episode 1 いつかのあなたと私と義妹と 2
扉の外から賑やかな笑い声が聞こえる。
母が病に倒れるよりもずっと前から、この家には笑い声はなかった。
両親の仲は冷え切っていて、家族の団欒なぞというものはなく、母は優しい人ではあったけれど、厳格な人でもあった。いくら家族間であっても、淑女が声を上げて笑うなんてことはあってはならないという人だった。
屈託のない笑い声のせいか、以前よりも邸の中が明るくなったように感じたが――――。
実のところ、愛人母子――――否、すでに本妻となったのだから、義母と義妹と言うべきか。甚だ不本意であっても――――がこの邸に来てから、比喩ではなく邸内は現実として明かりを増している。
屑父はたとえこちらが伯爵家の本邸であっても、自身がろくに寄り付きもしない邸に金を使おうという気がこれっぽっちもなかったようで、外見こそは人目を気にして取り繕っていたものの、中身は薄汚れたボロ屋敷と化していたから。
使用人の数は最低限以下、修繕するお金もないから傷んだ家具も邸も放置するしかない。
安いお給金しか出さないから、少ない使用人たちもまったく仕事熱心ではない。むしろ手抜きいい加減サボリ常習犯の集まりだった。仕方なく自分でもできることはしていたけれど、それなりに広い邸中全てには時間もなく手が回らない。
あちこち埃は溜まっているし窓は曇っているしカーテンや壁紙は薄汚れているしでは、明るく感じるわけがない。
それが自分たちが住むとなると傷んだ箇所を修繕し、壁紙を貼り直し、家具を新調し、使用人の数を倍どころか4倍ほどにも増やすという大盤振る舞い。
そりゃあ笑い声云々がなくても明るく感じるはずだと、一人で納得した。
私は一つ溜息をついて手を伸ばし――――触れるはずの感触がないことにあれ?と顔を上げる。
「?…………あぁ」
取ろうとしたのは辞書だった。
机の一角に五冊、1カ国語につき一冊並べられた分厚い辞書の壁のちょうど真ん中がすぽりと歯抜けのように開いていた。
「そういえば、エラに貸したままだったわね」
ガヴァネスから逃げ回ってばかりのくせに、他国語の辞書など持っていってどうするのかと嘆息したのは一昨日のことだ。
近頃のエラはやたらと私の真似をしたがる。
同じ髪型、お揃いの色違いのドレス、リボンにアクセサリー。私が使用していると同じ石鹸に香油にクリームに化粧品に香水。
私が読んでいる本を自分も読みたがり、私がハンカチに刺繍しているとエラも刺繍しはじめ、私が母の形見のヴァイオリンを弾いていると自分もと父に強請って高価な楽器を買ってもらっていた。
初心者が練習用に購入するランクのものでなく、プロの演奏家が名声を得てようやく演奏する資格を持てる。名器と呼ばれるランクの逸品だった。
「…………あれは職人と楽器にたいする冒涜だったわ」
ドヤ顔でぎこちなくヴァイオリンを構えギコギコ騒音を奏でていたエラを思い出し、私は遠い目をして呟く。
「はあ、どうしようかしら」
私は机の上に開いていた本のページに栞を挟み、ギシリと椅子を鳴らして天井を振り仰いだ。
私の趣味は読書とヴァイオリンを弾くことなのだけれど、近頃の読書はもっぱら語学も兼ねて他国語の本を読んでいる。いま読みかけのそれはジョパーニという小国で出版されたロマンス小説で、砂漠の国の若き皇帝と旅劇団の歌姫の身分違いの恋物語。中身はひたすらベタな展開が続く。私はベタ、王道、お約束、が大好物なのだ。栞を挟んだページからはちょうどベタで王道でお約束、な〔皇帝の妃を狙う令嬢からの嫌がらせ、誘拐、監禁からの救出。お次はザマァだよ✩〕展開が続く場面だった。
いわゆる山場というわけで、だいたい展開の先は読める。読めるんだけれどでも気になる。
気になるけれど読み進めるには現時点の語学力だと辞書は必須なのだった。
一番早いのは当然エラに辞書を返してもらうことだ。
どうせほとんどページを開くこともなく放置されているのだろうし。
でも、と私は耳を澄ます。
聞こえてくる楽しげな笑い声と、微かな別の二人分の話し声。
この家族団欒の最中に割って入るのかと思えばとてつもなく気が重い。それに返してくれと言って素直に返してくれそうだとも思えない。
うぬぬ、と熟考の後、私は机からベルを取り上げて部屋付きメイドを呼んだ。
「なにかご用ですか?」
ノックもなしに扉を開けた挙げ句、やる気のない口調のメイドに、
「出かけるわ。したくをお願い」
「どちらへ?」
「図書館よ」
簡潔に指示を出して立ち上がった。
外出用のシンプルな水色のワンピースに着替えた私は、メイドを伴って邸のエントランスに向かう。
途中、両開きの扉が開け放たれた談話室の前を通り過ぎさま横目に室内を窺うと、そこには仲の良い家族の肖像があった。
父と母と娘。
まるで入り込む余地も隙もない。私抜きで、すでに出来上がった家族がそこにはあって。
私の居場所はない。
義母が別邸から連れてきた性悪メイドはそんな私の視線の先を見て底意地の悪い笑みを浮かべる。
私は無言で足を進め、エントランスの外にすでに止められていた馬車に乗り込んだ。