episode 1 いつかのあなたと私と義妹と 3
図書館で借りてきたのはジョパーニ語の辞書とヴァイオリンの楽譜が二冊。それらを腕に抱えて馬車を降りたのは、すでに辺りが夕暮れに染まりはじめた頃だった。
普通の令嬢は荷物を自分で持って馬車を降りたりはしない。荷物は付き添いの侍女かメイドが持って、馬車を降りる際は御者なり出迎えの執事なりが手を貸してくれるものだ。
けれども私の場合はそもそも付き添い人がいない。
部屋付きのメイドはそれが当たり前という顔で出かける私をエントランスで見送ったし、執事も侍女もメイドも誰も出迎えはない。
御者は手を貸そうという素振りもなくいかにもダルそうに欠伸をしている。
一応我が家は貴族家――――しかも上位貴族にあたる伯爵家のはずなのだけれど、使用人のレベルは裕福な平民の家以下なのではないだろうか?
母が生きていた頃にいた使用人たちはもっとまともだったけれど、別邸から来た使用人たちとの折り合いが悪く、ほとんどが辞めてしまった。
残ったのは義母たちとともに別邸からこちらに移った者たちとあとから義母が選んで雇った者たち。
彼らにとって私という存在はこの家の家族ではなく居候のような感覚なのだろう。
血筋こそ伯爵家の娘で、長女ではあるけれど嫡子とは認められていないはみだし者。
――――本来、男子がいない貴族家では長女が婿を取って職位と家を継ぐ。血縁から養子を迎えるのは娘もいない。子に恵まれなかった家くらいのものだ。
なのに私にはすでに嫁入りをする予定の婚約者がいる。
『やっぱり、―――――なのかしら?』
『なんじゃない?じゃなきゃおかしいでしょう。長女なのに跡継ぎにしないなんて』
『前の奥様にしか似ていないものね?』
何度も聞いた。
彼ら彼女らは私は聞いていようがいまいがお構いなしに囀りあっていたから。
確かに私は母にしか似ていない。
顔立ちも、髪の色も。
瞳の色は母方の祖母と同じ。
『母親の不貞で生まれた娘』
まことしやかに囀り合うけれど、ならばエラは父親の不貞で生まれた娘ではないか。
そう言ってやったら囀り合う彼らはどんな顔をするだろうか?
そんなことを思って小さく笑った。
✣
真実父が使用人たちが噂するように母の不貞を疑ったために私を追い出そうと婚約者を定めたのかは知れない。
けれど私にあてがわれた婚約者は、伯爵家の令嬢の婚約者としてはなんら問題のない相手ではある。
フィルベルト・ロイスナー侯爵令息。
今年で15になる一つ年上の侯爵家の次男。
嫡男に何かあれば侯爵家当主にもなりうる立ち位置の人だが、いかんせん年の離れた嫡男にすでに男子が二人いることから、フィルベルト様が侯爵家当主になる道はほぼない。
ただ伯爵にはなることが決まっている。
現ロイスナー伯爵夫人のご実家―――――テスタ伯爵家の当主であった夫人の弟が若くして急逝したから。
先代は高齢で、跡継ぎはまだいなかった。
そのためテスタ伯爵領は現在一時的にロイスナー侯爵
領に組み入れられ、伯爵家の血を継ぐフィルベルト様が成人した際にその領地と共に伯爵位を継ぐこととなっているのだ。
次期伯爵で顔も良く優秀と評判。
私なんかにはもったいないほどの人。
家が同じベルゼア公爵家の派閥で派閥内での政略結婚ではあるけれど、私は幼い頃からフィルベルト様に恋をしている。
それこそ跡継ぎにされなかったことを感謝したいぐらい。
本来なら跡継ぎ同士の私とフィルベルト様はけして結ばれなかったはずだもの。
私は自室に戻ると母の形見でもある愛器をケースから取り出した。
辞書も借りてきたことだし、本の続きを読みたい気持ちもあるが、ヴァイオリンは一日でも練習をサボれば感覚が鈍る。毎日夕方の一時間、ヴァイオリンを弾くのははじめてヴァイオリンに触れた5才の時から変わらぬ習慣だ。
それに来週にはフィルベルトの母――――ロイスナー夫人が主催するサロンで演奏をすることになっている。
ロイスナー夫人は自身もフルートを嗜むことから、時折侯爵邸で同じ趣味の夫人や令嬢を招待して演奏会を行なっていた。
プロの奏者を呼ぶこともあるし、幼い令嬢たちの発表会的な催しを行う時もある。
私はたまにソロで演奏をさせてもらうことがあった。
「フィルベルト様はいらっしゃるかしら」
一つ年上のフィルベルト様はもうすぐ14になる私よりも一年先に寄宿学校に入っていて、しばらく会えていない。けれどもそろそろ長期休暇の時期のはず。
もしかしたら侯爵邸に一時帰宅されるかも知れない。
そう思うとほわりと胸が温かくなって、少しだけ鼓動が早くなった気がした。