三馬鹿は考えない。
柔らかな潮風が頬を撫でる。
白と木目のまだら模様になったベンチに腰掛け、読書に耽っていた僕は、その風の冷たさでいつの間にか夕方になっていた事を知る。
パタリと本を閉じ、立ち上がると、ゆらめく波はほんのりと茜色に染まっていた。遠くで鳴いたカモメは、暗くなる前に帰ろうと、子供にでも呼びかけているのだろうか。
「・・・・・・ふぅ。結局、カフカって何だったんだろう」
たった今読み終えた本の感想を、ため息と共に一言で吐き出す。
『海辺の・・・・』ってタイトルの頭についてるから、海辺で読めばきっと面白いのだろうと思って試してみた物の、やはり十六そこそこの小童の僕に、高尚な純文学はまだ早かったらしい。
Amozonでなけなしのバイト代をはたいて買った無駄に高い皮張りのブックカバーも、内容の理解には特に役には立たなかった。
まああれだな。芸術って理解するものじゃ無いから。感じるものだから。つまり僕の心は不感症って事か。あれ、今のちょっと文学っぽくない?
「ま〜たアホなこと思いついた顔して。てか、何でこんなとこに一人でいんのよ?」
「おお、馬車道。お疲れさん」
僕が文学とはなんぞやという至上命題に思いを馳せていると、不機嫌そうな顔の少女に声をかけられる。
「やめてって言ってるでしょ。その地名丸出しの名字で呼ぶの。観光客に聞かれたら恥ずかしいじゃない」
馬車道桜子。クラスメイトの女子。バスケ部のエースで、男女共に人気のある所謂分かりやすいリア充ちゃんである。
ぴっちりとしたスポーツウェアに身を包み、長い髪をポニーテールにしている所を見るに、自主練でランニングでもしていたのだろう。
海辺で景色が良く、道も綺麗に舗装されたこの山下公園では、彼女のような格好で走っている人を良く見る。ついでにお散歩デート中のカップルもよく見る。ちっ。
「じゃあ桜子ちゃん」
「“子”も“ちゃん’’も付けなくて良い。桜って呼べって何度言わせるのよ」
「いやそれはちょっと・・・・・・」
「どこで照れてんのよ! 桜子ちゃんの方がよっぽど恥ずかしいでしょうが!」
「いやちゃん付けならちょっとイジってる感あるし、幼馴染みっぽさも出るからまだ呼びやすいけど、桜って呼ぶのは何か・・・・・彼氏ぶってるみたいで、恥ずいじゃん?」
「誰もアンタが私の彼氏なんて思わないわよ。鏡見てから出直しなさい。と言うかそもそも、私ら幼馴染じゃ無いし。会ってからまだ半年も経って無いでしょ?」
彼女の言う通り、いかにも溌剌とした明るいスポーツ少女と、見るからに地味で根暗なボサボサ頭の眼鏡男子な僕は、とてもでは無いが恋仲の男女には見えないだろう。
とはいえ、一方的に罵倒されたままなのも癪なので、ちょろっとからかってやろう。僕は負けず嫌いな陰キャなのだ。
「愛の前には時間なんて、些細な問題だろ?」
「いやそこ問題にしないと幼馴染の定義が崩壊するんだけど・・・・・。はぁ、もう良いわよ。んじゃ、また明日学校でね」
「あ、うん。お疲れ」
と、全力のキザなセリフも虚しく、桜ちゃんはあっさり僕をあしらって走り去って行った。・・・・・うん。知ってた。自分のギャグセンスが最近の若い子たちに響かない事くらい。でもどの年代なら響くのかは知りません。
++++++
そんなこんなで、無意味に海辺で小さな黒歴史を刻んだ翌日も、いつも通り学校はあるわけで、勤勉な優等生・・・という訳でも無い僕だが、特に体調が悪くない限りはそこそこ真面目に学校に通う一般的な男子高校生であるからして、朝礼の五分前くらいには教室に到着している。
「おはよ。・・・・・て、何よそのクマ。寝不足?」
隣の席に既に座っていた桜ちゃんは、朝練後なのかしっとりと湿った髪をタオルではたきながら挨拶をしてきた。
「おはよう。気にしないでくれ。ちょっと最近の若者にウケるギャグの研究に没頭してただけだ」
嘘である。いや、最初はちょっと悔しくてお笑いの動画などを見て勉強(?)していたのだが、段々脇道に逸れて普通にYoutuberの動画を適当に見ていたら、いつの間にか朝方近くになっていたのだ。
・・・割と面白い動画を何本か見た筈なのだが、肝心の内容は殆ど覚えていない。中身が無くても何時間も楽しめるとは、やはり現代エンターテイメントのトップを走るコンテンツは違うぜ。内容を覚えられないと言う意味では純文学と通じる物が有り、その共通項からエンターテイメントの真髄を感じる貴重な時間だった。嘘です。度々すいません。貴重な青春を無為に浪費したパーフェクト無駄な時間でした。
「最近の若者はそんなアホな研究するほど暇じゃ無いわよ。・・・・・・あと、また下らないこと考えてるでしょ」
「凄いな桜ちゃん。僕の心の中を読めるほどよく見てくれているなんて、さては僕のことが・・・」
「いや、誰でも分かるわよ。普通にキモい顔してるし。あと桜ちゃんて呼ぶな」
「せめて表情って言い直そうか? あともし万が一僕の顔の造形の事を言ってるなら、親に謝ってね?」
「自覚あるならやめなさいよ・・・・・。別に顔自体は普通じゃない? 特にブサイクでもイケメンでも無いと思うけど。てかアンタの顔って、眼鏡とその無駄に長いボサボサ髪のせいであんま記憶に残んないのよね」
「どうしてだろう。キモいって言われた時より十倍くらい傷ついてる僕がいる」
「おお? 朝からドMカミングアウトか湊? オープンスケベは嫌いじゃないが、経験不足の桜にはちょっとハード過ぎじゃね?」
後ろの席から的外れなツッコミを入れて来たのは、磯子蓮。長身でおっとりした垂れ目という如何にも温厚そうな男子なのだが、思春期全開の下ネタ好き。今日も朝から絶好調である。
「誰が経験不足よ! あ、あたしだってそれなりに・・・・・」
「ほっほ〜う? じゃあその経験とやらを具体的かつ生々しい表現で聞かせて貰おうか?」
「へっ!? え、ええっと・・・・・」
「いや桜ちゃん。仮に経験があったとしても話さなくて良いから。そんな話聞かされても明日から接し方に困るし。あと蓮、朝から最低なセクハラッシュはやめなさい。学生だから野放しにされてるだけで、社会に出たらお前、速攻刑務所行きだからな?」
「そ、そうよね! 死ね! 変態! ・・・・・あと湊。桜ちゃんて呼ぶな」
「はっはっは! だからこそ今のうちに言いたい放題やりたい放題するんじゃ無いか!」
僕の向ける白い目や桜ちゃんの突き刺すような殺意の込もった視線も意に介さず、蓮は楽しげに笑い声を響かせる。
「おーい。そこの三馬鹿。ホームルーム始めるから静かにしろー」
イラっとした僕と桜ちゃんが蓮に一発蹴りを入れようと足を伸ばしかけたところで、いつの間にか教室に入っていた担任の根岸先生(三十代バツイチ女性)に間延びした声で注意された。
「ちょっと先生! こいつらとあたしを一緒にしないでよ!」
「その通りです。僕はこの二人より成績良いので三馬鹿は心外です」
「はぁ!? 何よそれ!」
「この間のテストでちょっとだけ俺らより順位良かっただけだろ? 同じ穴の兄弟だって」
「それを言うならムジナなー。あとそれ以上ヤバい発言したら親呼ぶから覚悟しとけよ磯子ー」
「俺だけ扱い違くね!?」
担任が伝家の宝刀「親呼び出し」をチラつかせ、蓮がオーバーリアクションを取ると、教室がワッと湧く。
我らが東横高校一年B組は、今日も平和である。