りに叫ぶ。
「――誰か助けてえッ!!」
絶望に染まる視界の中で。
――凛、と。
鈴の音が聞こえたような気がした。
瞬間、美奈を取り囲んだ大カニがまるで道を開けるかのように、綺麗に左右に吹き飛んだ。
「――よく頑張ったね。もう大丈夫!」
気づくと、大カニの群れから美奈を庇うように、ひとりの少女が立っていた。
巫女服のような上衣に、太ももの出た裾の短い――まるでミニスカートのような緋袴。背中まである黒髪の先を赤い結紐で結ったその少女の手には、鈴のついた鉄扇が握られている。
「あなたは……」
「上洲撫子女学校、二年桜組の穂月紗江! 帰宅部所属!」
上洲撫子女学校、それは隣村にある女性防人――撫子の育成高校だ。
「助かる……の?」
震える声で美奈が尋ねると、紗江と名乗った少女は力強く頷いて見せてくれた。
「大丈夫。守ってみせるよ」
そのほっとさせるような微笑みに、美奈は安堵のあまり、涙が溢れる。
「だから、ちょっとだけ待っててくれるかな」
そう言って、紗江が鉄扇を振ると、美奈の周りの景色が揺らぎ、直後、結界が張られたのがわかった。
「……魔法だ」
美奈が自身の周りを見回しながら呟く間にも、紗江は大カニを見据え、鈴のついた鉄扇を打ち開いて、前方に突き出す。
紗江の周囲の空間が半球状に揺らめき、それがどんどん広がっていって、大カニの群れを覆い込む。
どこからともなく太鼓の音が響いた。
紗江の背後に円が描かれ、その中に月と稲穂群を象った文様が浮かぶ。
「あ――」
単音で唄うように紗江が声を出し、右手の鉄扇を振り上げると、まるで見えない手に殴り飛ばされたかのように、大カニが吹き飛ぶ。
大カニの一匹がそのハサミで紗江に襲いかかったが、彼女はそれを鉄扇で受け流し、くるりと身体を回した。
紗江の胸が光り輝き、白い燐光が溢れ出す。
太鼓の音が、再び響く。
鈴を転がしたような高音域の金属音が鳴り渡り、そこに笛の音が加わった。
――それは助けを求められる誰か……
唄が、聞こえた。
驚く美奈の目の前で、紗江はまるで踊るように、次々と大カニ達の繰り出す攻撃を受け、流し、時には弾いていく。
紗江から溢れ出す白い光は、いまや彼女を純白に染め上げるほどで。
――それは報われることのない願い……
再び唄が響く。
紗江の巫女服のような衣装の前後の裾が伸びて、緋袴が光る粒子に解けて消えた。
――それは嘆きを越えて差し伸べられる、ただひとつの想い……
純白の光の中から手甲脚甲が現れ、紗江の手足を包み込む。
『ア――』
景色が揺れて、紗江のものではない二種類の声が、音程の違う唄を奏でる。
角の生えた白い面が紗江の顔を覆い、
「――行くよ」
短く彼女が告げた途端、その無貌の顔に金の文様が走って、貌を形造る。
美奈の見つめる先で、紗江は右手で鉄扇を頭上に構え、左手を右の肘へ。右肩越しに大カニの群れを見据えて、凛とした声で紡ぎあげる。
「目覚めてもたらせ、遺失神器ッ!」
舞い飛ぶ白の燐光が、そろって跳ねて辺りに満ちる。
大カニが見えない手に掻き寄せられるように、ひと塊にされた。
太鼓の拍子が乱打で響く。
それに合わせて笛の音が高音で奏でられ、燐光がまるで花道のように大カニの塊へと道を開ける。
その花道を紗江が駆け出した。
「輝け! <伝承宝珠>ッ!」
紗江の叫びに合わせて、景色の揺らぎがどこまでも拡がっていき、ガラスが割れるような音がして、異界の景色が崩れる。
美奈が見慣れたいつもの道路が見えた。
「――ハァッ!」
大カニの塊に肉迫した紗江が、掲げた鉄扇を振り降ろす。
瞬間、大カニが集まった塊は、まるで巨大ななにかで殴られたように地面に叩きつけられ、ぼちゃぼちゃと粘液質な音を立てて霧散した。
静寂が訪れる。
いつもの帰り道。
夜空に浮かんだ月明かりに照らし出され、開いた鉄扇を下げ降ろしたまま残心する紗江は、ひどく絵になって見えた。
「ふう……」
と、一息。残心を解いた紗江が振り返り、人好きのする笑顔で美奈の下までやってくる。
いつの間にか彼女の姿は、学校のものであろう、セーラー服になっていた。
「災難だったね。お家まで送るよ」
そう言って美奈を助け起こしてくれる紗江に、美奈は思わず抱きつき、泣き出した。
本当に怖かったのだ。
絶対に死んだと思った。
誰も助けになど来てくれないと思った。
――なのに……
(この人は来てくれた……)
嗚咽しながら、美奈は思う。
(こんな風になりたい。この人みたいに。……なれるかな?)
東雲美奈、十四才。
未来なんてなるようにしかならないと考えていた、そんなわたしだけど。
この晩夏の夜の出来事がきっかけとなって、強く強く願うようになったんだ。
――撫子になりたい!
ご意見、ご感想を頂けると幸いです。
ご質問やご指摘も承ります。
ここから、なるべく先の話数までお付き合い頂ければ幸いです