6.十月の山
その女性は実に綺麗という言葉がふさわしかった。
女性の名前は田端紅葉。長い黒髪に白い肌、湖のように多くの人を魅了する澄んだ瞳。そして、すらりと延びた長い手足。すれ違う男性の大半が彼女を見つめ、そして振り返る。
紅葉の職業はファッションモデル。中学生のときにスカウトされ、それ以降、モデルを続けている。あまりにも人気があるため、最近では映画にも出演している。
彼女がモデルとなった服やスカートは飛ぶように売れる。今や若い女性で彼女を知らない人はいないと言って良い。もし、彼女を知らない若い女性がいたとしたら、その女性は自分を美しく見せようとしない女性だろう。そのような女性は、なかなか見当たらない。山ガールですらファッションに気を使っている。だが、山下青葉のような例外もいるようだ。
田端紅葉には大好物がある。それは肉まんだった。コンビニで売られている肉まんを買い、家で食べるとき、彼女はこの上ない幸福を感じる。それは遠い昔、母親がつくった肉まんを思い出すためだろう。紅葉の母は十三年前に病気で他界した。それ以降、彼女は肉まんを食べているとき、母との楽しかった思い出も一緒に噛みしめていた。
だが、彼女はファッションモデルを生業としている。仕事のイメージを損ねないように、コンビニへ行く際は、常に、帽子の中に長い髪を隠して被り、黒ぶち眼鏡を掛け、口元は白いマスクをつけている。
今日も、彼女は肉まんを買うためにコンビニのレジで並んでいた。
カウンターのボックスには肉まんが四つ入っている。
(これならば買えるはず。売り切れることはないわ。)
そう安心した紅葉だったが、紅葉のひとつ前に並んでいた元気そうな女性が、
「おじさん、肉まんを四つください」
と、なんの屈託もない明るい声で紅葉を不幸のどん底に落としたではないか。
「緑、黄美子、今から食べよう」
肉まんを受け取った女性が飲食コーナーで待っている友達のもとへ急いだ。
「肉まんは…ありませんか?…」
紅葉が涙目で店員にうったえかけた。
「すみません。今日の分はもう売り切れました。明日また来てください」
店員が申し訳なさそうに答えると、まるで紅葉は人生の目的を失ったかのように、トボトボと出口に向かった。
店を出ようとしたとき、いきなり袖を引っ張られた。袖を引っ張ったのは、さっき肉まんを四つも買った女性だった。
「あなたも肉まんが食べたかったのね。こっちに座って。一緒に食べよう」
その女性、おさげ髪の山下青葉は、初対面の紅葉に対して何の警戒ももたない明るい笑顔で話しかけた。
それよりも紅葉は、テーブルの上に置かれている肉まんを見て、飛びついた。
「本当に私が食べていいの?」
「うん。いいよ」
けがれのない純粋な笑顔を青葉が見せる。
「ありがとう。いただきます」
そういって座席に座ると、紅葉がマスクを外して幸せそうに肉まんをほおばる。暖かい饅頭に包まれた中から肉汁が染み出して、その味が口いっぱいに広がっていく。このとき紅葉は、母親の顔を思い出し、この上ない幸せを感じる。
「まるで、青葉みたいに幸せそうに食べているね」
向かいに座った背丈の低い女性が呟いた。
「あ、私は野上緑。よろしくね」
ツインテールの髪型をした緑が、天使のように愛らしい笑顔を見せる。
「わたしは…紅葉。紅い葉っぱと書いて『もみじ』と呼ぶのよ」
紅葉がたどたどしく返事をすると、隣にいた青葉が会話に飛びついた。
「えーっ、わたしは山下青葉。青い葉っぱと書くのよ。紅葉とは一文字違いだよ。よろしく。そして、ここに赤、青、黄色、緑の色が揃ったね。これは奇跡よ。神様が導いた奇跡にちがいないわ」
青葉が喜びに満ちた顔をした。
「本当に奇跡のようだわ。わたしは谷川黄美子。黄色く美しい子と書くのよ。よろしくね。
他の二人に比べると、黄美子は大人しそうだ。ボブカットの髪型で素朴な顔立ちをしていた。
「ところで、紅葉の名字は何て言うの?」
まるで長年付き合っている友達に語りかけるように、青葉が尋ねる。
「私? 私の名字は…」
驚きつつも、紅葉は自分の名字を言うのにためらった。田端紅葉と言えば有名なファッションモデルであるため、名前を隠したかった。だから、とっさに偽名を語った。
「た…、田中、田中紅葉です」
「一文字違い…」
青葉がボソッとつぶやいた。
(やはり『田中』だと一文字違いなのでまずかったかな…。)
紅葉は内心穏やかではなかった。
「紅葉。私とあなたは一文字違い。そんなあなたに出会うなんて、奇跡だね。仲良くしよう」
青葉は感激し、紅葉の手を掴み、強引に握手した。青葉はファッションモデルの田端紅葉を知らなかった。当然である。青葉はファッションには全く興味がない女性である。
「紅葉、メルアドを教えてくれる?」
更に無邪気そうに青葉が尋ねた。
「ご、ごめん。私はスマホも携帯も持っていないのよ」
とっさに言い訳した。すぐに嘘だとわかる言い訳だった。
だが、青葉は紅葉の言葉を信じた。疑うことを全くしない。
「そうなの。残念だけど仕方ないや」と、あっさり納得した。
「ところで紅葉、今度の日曜日は時間ある? もしよければ一緒に山に登らない? 緑と黄美子も私の山登り仲間なのよ」
もはや青葉は、紅葉に普通の友達として接している。
「ごめん、今度の日曜日は用事があるの」
実は紅葉は、今度の日曜日に映画の撮影があり、一日中スケジュールが埋まっていた。
「そうか…。それは残念。でも暇なときができたら教えてね。いつか一緒に山に登ろう」
そういって青葉が自分の携帯電話の番号を書いた紙を紅葉に渡した。ついさっき会ったばかりだというのに、まるで青葉は学校や職場の友達みたいに、何の屈託もなく紅葉に接している。
肉まんを食べ終わり、コンビニを出るときも、青葉は紅葉に対して大きく手を振った。
「時間があったら電話してね! いつでもいいよ」
紅葉は不思議な感覚だった。たった十五分ほどしか話していない青葉が、紅葉の頭から離れなかった。キラキラと輝く笑顔、人を疑う心など全くない純粋な瞳、それが忘れられなかった。だから、青葉とはまた会えそうな予感がした。それはうまく説明できない直観のようなものだった。
次の日曜日、埼玉県の森林公園で映画のロケが行われていた。
ここは周囲を森で囲まれた静かな場所だった。もちろん撮影のための規制が設けられており、一般の人は撮影場所には入ることができない。ここに入ることができるのは映画関係者だけである。そのはずだった。
今、その場所で、人気沸騰中のファッションモデルである田端紅葉と、男優とのラブシーンが撮影されていた。このシーンは映画の中でも特に重要なシーンだった。
ところが、森の木々の一部が少し揺れだしたかと思うと、いきなり森の中から一人の女性が現れた。そして撮影シーンに駆け足で割り込んできた。
「みどりー、そんなに怒ったら体に良くないよー」
青葉だった。青葉が後方へ向けて大声を出しながらラブシーンの真っ只中を横切った。すると、今度は森の中から童顔の少女が現れた。緑だ。緑は天使のような顔に似合わず、怒っているように見える。
「あおばー、誰がこんなに怒らせたの? 食い物の恨みは恐ろしいのだからー」
緑は先に現れた青葉を追いかけていた。すごい勢いで撮影シーンを横切った。
撮影スタッフが戸惑っていると、更にもう一人、森の中から女性が現れた。黄美子だった。
「二人とも待ってー。私をおいて行かないでー」
黄美子も駆け足で撮影現場を横切った。
時間にして三十秒ほどだが、撮影を妨害されたため、撮影スタッフは唖然としていた。いや、それ以上にヒロインの田端紅葉が怒っていた。
紅葉にとっては初めての主演映画であり、初めてのキスシーンだった。セリフを全て完璧に暗記して、それなりの覚悟で挑んでいた。それを、あの三人に邪魔されてしまったため、穏やかな気持ちは消え失せていた。
紅葉は視力が弱く、普段かけている黒縁眼鏡を今はかけていないため、あの三人が先週出会った三人だとは気づいていない。
さらに一週間後、今度は東村山市のとあるデパートの食料品売り場で映画撮影のロケがあった。先週と同じ映画スタッフである。
本日の紅葉は、とても長い台詞を語っていた。何回かのエヌジーの後、ようやく完璧に語り終えようとしたまさにそのとき、
またしても先週と同じ女性が現れ、撮影シーンに割り込んできたではないか。青葉だった。
「みどりー、この牛肉安いよー。早く買わないと無くなってしまう」
青葉から呼ばれた緑はキョロキョロと辺りを見回した後、いつもとは違う様子に気づいた。青葉の手を引っ張り、立ち去ろうとした。
「緑、どうしたの?」
訳がわからずキョトンとしていた青葉の胸ぐらを、紅葉が思いっきり掴んだ。
「おのれー、一度ならず二度までも私たちの邪魔をして…、今日の台詞は覚えるのが大変だったのよ」
紅葉は激怒していた。青葉のシャツを掴んだ両手がわなわなと震えている。それでも青葉は状況がのみ込めなかった。
「ごめんなさい。友達はまだ状況がのみ込めてないようですので、後できつく言い聞かせます。ご迷惑をおかけしました」
緑が頭を深く下げ、青葉の代わりにお詫びをした。そのしおらしい振る舞いは、まるで天使が謝っているようだった。
(この声はどこかで聞いたことがある。そういえば、私が胸ぐらをつかんでいるこの女性の声もどこかで…)
「あっ!」
紅葉は思わず青葉の胸ぐらを掴んだ手を離した。
「あなたたちは…」
紅葉がそう言おうとしたとき、緑が青葉の手を引き、急いでこの場から離れた。青葉は訳がわからずに緑から引っ張られた。
「緑、デパートでさっきの人たちは何していたのかな?」
黄美子の家で鍋を囲いながら食事をしているときに青葉が尋ねた。
「さっきは映画のロケだったのよ。どうやら私たちは、撮影の邪魔をしたみたい」
すると黄美子が豆腐を鍋から取りながら、
「そういえは、先週行った森林公園でも映画のロケがあったようよ。青葉と緑は勢いよく駆けていたので、気づかなかったと思うけど…」
「あー、だからあの女性は凄い形相で怒っていたのね。悪いことをしたなぁ」
「でも、先週は森の中から飛び出したので撮影中かどうかわからなかったけど、今日はデパートでしょう?入場規制はされてなかったの?」
黄美子が素朴に尋ねた。
「それが、ガードしている人たちはいたのだけど、青葉が片手をあげて『お疲れ様です。いつも感謝しています』といったので、映画関係者だと誤解して入れてくれたみたい。素直に通してもらえたのよ」
緑が昼間のことを振り返って説明した。
「えーっ、緑、あの人たちはデパートの従業員ではなかったの?」
「どこに売り場に入るのを阻止する従業員がいるの?」
「てっきりバーゲンセールで大混雑するので入場規制がされていると思ったのよ」
「ということは…、青葉は入場規制がされている場所には、いつもあの方法で入るの?」
「うん。そうよ」
青葉が悪びれることなく答えた。
そんなときに青葉のスマホに電話がかかってきた。
「はい。山下です」
スマホを片手に応答すると、相手が一瞬ためらいながら話し始めた。
「…私は紅葉…。以前あなたから肉まんをもらった私を覚えていますか?」
「もちろん覚えているよ。電話してくれてありがとう。紅葉も山に登る気になったのね」
「いえ、そうではなく…。さっき、青葉は東村山のデパートにいたかしら?」
「うん、いたよ。間違えて映画の撮影場所に入っちゃった。そしたら怖い顔をした女の人に胸ぐらを掴まれてね。殴られるかと思ったよ。ところで、紅葉もその場所にいたの?」
青葉の胸ぐらをつかんだ女性が紅葉だとは、青葉は気づいていない。紅葉はどう返事しようかと悩んだ。そして、
「…私も間違えて…映画の撮影場所に入っちゃった」
「あはは、紅葉もドジだね。私と一緒だよ」
くったくのない青葉の笑い声が響きわたる。
「ところで、二週間後、武蔵横手駅から高麗駅までハイキングをする予定なのよ。高麗では五百万本の曼殊沙華を見ることができるわ。きっと紅葉も感動すると思うよ。一緒に行こう。私は紅葉と一緒に行きたい」
強引な青葉の誘いだった。紅葉が予定表をめくってみると、二週間後は時間が空いていた。青葉から五百万本の曼殊沙華と知らされ、紅葉も見たい願望が沸き起こった。
「二週間後ならば大丈夫です」
「紅葉、ありがとう。紅葉がOKしてくれたので、私は嬉しい」
青葉は純粋に喜び、待ち合わせの時間や持っていくものを説明した。
二週間後、青葉は西武新宿線の小平駅で紅葉と待ち合わせをした。
紅葉は時間通りにやって来た。紅葉は西武拝島線の萩山駅が最寄り駅だった。
「紅葉、久しぶり。会いたかったよ」
青葉は相変わらず手を大きく振って、紅葉を迎えた。不思議と何故か、青葉のその行為に、紅葉は胸がキュンと鳴ってしまう。
(青葉は私を大切にしてくれる)
そう思うだけで、紅葉は嬉しさがこみ上げた…。ただし、映画撮影の妨害行為を除けばだが…。
今日も紅葉は黒縁眼鏡をかけて長い髪を帽子の中に入れている。さらに、マスクをして口元を覆っている。これだと、映画女優の田端紅葉とは誰もわからない。
「紅葉、今日も風邪をひいているの?」
人を疑うことを知らない青葉が、マスクをつけている紅葉の心配をした。
「大丈夫。少しだけ咳き込むことがあるので、青葉に移さないようにマスクをしているの」
「ふうん。紅葉は優しいね。この前出会った女の人とは大違いだよ」
「この前出会った人って?」
紅葉が尋ねると、話したくてウズウズしていた青葉がマシンガンのように話し出した。
「この前、東村山で間違って映画の撮影現場に入っちゃった。すると、そこにいた女の人から胸ぐらを掴まれて、怒鳴られちゃったのよ。すごく怖かった。紅葉も間違えて撮影現場に入ったのよね。紅葉は胸ぐらを掴まれなかったの?」
青葉は、胸ぐらを掴んだ女性が、目の前の紅葉だとは気づいていない。
「私はすぐに気づいて撮影現場を離れたので、大丈夫だったわ」
紅葉がとっさにこたえた。
「あの女の人には紅葉の爪の垢でも煎じて飲ませたいな。そうすれば優しい気持ちになるのに…」
青葉が説明すると、紅葉はわなわなと両手を握り締めて震えだした。
「紅葉、どうしたの? 両手が震えているよ」
「ごめん。急に寒気がして…」
紅葉がとっさに胡麻化すと、青葉がリュックからガウンを取り出して、紅葉の肩にかけた。
「そのガウンを着てごらん。暖まるよ」
青葉は紅葉のリュックを持ち、紅葉がガウンを着やすいようにした。そして紅葉がガウンを羽織ると、その上から抱きしめた。
「私が暖めてあげる。だから紅葉は風邪ひかないでね」
青葉には、これっぽっちの羞恥心も無い。
「青葉…、恥ずかしいよ。抱きしめなくても、ガウンだけで大丈夫だから…」
紅葉の必死の抵抗で、青葉は紅葉を抱きしめるのをやめた。
青葉の性格が紅葉には良くわからない。 映画の撮影を妨害した青葉と今の優しい青葉。そういえば最初に出会ったときも、青葉は紅葉のために肉まんを渡してくれた。
とにかく、今の紅葉にわかることは、目の前にいる青葉はとても暖かい。紅葉を大切にしてくれる。それは間違いなく事実だった。
(今の青葉を信じよう)
そう判断して、紅葉は青葉と共に電車に乗り込んだ。
東村山駅で谷川黄美子と合流し、所沢駅で電車を降り、野上緑と合流した。それからみんなで、西武秩父行きの電車に乗った。
電車に乗っている途中、紅葉は気づいた。青葉は緑と話しているときが一番楽しそうにしている。
(これは嫉妬?)
紅葉は愕然とした。紅葉は今まで人から嫉妬されたことは何度もあるが、嫉妬したことは無かった。それは、紅葉が青葉のことを凄く気に入っている証拠でもある。
紅葉のその様子に気づいた黄美子が、紅葉の耳元で声をかけた。
「気にすることはないわ。緑は青葉のお父さんやお母さんとも深い仲で、家族ぐるみで付き合いをしているのよ。だから、あの二人は姉妹みたいに仲が良く、姉妹みたいにケンカが絶えないのよ」
「ケンカが絶えない…? とてもそうは見えないけど…」
「ケンカするほど仲が良いって言うでしょう。この前、森林公園に行ったときなんて、青葉が緑のお弁当の玉子焼きを勝手に食べちゃって、大変だったのよ」
紅葉は、森林公園での青葉と緑の声を思い出した。確かにあのときは弁当のおかずの取り合いのようだった。
「ああ、確かに…」
紅葉がつい口ずさんだ。その行為を黄美子は見逃さなかった。
「やっぱり。あなた、田端紅葉さんよね? 田中という苗字は偽名…」
黄美子が耳元でささやいた。
そのとたん、紅葉はギクッとした。目の視点が左右に揺れた。
「大丈夫よ。あなたの秘密をばらすつもりはないわ。それに、青葉も緑も、『田端紅葉』というファッションモデルを知らないと思う。自慢じゃないけど…本当に自慢じゃないけど、あの二人は、おしゃれには全然興味がないのよ」
黄美子の説明を聞き、紅葉は唖然とした。今どきの日本でおしゃれに全然興味がない女性などいるのだろうか? だが、青葉と緑を詳細に観察すると、二人とも化粧はほとんどしておらず、おしゃれもしていない。それは事実だった。そして紅葉は安心した。
だが黄美子が続けた。
「その代わり…」
黄美子の言葉に、紅葉はゴクンと唾を飲み込む。秘密にする代わりにどんな途方もない要求があるのかと想像した。
(もしかして、黄美子はテレビに出てくる悪役女性のように、表面ではおっとりしているが裏では残忍なことをする女性なのでは…)と、紅葉は恐れた。
「その代わり、後でサインをちょうだい。私って、洋服のファッションに凝っているのよ。もちろん田端紅葉さんのファンよ」
舌を出して屈託もなく黄美子がサインをおねだりした。それを聞き、紅葉は胸をなでおろした。どうやら、三人の中では黄美子だけがおしゃれに興味があるようだ。
やがて電車は武蔵横手駅に到着した。
「みんなー、トイレを済ませてね。これから山を三つ超えるわよ。途中にはトイレは無いからね」
緑がみんなに指示をする。緑はこの山へ何度も登っているように見える。
全員がトイレを済ませたのち、出発した。この駅の周りには売店が無い。民家すら無い。山の中に駅があるようなものだった。信号機の無い道路を横切り、山道に入った。
舗装された山道であるため、最初は楽に歩くことができる。
「紅葉、一緒に先頭を歩こう。その方が自分のペースで歩けるので疲れないよ」
「わかったわ。ありがとう」
紅葉は青葉から声をかけられたことが嬉しかった。先頭を歩くので、自分のペースで歩くことができる。
紅葉にとって、今日は久しぶりの休日だった。緑の木々に囲まれた道を歩くのが心地よい。
だが、紅葉には一つ気になることがあった。紅葉のリュックは軽かったが、青葉や緑、黄美子のリュックは結構いろんな荷物が入っているようだ。リュックが大きく膨らんでおり重そうな気がする。
「青葉たちのリュックには何が入っているの?」
「良いものが入っているよ。山の頂上に着いたときに教えてあげる」
青葉はもったいぶって教えてくれない。緑に尋ねても、「後のお楽しみだよ」と言って教えてくれなかった。黄美子に尋ねると、黄美子は「うふふ」と、微笑むだけだった。
山道を登ってゆくと、最初はなだらかな坂だったが、途中から傾斜が急になってきた。
紅葉はマスクを外した。その方が楽に呼吸できる。それにマスク無しの方が、空気が美味しく感じられる。
急坂を登りきると、道の右側に滝があった。五常の滝である。
ここで入山料二百円を箱に入れて滝を拝んだ。滝にはマイナスイオン効果があり、疲れを癒してくれる。それほど大きな滝ではないが、流れ落ちる水を見るだけで心が癒される。
紅葉は汗を拭き、ペットボトルのお茶を飲んだ。喉が渇いているので、お茶がおいしい。
「チョコレートあげる」
青葉がチョコレートを一粒ずつ皆に渡した。
紅葉がチョコを食べると、すごく美味しい。
「青葉、何故にこのチョコは、こんなにも美味しいの?」
「それは、紅葉がここまで自分の足で登ってきたからだよ」
青葉が自信たっぷりに答えた。それと同時に青葉は、五月に山登りをしたときに飲んだ飲料水の美味しさを思い出した。
紅葉は最近、こんなに汗をかいたことが無い。それに、スリムな体形を維持するために、甘いものを控えていた。だから今日は、久しぶりに食べたチョコレートが美味しく感じる。
「たまには山登りも良いわね」
紅葉の素直な気持ちだった。帽子を外し、帽子の中に隠していた長い髪をあらわにした。美しい黒髪が風で揺らめいた。
「えっ?」
緑が驚いた。緑は紅葉に何か言いたそうだが、あえて何も言わなかった。
「わー。紅葉ってロングヘア―だったのね」
長い髪が現れても、青葉はデパートで胸ぐらを掴んだ女性が紅葉だとは気づかない。おそらく紅葉がつけている黒縁眼鏡のおかげだろう。
ここでしばらく休憩した後、再び登り続けた。これからは舗装されていない細い山道を行くことになる。
しばらく歩くと、北向地蔵の場所に着いた。ここはその名のとおり、お地蔵様が北に向かってひっそりと佇んでいる。昔、このお地蔵さまが村の疫病を防いだとの言い伝えがあり、今でも近所の人が定期的に掃除をしているようだ。この祠は清潔に保たれていた。
ここからは物見山へ向かって、さらに細い道を登って行く。
「紅葉、大丈夫? 疲れていない?」
青葉が尋ねる。紅葉の歩みが遅くなったため、青葉が紅葉の心配をした。
「疲れているけど、楽しい。自分の足で歩いているって実感できる。私は今まで、車に頼った生活をしていたけど、こうやって自分の足で一歩ずつ歩くのは、生きているのが実感できるわ。それに、周りが緑の木々で覆われている。だから気持ちいいのよ」
紅葉は疲れていたが、精神は充実していた。
細い道を登りきると、やがて、物見山の頂上に着いた。標高三七五・四メートルの頂上は木々に覆われており、見晴らしは良くない。
ベンチが二つあった。さっそく緑たちがリュックからガスバーナや鍋を取り出して、お湯を沸かし始めた。
「えっ?」
紅葉が驚いていると、
「今日のお昼は、ここでカレーライスだよ。もちろん、レトルトのカレーだけどね」
緑が説明する。
「…私は何も持ってきていないけど…」
「大丈夫。紅葉の分も用意しているので心配しないで良いのよ」
すかさず黄美子がささやいた。
「今から紅葉の歓迎会を兼ねてのカレーライスパーティだよ」
「青葉、カレーライスパーティって意味がわからないけど…」
すかさず緑がつっこむ。
「パーティみたいに楽しく食べようってことだよ」
「だから、みんなのリュックに荷物がたくさんあったのね」
ここにきて、ようやく紅葉にも理解できた。カレーもご飯もパック詰めされており、熱湯で温めるだけで素早くカレーライスができた。カレーとライスを皿に盛った後で、黄美子が福神漬け、ラッキョウ、プチトマト、キュウリの塩漬け、それにチーズを皿に盛った。こんなにいろんなものが盛られると、豪華に感じる。
「紅葉の参加を祝って、いただきまーす」
みんなで一斉に食べ始めた。
紅葉は一人暮らしをしており、普段は一人でレトルトカレーを食べているが、そのときには美味しさなど感じない。
しかし、今は全員で食べている。みんなで食べるだけで、味が全然違っていた。とても美味しく感じる。それに黄美子の盛り付けた漬物やチーズが更に美味しさを引き立てる。汗をかいた後で食べているのも、美味しさの一因である。しかも、食べている最中、青葉がひっきりなしに話しかけては笑わせてくれる。とても楽しい時間だった。普段の紅葉には決して味わうことができない美味しさだった。
「嬉しいわ。こんなにおいしい食事をしたのは久しぶりよ。誘ってくれてありがとう」
思わず言葉がでてしまった。
「これからも誘うので、都合がついたときに参加してくれるといいよ」
青葉が気さくに声をかける。
「私たちはいつでも紅葉を待っているよ」
緑も優しく語りかけた。
「ところで、紅葉は今まで山登りしたことが無いの?」
黄美子が何気なく尋ねた。
「私は無いわ。でも、私のお母さんが私を生むちょうど一年前に山登りをしたわ。そのときは急に雹が降ってきてね。寒くてガタガタ震えたそうよ」
「それはお気の毒だったわね」
「でも、そのとき、見知らぬ人が、寒いだろうと沸かしたてのお湯でコーヒーを入れてくれたそうよ。母はその人の優しさがとても嬉しかったと言っていたわ」
「へー。それは紅葉のお母さんの素敵な思い出だね」
「うん。なんでも、黄土色の帽子をかぶって丸い眼鏡をかけた優しい男の人だったそうよ」
紅葉が答えると、緑がすかさず思い出したかのように、
「もしかして、その人、青葉のお父さんかもしれない。紅葉、その人、青いトレッキングポールを持っていなかった?」と、興奮した様子で尋ねる。
「私は会ったことが無いのでわからない。でも、私の生まれた日のちょうど一年前だから…」
「紅葉の誕生日はいつ?」
すかさず緑が尋ねた。緑は何故だか紅葉の母親に優しくしてくれた人が青葉の父のような気がしてならない。
「九月二十日だけど…」
「青葉、青葉のお父さんの登山帳を調べてちょうだい。きっと見つかるわ」
「二十年前の九月二十日だね。わかった。一応調べておくよ」
青葉はあまり乗り気がしなかったが、緑が熱心に勧めるので同意した。
「ところで、みんなで集合写真を撮ろうよ」
今度は黄美子が提案した。
セルフタイマーでセットし、四人そろった写真を撮った。
黄美子がすぐさま青葉と緑のスマホに写真を送付した。
「私にもその写真を送ってほしい」
思わず言葉が出てしまった。
「でも、紅葉はスマホを持っていなかったのでは?」
「先日購入したの。アドレスを教えるわ」
メールアドレスを黄美子に知らせると、直ぐに黄美子から写真が送付された。その写真を見入っていると、青葉からメールが届いた。
『青葉だよ。紅葉もスマホを購入したのね。これならばいつでもメールで誘えるね』
青葉のメールを見ていると、緑からもメールが届いた。
『緑です。青葉はまだ気づいていないみたいだけど、苗字は田中じゃなく田端だよね。このメールアドレスに送信しても迷惑にならなない? 迷惑だったら皆に使わないように言うよ』
緑らしい思いやりを伴ったメールだった。やはり緑は五常の滝で紅葉の本名に気づいていた。
『ううん、大丈夫です。ありがとう。でも、青葉には秘密にしてね』
紅葉が緑に返信した。するとすぐに緑から「了解」とのメールが返ってきた。
青葉だけでなく、緑も黄美子も紅葉に優しく接してくれる。紅葉はとても嬉しくなった。
「私は何も持ってこなかったので、ゴミは私が自宅に持ち帰ります」
食事が終わった後、紅葉が率先してテキパキと片付け始めた。紅葉のリュックにカレーの紙皿やレトルトパックをゴミとして袋詰めした。
「紅葉、ありがとう。紅葉みたいな人がいると山が綺麗になるわ」
緑が素直に感謝した。いつもは緑が食事の後はゴミの片づけをしている。だから緑としては、紅葉の行動が嬉しかった。
片付けが終わると、次は高指山を目指して山を降る。しばらく歩いた後に山道から出て、車道を横切ることになる。高指山には以前は頂上にNTTの無線中継所があり、電波塔が建っていた。しかし、今では撤去されている。山というよりも物見山と日向山との間にある瘤のような丘のイメージだった。
次は日和田山を目指して山道を歩き続ける。
日和田山に近づくと、目の前の小道がいきなり険しくなった。道というよりは山の急斜面と言った方が良い。息せき切って斜面を登り終えると、ようやく日和田山の頂上に到着した。標高は三〇五メートル、低い山である。
「ここから都心の高層ビルやスカイツリーを眺めることができるよ」
青葉がいうとみんなが集まってきた。
「わー、あれが新宿の高層ビル街だね。そしてあればスカイツリー」
紅葉はファッションモデルの仕事場所がある新宿の高層ビル街を眺めると、不思議な気分になった。おそらく、一時間もあればあの場所に行くことができるだろう。だが、今の自分は、仕事とはまったく関係ないことをしている。仕事はそれで楽しいが、今はこれで楽しい。今のこの時間を大切にしたいと感じた。
「さあ、今から山を降りよう。五百万本の曼珠沙華が待っているよ」
緑が声をかけ、みんなで山を降った。
鳥居の場所まで降りると、素晴らしい眺望が開けていた。
「わー、山頂よりもいい眺めね」
紅葉が思わず声を出した。
「ヤッホー」
青葉が大きな声で叫んだ。
「紅葉もヤッホーって言ってごらん。気持ちいいよ」
青葉に勧められるまま、紅葉も大きな声で、「ヤッホー」と叫んだ。
「あっ、本当だ。気持ち良い」
紅葉は何故か心が弾んでいる。展望を満喫し、ふもとにある高麗駅周辺を眺めた。
「あっ、あそこだけ赤い。何があるのかしら」
紅葉が指さした場所は高麗の『巾着田』という場所だった。川が大きく蛇行しており、その川岸の場所が異常に赤かった。
「あの場所に五百万本の曼珠沙華があるのよ。今から私たちは、あの場所を目指して歩いて行くわよ」
緑が意気揚々と答えた。
「えーっ、あんなところまで歩くの?」
山の上からだと曼珠沙華が咲いている巾着田までは、はるか遠くに見える。
「大丈夫、あと三十分も歩けば到着するよ」
「よし、今から巾着田を目指して進もう」
青葉の掛け声に、四人は再び歩き始めた。すると、目の前に男坂が現れた。今までとは段違いの急な斜面、というよりは絶壁に近い斜面だった。
「気持ちを集中して、気をつけて降りてね」
緑がみんなに注意を促した。
この急斜面を降りる際は、まるでロッククライミングをしているような気分が味わえる。若葉も紅葉も、ワクワクしながら降りて行った。黄美子も覚悟を決めたかのように、しっかりした足取りで降りた。青葉たちと一緒に山登りをするようになって、黄美子は足腰が頑丈になり、度胸もついた。
その後の山道を登山口まで降り、道路を横断すると、やがて巾着田に到着した。
入園料は二百円である。中へ入ると、辺り一面が真っ赤な曼珠沙華で覆われていた。
この場所は、かつて天皇陛下も視察されたことで有名な場所だった。
「わー、素敵ね」
黄美子が頬に手を当てて、思わずうっとりしている。
青葉も紅葉も思わず感動していた。
そして、紅葉は思わず考えた。
(この感動は曼珠沙華が美しいから? いえ、それだけでは無いわ。青葉がいる、緑がいる。黄美子がいる。みんなと一緒にこの光景を見ることができた。それが一番嬉しい。)
「みんなで写真を撮ろうよ」
今度は紅葉が自ら声をかけた。
真っ赤な曼珠沙華を背景に、道行く人に頼み、写真を撮ってもらった。
今度は紅葉が皆に写真を転送する。とても素晴らしい記念写真だった。
(ああ、私は今、生きている。充実している)
曼珠沙華を見ながら、紅葉は幸せに浸っていた。
「いまからみんなでお風呂に行こう」
曼珠沙華を満喫した後、緑が提案した。
「近くにお風呂があるの?」
黄美子が尋ねると、
「総合福祉センター『高麗の郷』まで行くよ」と答え、慣れた様子でタクシーを呼び寄せた。
五分ほどタクシーに乗ると、総合福祉センターに到着した。ここに浴場がある。
紅葉は黒縁眼鏡を外したが、相変わらず青葉は気づかない。それどころか、
「あまり見えないのね。手を貸そうか?」と、紅葉に気を使っている。
「大丈夫。でも初めての場所なので、手をつないでくれたら嬉しいわ」
青葉と紅葉が手をつなぎ、浴場へ行った。体を洗う際は、青葉が紅葉の椅子を用意してくれた。
「右からソープ、シャンプー、リンスだよ。間違わないでね」
青葉は視力が弱い紅葉のために、あれこれと世話をした。その一つ一つが紅葉の心に響く。
(嗚呼、もっと青葉と一緒にいたい)
それは紅葉の素直な気持ちだった。
体を洗った後、浴槽に入るときも、青葉は手をつないだ。
「そこに手すりがあるので、つかまったら楽だよ」とか、「浴槽の出っ張りがあるのでぶつけないでね」とか、青葉は紅葉を大切に世話した。
それから四人して湯船につかった。疲れた体に湯船のお湯が心地よい。浴槽が広いので、足を思いっきり延ばすことができる。
「ふー。極楽・極楽」
青葉がタオルを頭の上に置き、気持ちよさそうにつぶやく。青葉は何をしても幸せそうだ。そんな青葉を見ているだけで、紅葉は嬉しかった。
肩まで浸かったお湯が暖かく、疲れが取れていきそうな気分になる。湯船の中で4人は、とりとめもない話をした。みんなが気持ちよさそうにしている。
「本当に極楽のようよ。今日はここに来ることができて、良かったわ。また誘ってね」
「うん。必ず誘うよ」
青葉や緑、黄美子が一斉に返事した。見事なシンクロだった。
お風呂の後はみんなでゆったりと食事をした。豪華な食事ではないが、みんなで一緒に食べると楽しい。まるで旅行に来たように、贅沢な時間の過ごし方だった。
その後、JR八高線の高麗川駅まで十分ほど歩き、電車に乗って帰宅した。
紅葉にとって、今日は充実した一日だった。おそらく、紅葉は今日の出来事を一生忘れないだろう。
十月は昼間の時間がだんだん短くなってゆく。山登りを行う際は、帰りの時間を十分に考慮して計画を立てよう。
秋の山は美しい。東京周辺の紅葉は温暖化のために十一月になってしまったが、地方では十月に美しい紅葉が見られる場所が多数ある。それに、秋にはコスモスなどの美しい花も多数咲く。
きっと素敵な思い出になるだろう。
家に着いた青葉は、父親の部屋で登山帳を調べていた。この登山帳は青葉の父が生前書き残したものだった。
「二十年前の九月二十日は…と…」
青葉が登山帳をめくった。
「あった」
ようやく見つけた登山帳の該当ページには、次のように書かれていた。
『九月二十日 武甲山 午前中は晴天だったが、昼過ぎになると、いきなり雹が降り出した。気温が急激に下がる。新婚夫婦の登山者が寒そうにしていたので、コーヒーを渡した。すると、女性の方が涙を流して感謝された。こんな自分でも、人の役に立って嬉しい』
「ああ…」
青葉は登山帳を抱きしめると、嬉しさがこみ上げた。
「お父さん、ありがとう…。お父さんが優しくした人の子供と…、私は友達になったわ」
しばらく青葉は感激に浸っていた。
(私は、今でもお父さんに守られている…。)
青葉はそう感じずにはいられなかった。
窓の外では鈴虫が、心地よい音色を響かせていた。
紅葉はどうでしたか?
これからは紅葉が活躍します。
お楽しみにしてください