3.七月の山
「一目見ただけで私の忘れ物がわかるとは、そなたは母に化けた宇宙人か?」
両手を水平に広げ、片足立ちで、今にも変身しそうなポーズを青葉がとった。
なぜ青葉がこのようなことをしているかというと…、実は今から一ヶ月前、彼女は奥武蔵の伊豆ヶ岳に登り、足をくじいた。そのとき偶然に出会った野上緑に手当をしてもらい、さらに彼女からトレッキングポール(山登り用の杖)を貸してもらった。青葉と緑はすぐに友達になり、一ヶ月後に、高尾山を経て城山まで一緒に山登りをする約束をした。
それから一ヶ月経ち、高尾山に行く日に青葉はリュックの中身を確認した。
「お弁当にお茶、シーツ、応急手当の薬品、財布に帽子、トレッキングポール、すべてあるわ。それじゃあ、お母さん、行ってきまーす」
「ちょっと待って、青葉、忘れ物している」
靴を履こうとする青葉を母は呼び止めた。
「一目見ただけで私の忘れ物がわかるとは、そなたは母に化けた宇宙人か?」
両手を水平に広げ、片足立ちで、今にも変身しそうなポーズを青葉がとった。青葉はテレビ番組のアクション女優の真似がしたかったようだ。
「何をバカなこと言っているの」
青葉の母、若菜がたまたま持っていた胡麻すり用のすりこぎで軽く青葉の頭を小突いた。
「コン」と重い音が響き、青葉の頭には、いちおう脳みそが詰まっていることがわかる。
「いたぁ。お母さん、それ、予想以上に破壊力あるよ」
「あら、ごめんね。そんなに痛かった?」
若菜が笑いながら謝った。
「痛かったよ。お詫びのしるしとしてプリンを二つちょうだい。くれなければ、子供110番へ訴えるよ」
「もうすぐ二十歳になろうとしている娘が、何が子供110番よ。青葉、プリンが欲しいの?」
「傷ついた私の頭と心を癒すにはプリンが二つ必要なの」
「プリンが欲しければほしいと素直に言いなさい」
「…ほしいです」
青葉は素直に負けを認めた。
「プリンならば、さっき渡した弁当箱の袋の中に別の容器に入れたわよ。もちろん緑さんの分もあるわ。容器の中にはドライアイスも入っているので注意してね」
「お母さん、すごーい。私の考えていることがわかるなんて。もしかして宇宙人?」
「青葉、もう一度すりこぎで小突かれたいの?」
「いや、お母さん、ありがとう。お母さん優しいなぁ。私、大好き」
青葉はとっさに母をべた褒めした。青葉は良く言えば純情、悪く言えば単純でお調子者だ。青葉の考えていることは、長年一緒に暮らしている母には手に取るようにわかる。
「ところでお母さん、さっき忘れ物していると言ったけど、お弁当もお茶も入っているし、シーツも応急手当の薬品も財布もトレッキングポールもあるわよ。忘れ物って何?」
「そのトレッキングポールは誰の?」
「これは緑のもの。今日返す予定だよ」
「それじゃあ青葉のトレッキングポールはどこ?」
「あっ」
思わず青葉は手を叩いた。
「私の分を忘れていた。お母さん、頭いいね」
「あなたがしっかりしていないだけよ」
若菜が父の部屋からトレッキングポール持ってきて、青葉が背負っているリュックに装備した。リュックもトレッキングポールも父の遺品である。最近青葉は、父が生前使用していた山登り道具を用いて山登りをしている。
「それじゃあ、お母さん、行ってきまーす」
青葉は元気よく家を出た。
緑とは国分寺駅で待ち合わせをしている。
八時半になると、時間どおりに緑が現れた。
緑の身長は百五十センチ。彼女は天使のような愛らしい顔をしている。よく高校生や中学生に間違われるが、年齢は十九歳であり、れっきとした社会人であり山登りの熟練者でもある。しかも彼女は青葉よりも体力があった。
「おはよう、緑」
改札を出てきた緑は、青葉に気づくと笑顔で両手を大きく振った。その無邪気さが微笑ましい。
「おはよう青葉」
多くの男性が振り向くほどの愛らしい笑顔を緑は見せた。そんな緑を見ていると、青葉も幸せな気分になる。二人が会うのは今日で二回目だが、青葉も緑も、お互いを大切に感じており、まるで古くからの友達のように見える。
「緑、借りていたトレッキングポールを返すね。ありかとう。おかげで山を下るときだけでなく、家に着くまで足に負担をかけずに済んだよ」
「青葉の役に立てて良かったわ」
緑は赤色のトレッキングポールを受けとると、自分のリュックに装備した。
「あれっ?」
緑は青葉のリュックに装備されているトレッキングポールを見て驚いた。
「緑、どうしたの?」
「青葉のトレッキングポールは青色なのね。なんだか懐かしい気がして…」
「緑も以前は青色のトレッキングポールを使っていたの?」
「ううん、そうじゃないけど…、昔のことよ。さあ、高尾山が待っているよ」
緑が青葉の背中を押してJR線の改札口に向かった。
国分寺から高尾山に行くには中央線で高尾まで行き、京王線に乗り換えて高尾山口まで行く。
青葉と緑は乗車場所の先頭で中央特快高尾行きを待っていた。
あと少しで電車が来るというときに、ホームの反対側に各駅停車高尾行きが来た。すると何を考えたのか、青葉がいきなり各駅停車に駆け込んだ。
「みどりー、座席を確保したよー」
各駅停車から青葉の大きな声がする。
緑は頭を抱えて各駅停車に向かった。
「青葉、私たちが待っていた電車は中央特快。各駅停車じゃないよ」
「えっ、そうなの?」
「だから元の場所に戻って」
だが、そうこうするうちに、ホームの並んでいた場所には中央特快が到着し、多数の乗客が乗り込んでいる。
「あー」
諦めのため息を緑がすると、
「大丈夫。各駅停車で座って行こうよ。そのほうが長い時間、旅行を楽しむことができるよ」
何が大丈夫なのかよくわからないが、青葉は落ち着いていた。
確かに中央特快だと早く着くが、満員電車であり窮屈なのは否めない。青葉の言うことも一理あると考え直し、緑は青葉の隣に座った。
「緑、窓の外に富士山が見えるよ。わー、モノレールがやって来る」
まるで子供のように青葉は電車の中ではしゃいでいた。おそらく、中央線で高尾まで行くのは初めてなのかもしれない。そして、急に思い出したように、
「プリンを持ってきたよ。一緒に食べよう」
「電車の中で?」
「乗客が少ないので大丈夫。緑の分もあるよ」
青葉は、リュックからプリンを取り出して緑に渡した。
二人して、たわいもない話をしながらプリンを食べる。
計画では国分寺から高尾まで二十五分の時間で着くはずだった。だが実際は三十分かけて到着した。中央特快に乗っても各駅停車とは五分しか違わない。しかも各駅停車は座席に余裕があるため、青葉と楽しい時間を過ごしながら到着できた。
今日、緑は山登りのコツを山登り初心者の青葉に教えようと意気込んでいた。でも、緑は青葉に電車の中での楽しみ方を教えてもらったような気がする。
(もしかして、教わっているのは私のほうかも知れない。)
緑は青葉の素晴らしさを改めて感じた。確かに青葉には、人を楽しませる魅力がある。青葉と一緒にいると楽しくて楽しくて、時間があっという間に過ぎてしまう。だから各駅停車に乗っても、時間は全く気にならなかった。
やがて青葉たちは、高尾駅で京王線に乗り換え、京王線の高尾山口に到着した。
ここは高尾山の玄関口の駅だった。駅から降りると直ぐに登山のための道がある。
高尾山は東京で最も人気のある山だった。その理由の一つは、登山ルートがたくさんあり、同じ山でも登山ルートにより違った風景をいくつも見られることであり、もう一つの理由は、高尾山口が終点の駅であり、帰りは座って帰れることである。しかも駅前からいきなり登山道になっている。だから、週末になると多くの人で高尾山口駅はにぎわっていた。
「青葉は高尾山に登るのは初めてだよね。だったらまずは、オーソドックスな一号路から登ろう」
緑が一号路へと青葉を導いた。
一号路は頂上まで舗装されており、傾斜が緩やかで登りやすく、最も安全な道である。しかも途中には神社やたくさんの店があり、食事もできるし休憩もできる。そして、お土産も買える。
また、一号路にはケーブルカーやリフトの駅があり、歩くのが苦手な人でも、無理せずに上ることができる。だから一号路は多くの人が利用していた。
青葉も緑も、今日はトレッキングポールを使うことなく登ってゆく。青葉は今日で三回目の登山だが、かなり慣れてきた。緑と楽しそうに話しをしながら、息切れもせずに登っている。
やがて中腹まできたとき、眼下に新宿の副都心が見えた。そしてその彼方には東京タワーやスカイツリーがはっきりと見える。
「すごい。都会のすぐ近くにこんな山があったなんて、私は全然知らなかった」
「青葉、この山には新宿から京王線で五十分もあれば行くことができるんだよ。しかも、帰りは始発駅なので、座って帰ることができるのよ。帰りの電車で居眠りすると、とても気持ちいいよ」
「だから東京で一番人気の山なのね」
青葉は高尾山の人気の理由がわかったような気がした。
山の中腹には土産屋さんや食べ物屋さんが軒を連ねている。青葉は早速、売店で団子を買った。ひとつの串に団子が四個刺さっていた。
「緑、一緒に食べよう」
二人で交互に串から団子を引き抜いた。二人だとこんな食べ方ができる。一人で食べるよりもずっと楽しい。やはり青葉は、楽しみ方が上手だった。そんな青葉を緑は尊敬した。
ここでしばらく休憩した後、神社を通って歩き続けると、やがて高尾山の頂上に着いた。
東の方角を見ると、富士山がいつもよりも大きく鮮やかに見える。まるでここから富士山まで歩いて行けそうな感じがする。
「青葉、トレッキングポールを調整しよう。これから城山に向かうよ!」
緑が真紅のトレッキングポールの長さを調整した。青葉もそれにならって、青いトレッキングポールを調整する。
やがて二人は出発した。ここからは山を縦走する。一号路とは打って変わって、でこぼこの道を歩くことになる。青葉は慎重に歩いた。
歩きながら緑は、登る際のトレッキングポールの使い方や疲れにくい歩き方を、丁寧に青葉に説明した。すると、最初の頃は戸惑っていた青葉だったが、やがて歩き方がさまになってきた。気がつくと、いつの間にか『いちょう台』という場所に到着していた。
「青葉、この場所は紅葉のシーズンに来ると来ると紅葉が綺麗よ」
「じゃあ、紅葉のときに、もう一度来ようよ」
「そうね。でも青葉には、いろんな山を見せたいので、当分は無理かな」
緑は紅葉の時期に青葉と行く山を既に決めているようだった。緑のことだから、ここよりももっと、美しい紅葉を見ることができる場所を知っているに違いない。
さらに歩き続けて『一丁平』という場所を過ぎると、西に相模湖が見えてきた。空の青が反射して湖の色が美しい。山の上から相模湖を眺めるなんて、青葉には初めての体験だった。
「すごーい」
青葉は頬に両手を添えて感動している。歩いてここまで来なければ、決して見ることのできない景色だった。
「この景色を緑と二人だけで見ることができるなんて、すごーく幸せな気分」
青い空、白い雲、そして眼下に見える相模湖の青く澄んだ水の美しさ。青葉は、素敵な秘密の場所を見つけた気分だった。
「ヤッホー」
思わず青葉が叫んだ。
「ヤッホー」
緑も叫んだ
二人とも、この城山から見える景色を、心から楽しんだ。
「あのお店で珈琲を飲もう」
緑が指し示した場所に店があった。まわりには何もない。城山にその店はホツリと建っていた。
「おじさん、お久しぶりです。珈琲を二つ下さい」
緑は店の主人と顔見知りのようだ。おそらく何度もこの店に来たのだろう。
店の前にはテーブルがたくさんあった。
「青葉、ここでお弁当を食べよう」
「でも、これは店のテーブルだよ」
「珈琲を買ったので大丈夫!」
青葉が店の主人の顔を見ると、笑顔でうなずいた。安心した青葉は、早速リュックから弁当を取り出した。
「こんな美しい風景を見ながら食事ができるなんて、最高の贅沢だね」
青葉は、緑と一緒に見たこの光景を、心の特別な場所に残したいと感じた。青葉にとって緑は、いつの間にか大切な存在へと変わっていた。
雑談をしながら食事をゆっくり終えると、青葉たちは再び歩き出した。今度は高尾山までの復路である。この道も、もみじ台から高尾山までは複数の登山道に別れており、コースごとに違う景色を楽しむことができる。青葉たちは往路とは別の道を歩き、高尾山に戻った。
「青葉、吊り橋を渡ろう。四号路だよ」
緑が青葉の背中を押した。
青葉はヘトヘトだが、緑は元気だった。この小さな体のどこにそんな元気があるのかと、青葉は不思議な思いだった。
高尾山の四号路は、緑の木々に囲まれた渓谷の道だった。そして渓谷に吊り橋が架かっている。
「わー、素敵!」
青葉は吊り橋が見えた途端、疲れているにも関わらず、急いで橋まで駆けた。
「緑、ここは本当に東京なの?」
「うん。ここは東京だよ。私は東京でこの場所が一番好きだよ」
緑は物思いに浸りながら呟いた。どうやら緑は、この橋に思い出があるらしい。その思い出は、緑にとって大切なもののようだ。
橋の中央から見下ろす光景は格別だった。
橋を渡り終えて森のなかを横切ると、やがて一号路にでた。
「青葉、まだ体力は残っている?」
「うん。まだ大丈夫。緑と一緒ならば、まだ歩けるよ」
実は青葉は相当疲れていた。だが、緑と一緒の時間は楽しい。だから、まだ頑張ることができる。
「それじゃ、六号路から降りよう」
緑は一号路を横切り、三号路に入った。再び登り坂が続く。それから六号路に入った。ここからようやく下り坂になる。
六号路に入ってしばらくすると、道端で泣いている女の子がいた。小学生よりも幼い。女の子は両方の膝を擦りむいていた。女の子の傍らには母親らしき女性がおり、女の子をなだめていた。
「膝を擦りむいたのですね」
緑が女の子の母親に声をかけた。
「はい。応急手当の道具も持っていないので困っています。
「私が持っています」
すぐさま青葉が、女の子の母親に大きめのカットバンを渡した。
「ありがとうございます。助かります」
母親がカットバンを女の子の膝につけようとすると、
「まって、その前に傷口を消毒しなきゃ」
緑がリュックから未使用のペットボトルを取り出した。
「少ししみるけど我慢してね」
緑が優しく女の子に声をかけた後、ベットボトルのふたを開けて傷口を洗い流した。さらに綺麗なガーゼで傷口を優しく拭いた。そして女の子の母親からカットバンを受けとり、傷口に当てた。
「これで大丈夫。立てる?」
だが、女の子が立ち上がると、足がブルブルと震えていた。立っているのさえ不安定のように見える。
「もしかして、疲れきって転んだのですか?」
「はい。もう早苗は歩く体力が残っていないようです」
母親は不安を募らせており、どうしたらよいかわからないようだった。
「わたしがおぶいます」
そういって緑が女の子の前にしゃがんだ。
「早苗ちゃん、お姉さんの背中につかまって」
女の子が緑の背中につかまると、緑は早苗をおぶって立ち上がった。
体の小さな緑だが、山登りの熟練者だけあって体力がある。
「青葉、私のリュックをお願い」
「まかせて!」
青葉が緑のリュックを持った。二人の行動は素早かった。まるで昔からの友達みたいに、息がぴったり合っていた。
「ありがとうございます。助かりました。
正直、私も疲れており、どうしようかと悩んでいました。大変感謝します」
早苗の母親も歩き始めたが、足取りがおぼつかなそうだった。すると緑は、赤色のトレッキングポールを早苗の母親に渡した。
「早苗ちゃんのお母さんは、私のトレッキングポールを使ってください。かなり楽に降りることができますよ」
そして青葉に向かって、
「青葉、使い方を教えてあげて」
「了解。まかせて!」
青葉は緑が渡したトレッキングポールの長さを調整して、使い方を教えた。
「まあ、すごく楽に歩くことができるわ」
早苗の母親はトレッキングポールを使ったとたんに信じられないような顔をした。
「山は上りよりも下りの方が足に負担がかかるのです。この杖は下りのときにすごい威力を発揮するのですよ」
青葉は、この前覚えたばかりの知識を披露した。
「へー。そうなのですか。詳しいですね」
母親は青葉に尊敬のまなざしを向けた。
青葉は知識の面で人から褒められたことがあまりない。だから青葉は思わず照れてしまった。
青葉が女の子の母親に説明している間、緑は早苗に優しく話しかけた。
「早苗ちゃん、何歳?」
「五歳」
早苗は緑に優しくしてもらったので、親近感を持ったようだ。すぐに返事を返してきた。
「五歳で頂上まで登れたのね。すごーい」
「でも、疲れたので、降りられなかった…」
「怪我をしなかったら降りることができたかもね。ところで、吊り橋は渡ったの?」
「つり橋?知らない」
早苗は首を横に振った。
「この山はいろんな道があるのよ。今度この山に登るときは、吊り橋を渡ってごらん。すごく綺麗だよ。そして心がワクワクするよ」
「うん」
その後、早苗は安心したのか、緑の背にもたれて眠りについた。
この六号路は、途中で川の中にある飛び石の上を歩くようになっている。東京で川の中を歩ける登山路はここしかない。だからこの登山路は結構人気がある。だが、地面は岩場であり、水も流れている。転んだ場合は他の登山路よりも危ない。
だから緑は、一人で早苗をおぶうことを決めた。早苗の母親は疲れており、とても早苗をおぶって歩く体力はない。青葉も今日は城山まで行ったため、かなり疲れている。緑以外のものが早苗をおぶったまま転んだ場合、早苗が怪我をする危険がある。緑は早苗をおぶいながら、飛び石の上を慎重に歩いた。
青葉は右手で緑のリュックを持ちながら左手で早苗の母親の手を握り、早苗の母親の歩く手助けをした。
『琵琶滝』の場所を通り過ぎ、弘法大師の伝説がある『岩屋大師』という場所を過ぎ、高尾山のふもとまで来たとき、早苗の父親が車で迎えに来ていた。
緑は早苗を優しく背中から降ろした。
目が覚めた早苗は、体力が回復したようだ。自分で立ちあがり、歩くことができた。
「ありがとうございます」
早苗の父親と母親が改めて緑たちにお礼を言った。
「緑お姉ちゃん、ありかとう」
早苗が緑のシャツの袖を引いた。早苗は緑と話したいようだ。
「早苗ちゃん、山を嫌いにならないでね」
緑がしゃがんで早苗に話しかけたとき、早苗が緑の頬にキスをした。
「うん。緑お姉ちゃん、大好き」
そういって早苗は車に乗り込んだ。
やがて、車が動き出した。緑と青葉は手を振って早苗たち親子を乗せた車を見送った。
今日、改めて緑のすばらしさを見た青葉は、すがすがしい気持ちでいっぱいだった。
「緑、すごーい。立派だったよ」
青葉は、思わず緑の手を握った。青葉は興奮していた。こんなに素晴らしい女性と友達であることが嬉しかった。
だが緑は、静かだった。微動だにしない。
「まるで、十二年前の自分を見ているようだったわ…」
緑がポツリとつぶやいた。
「十二年前?」
青葉には意味がわからない。
「そこのベンチに座って話すね…」
そういって緑は近くのベンチに腰掛けた。青葉もその隣に座った。そして、緑が十二年前の出来事を話しだした。
「実は…、十二年前に私は、この山で転んで怪我をしたのよ。あの吊り橋の近くで…」
「えっ、そうだったの…」
「血が流れて歩けなくなった。私が泣き止まないので、そのとき母はおろおろしていたわ。まるで、さっきの早苗ちゃんの母親のように…」
「そうだったの…」
緑がこの山でそんな経験をしたことに、青葉は驚いた。
「でも、そんなときに、ある登山者のおじさんが傷の手当てをしてくれたのよ。
水筒の水で傷を洗い流して、大きめのカットバンをたくさん貼ってくれた。そしてその上にサポーターをつけて、さらに私をおぶって山を降りてくれたのよ」
「へー。優しいおじさんだね」
「そのおじさんは、私に絶えず話しかけてくれた。おかげで私は痛みを感じなかったわ。
あのときのおじさんの優しさが嬉しくて、いつかもう一度会いたいと今でも思っている…」
緑は昔を懐かしむような顔をして、話し続けた。
「今度そのおじさんに会ったら、伝えたいことがあるの。『おじさんのおかげで私は山が大好きになりました』ってね」
「そうだったのね。素敵な思い出ね!」
緑の素敵な思い出に、青葉は感動した。
「でも、あれ以来、あのおじさんには出会ったことが無いのよ。いろんな山に登ったけど、どの山でも見つけることができなかった…」
「どんな顔の人だったの?」
「やせ形で丸い眼鏡をかけていて、穏やかな表情の人…」
緑が小さな声で答えると、
「やせ形で丸い眼鏡をかけていて、穏やかな表情か…」
青葉は一瞬、職場の先輩である大垣をイメージした。確かに大垣は、やせ形で丸いメガネをかけていて、穏やかな表情をしている。しかし、年齢が二十一歳であり、十二年前だと大垣は九歳である。だから大垣は緑の言っているおじさんではない。青葉は首を左右に振り、そのイメージをかき消した。
「その情報だけだと、捜すのが大変そう。他に特徴はないの?例えば身につけていたものとか…」
「そういえば、青葉と同じ青色のトレッキングポールを持っていた…。青葉の物は色あせているけど、そのおじさんが持っていたトレッキングポールはピカピカの新品だった。ブルーの色が太陽の光に反射して美しかったわ…。そうそう、そのトレッキングポールに小さな字でYYと書いてあった…」
「えっ?」
このとき青葉は何か大切なことに気づいたような感覚だった。
十二年前、痩せた体型で丸いメガネ、穏やかな顔。それに青の新品のトレッキングポール。青葉の持っているトレッキングポールは確かに色あせていた。それは父が昔使っていたものだから…。父は十二年前に亡くなった。
青葉は、丹念にトレッキングポールのすみずみを調べた。すると、うっすらと父のイニシャルのような文字が見えた。すぐさま軍手でトレッキングポールを磨いた。するとイニシャルがはっきりと見えた。父の名前は山下泰男。イニシャルはYYである。
体が小刻みに震えた。こみあがる衝動を青葉は押さえきれなかった。
「緑…、もしかして、こんな形でイニシャルが掘られていなかった?」
おそるおそる青葉がトレッキングポールを差し出した。磨いたばかりなので光沢があり、イニシャルがはっきりと見える。
「……」
緑は固まっている。一言も話さない。動くことすらない。かろうじて呼吸の音だけが聞こえた。それは緑の衝撃の大きさを表していた。
そして、ようやく、
「こ…、これよ。思い出したわ。あのおじさんは黄土色の帽子をかぶっていた。そして別れ際におじさんが、自分にも同じ年頃の娘がいると言っていた…。
その娘って?……」
緑は隣に座る青葉を見つめた。
「そう…、それは私のこと。確かに父は山登りのときは黄土色の帽子をかぶっていたわ」
「なんて偶然なの!私が青葉と山で出会い、友達になるなんて…」
緑は両手を頬に当てて顔一杯に笑みを浮かべていた。
「もしかして、青葉が背負っているリュックも、おじさんのリュックじゃないかしら?」
「うん。そうだけど…」
「どうりで、伊豆ヶ岳で最初に青葉の後ろ姿を見たとき、なぜだか懐かしい気がしたのよ。そのときは何故だかわからなかったけど、今ならわかる。そのリュックよ。そのリュックが私と青葉を出会わせたのよ。きっとそうよ」
緑の説明を聞くと、青葉もこのリュックが緑との縁を取り持ってくれたような気がしてならない。
「それで、おじさんは?…おじさんは今、青葉の家に居るの?もしそうならば、帰りに青葉の家に寄っても良い?」
緑は大興奮だ。思わず声が大きくなっていた。
「居ると言えば居るし、居ないと言えば居ない…」
青葉がボソッとつぶやくと、
「もう、どっちなのよ?」
緑が笑いながら叱った。長いあいだ捜していた人に、まもなく会える。そう思っただけで、緑は嬉しかった。胸がときめいていた。
このとき青葉は、父が亡くなったことを緑に言えなかった。あんなに顔をクチャクチャにして喜んでいる緑を、直ちに悲しませることにためらった。
「とにかく、帰りに私の家に寄ってね。お母さんに連絡しておくから、夕食も一緒に食べよう」
青葉はその場で母にメールを送った。
「うん。おじさんとお話しするからね。青葉は焼きもち焼いちゃダメだよ」
まさに緑は幸せ一杯だった。
帰りの電車の中でも、緑ははしゃいでいた。まるで十二年ぶりに再開する恋人に会う前のように…。
そんな緑を見ていると、青葉は父が亡くなったことをますます言いだせなかった。
すると緑が陽気に話し始めた。
「実はね、青葉に初めて会った日に、『今度、困った人を見かけたら助けてほしい』って青葉にお願いしたけど、あの言葉は青葉のお父さんから言われたのよ」
「えっ?」
「それと、みんなが親切になれば戦争のない平和な世界になるって話も、全部受け売りなの。元々は青葉のお父さんの言葉だったのよ」
緑の話を聞いて青葉は愕然とした。
家に居るときは人畜無害だが冴えない父だった。しかし、青葉の知らない父の素晴らしさを緑が知っていた。まるで、山登りをするたびに、自分が知らない父の偉大さをわかってくるようだった。
電車を何度か乗り換えて、やがて小平駅に着いた。
青葉の家は駅から十分ほどの距離にある。大通りを横切り、小さな小道を歩くと、やがて青葉の家が見えてきた。
青い屋根をした二階建ての家である。
玄関の引き戸を引き、二人して家に入った。
「ただいま。友達を連れてきたわ。この前話した緑よ」
青葉が前もってメールしていたため、母がすぐに現れた。
「緑さんいらっしゃい。ゆっくりしていってね」
母の若菜は、青葉から聞かされていた緑が家に来たのを喜んだ。
「こんばんわ。お邪魔します。これ、お土産です。食べてください」
緑が高尾山口で買った和菓子を若菜に渡した。
「ありがとう。おいしそうね」
若菜が緑をリビングに案内しようとしたとき、
「緑、その前にこっちに来て」
青葉が案内した部屋は奥の和室だった。
青葉が電気をつけると、その部屋には黄土色の帽子をかぶった丸いメガネの優しそうな顔をした人が…遺影に写っていた。
青葉は仏壇の火を灯した。
「緑、ごめん。なかなか言い出せなかった。緑が凄く嬉しそうな顔をしていたので…。本当にごめん」
「……」
緑は驚きのあまり、しばらく声が出なかった。
やがて、差し出された座布団に緑が正座をして、両手を合わせた。そして…、遺影に向かって静かに話し始めた。
「おじさん、覚えていますか? 緑です。十二年前に高尾山で助けられた女の子です。
おじさんは怪我をした私を手当して、山のふもとにある駅までおぶってくれました。
私、とっても嬉しかった。おじさんの優しさが体じゅうに伝わってきました。
私…、あれからずっと、おじさんを探したのよ…。おじさんを見つけるために何度も何度も山に登ったわ。でも、どの山に登っても、おじさんを見つけることができませんでした…。
そして、今日…、ようやく会えました…。
こんなところにいたのですね。どうりで捜せなかったわけです…。
おじさん…。おじさんのおかげで、私…、山が大好きになりました。そして、大切な友達もできました。その人の名前は『山下青葉』、おじさんの子供です。
ありがとう。本当にありがとうございました…」
緑は目にうっすらと涙を溜めていた。
緑の声は、青葉の母である若菜にも聞こえていた。若菜がお饅頭を持ってきて仏壇に添えた。
「あなた、このお饅頭は緑さんのお土産よ。ゆっくり味わって食べてね」
そして今度は青葉が父の遺影に向かって両手を合わせた。
「お父さん、ありがとう。お父さんのおかげで素晴らしい友達ができた。その人の名前は『野上緑』、お父さんが十二年前に高尾山で助けた女の子だよ」
遺影に写った青葉の父が微笑んだような気がした。
しばらくして、青葉が声をかけた。
「緑、リビングに行こう」
「うん」
仏壇の火を消して三人はリビングで夕食をとった。若菜が緑の分の夕食も用意してくれていた。
しばらくすると、緑は笑顔になった。彼女は立ち直りが早い。
若菜が緑に当時のことを尋ねると、緑は楽しそうに十二年前の山での出来事を説明した。
「こんなに可愛い女性から慕われるなんて、あの人は以外とモテるのね」
若菜が意外そうな顔をした。
「そうそう。家では全く冴えないお父さんだったよね」
青葉も笑いながらあいづちをうった。
「あら、仮にも私の旦那よ、冴えないなんてひどいじゃない」
若菜が笑いながら青葉を叱った。
父のことを笑いながら話すのは亡くなって以来、初めてだった。これは緑のおかげである。
緑がいたからこそ、家族の前では見せなかった山下泰男という人間の素晴らしさを、若菜も青葉も知ることができた。そして昔話を笑いながらすることができた。
その日、山下家からは笑い声が夜遅くまで聞こえた。
七月は学校が夏休みに入る。だから多くの子供たちが山登りをする。
だが、山は登るときよりも降るときのほうが足に負担がかかることを、多くの子供たちは知らない。だから降るときに怪我をしやすい。
子供たちが山に登るときは、無理のない高さの山を選ぶ必要がある。そうすれば子供たちは山の楽しさを十分に味わうことができる。
そして少しずつ高い山を目指して登るようにしよう。
焦ることはない。山はいつでも子供たちを待っている。
緑の過去はどうでしたか?
次は青葉と緑が富士山に登ります。