1.五月の山
山登りが楽しくなる小説です。
気軽な気持ちでみていただければ…と思います。
「おかしな名前でしょう? どうせなら『すみれ』とか『ゆり子』とか、花の名前をつければ良かったのに」
五月の澄み渡った青空が一面に広がる市役所の屋上で、山下青葉は不満をあらわにしていた。
彼女は自分の名前『青葉』が好きではない。
山下青葉は十八歳。三月に高校を卒業し、四月から東京都の西にある小平市の市役所で働き始めた。身長は160センチ、体重が48キログラム、大きな黒い瞳が特徴だ。明るい性格であり、おさげの髪が素朴さを表している。
青葉は小さい頃、その名前のせいでボーイスカウトに誘われたり植林活動に誘われたりしていた。そして高校のときは相撲部のマネージャーになってほしいと誘われたこともある。もっともそのときは青葉のさばさばした性格が部員たちに好まれたので誘われたのだが、青葉は自分の名前のせいで誘われたと思っている。
通常、青葉と同じ年頃の女性は化粧に時間をかける。だが、青葉は化粧をほとんどしない。いつも洗顔した後で口紅を軽くつけるのみであり、その口紅すら透明に近い色をしており、リップクリームを塗っているようなものだった。
ゴールデンウィークも過ぎた頃、青葉は自分の名前に対する不満を職場の先輩である大垣白山に語っていた。
市役所の屋上は日当たりが良く、昼休みの談話に手頃な場所だった。それに、まわりは緑の木々が多い。この辺りには樹齢数百年の木々がいたるところに生い茂っている。東京都にいるとは思えないほど新鮮な空気に満ちた場所だった。
「そういえば山下さんの誕生日は五月だったよね?」
何気なく大垣が尋ねた。大垣は青葉よりも年齢が二つ上である。髪を七三に分け、丸いメガネをかけている。
「ええ。そうよ」
「もしかして、山下さんのお父さんは山登りが趣味だったのじゃないかな?」
「そうなのよ。私が生まれる前は、ずっと山に登っていたわ。私が生まれる日も山に登っていて、私が生まれたとの知らせを受けて、大急ぎで病院にかけつけたそうよ。でも、どうしてそう思ったの?」
「父親ならば誰だって自分の娘には素晴らしい名前をつけると思うよ」
「そうなのよ。だから私は怒っているの。お父さんはもう亡くなったので怒れないけどね」
まるで口から炎を吐く怪獣のように、青葉は不満をぶつける。
「いや、そうじゃない」
大垣は手で若葉を制した。
「山下さんのお父さんは、とても素晴らしい名前をつけたのさ。僕にはそれがわかる」
大垣は彼方に見える奥多摩の山々を見ながら、首を縦にうんうんとうなずくように振り、自分の説明に自ら納得していた。
「この『青葉』のどこが素晴らしいの?」
青葉には大垣の考えていることがわからない。首をかしげて大垣の説明を期待した。
「僕の名前は白山、文字通り『白い山』と書く。この名前は父が故郷の冬山の美しさと壮大さに感動して命名したとのことだった。
ところで、山下さんのお父さんが5月に登っていた山の名前を知っているかな? できれば、君の生まれた日に登っていた山がわかると、それが一番良いのだけど…」
不思議なことを尋ねる人だと青葉は思った。
「父の古い登山帳を見ればわかると思うけど…」
「それじゃあ、今度の土曜日に、その山に一緒に登ろう」
「どうして?」
「きっと君の知りたがっていた名前の由来がわかると思うよ」
てっきり名前の由来を説明してもらえると思っていた青葉は、肩透かしをくらったようで、がっかりした。だが、そんなことはお構いなしに大垣は、なごやかな笑顔を見せる。
春風が大垣の髪を揺らした。とてもさわやかな風だった。
間もなく昼休みが終わる。青葉と大垣は、階段を降りて仕事場に戻った。
仕事に集中していると、いつの間にか日が暮れかけた。真っ赤な夕日が美しい。茜色の雲が春風に流されてゆく。
その日は残業をすることもなく、青葉は帰宅した。
青葉の家は西武鉄道小平駅の近くにあり、通勤には自転車を使用している。職場から自宅までは十五分ほどだった。
家に戻ると、青葉は父の部屋に入った。
部屋の壁にはたくさんの山の写真が貼られており、机の上の本棚には登山帳が年代順に並べられている。
父は十二年前に交通事故で亡くなった。
普通、亡くなった家族の遺品は処分するものだが、母がその処分を拒んだ。
『青葉が結婚して家を離れるまでは、父の部屋をそのままの形でとどめたい』
それが母の意思だった。
この部屋にいると、父がまだ生きていて、どこかの山に登っているような気がする。ひょっこり帰ってきて、登ってきた山のことを楽しそうに話すかもしれない。テントや飯盒やアイゼンなど、まだ十分に使えそうな山登りの備品が、押入れに格納されている。この部屋には父の面影を感じるものが沢山残っていた。
青葉は、さっそく父の登山帳を調べた。父は生前、山に登るたびに登山帳に山の名前を書き記していた。
登山帳をめくり、若葉が生まれた日の登山記録を探す。それは割と簡単に見つけることができた。
「あった。これだね。私って調べ物の天才かも!」
素早く見つけられたのが自分の能力のおかげだと青葉は思っている。実際は、日付順に書かれているので、誰でも簡単に見つけることができるのだが…。それはさておき、青葉の誕生日に父が登った山は、東京都の奥多摩にある三頭山だった。
三頭山は標高一五三一メートル。頂上が三つの峰に分かれているため、その名がついた。三つの峰は西峰、中央峰、東峰であり、それぞれの標高は西峰が一五二八メートル、中央峰が一五三一メートル、そして東峰が一五二七メートルである。また、この山は多摩川の最大の支流である秋川の源頭の山でもある。
父の登山帳のそのページには次のように書かれていた。
『五月十五日、三頭山
山を降りているとき、美しい光景が視界に現れた。しばらくその光景に見とれていると、携帯電話が鳴った。娘が生まれたとの連絡だ。二ヶ月早い早産だった。そこで、この美しい光景を娘の名前にすることにした。青葉。とても素敵な名前だ』
青葉は、このベージを初めて読んだ。確かに大垣の予想は当たっていた。青葉の父は、三頭山で美しいと感じた『青葉』を娘の名前とした。それは青葉にとって嬉しいことだった。
だが、その『青葉』とは?
青葉には、ここに書かれている『青葉』の意味がわからなかった。
(…まあいいや。明日、大垣さんに尋ねてみよう。)
その日、青葉は、それ以上のことはわからなかった。ただ、父が美しいと感じた『青葉』を自分の名前としたことを知り、喜びを感じた。
その夜、青葉は夢を見た。夢の中には父がいた。夢というよりも遠い昔の記憶だった。
『青葉、今度の土曜日に一緒に山に登ろう。奥多摩の山だよ』
そのときの青葉の父の顔は嬉しさに満ちていた。だが、その週の木曜日に、青葉の父は交通事故で亡くなった。そのときの出来事が走馬灯のように青葉の夢に現れては消えていった。
翌朝、目覚めたとき、昨夜見た夢の記憶が…というよりも、昔の記憶をはっきりと思い出した。
(お父さんがあのとき登ろうと誘った山は、もしかして三頭山なの?)
青葉は考えた。だが、考えても答えはわからない。
昼休みに、父が誕生日に登っていた山が三頭山だと青葉が大垣に知らせると、大垣は和やかにうなずいた。どうやら、山登りが趣味の大垣には、思い当たるふしがあるらしい。
「これで確信が持てた。今度の土曜日に山下さんは、お父さんの心が理解できると思う。僕が今、『青葉』の名前のすばらしさを説明しても、山下さんは理解できないと思う。それよりも君自身でその名前のすばらしさを感じてほしい。三頭山に登れば絶対に感じるはずだよ」
大垣の強い誘いで青葉も登る決意を固めた。
(お父さんが見た美しい光景を、私も見てみたい。)
青葉はその思いが強くなった。
「それじゃあ今度の土曜日は、私が大垣さんのお弁当も作るね」
青葉にしては珍しい。青葉は初めて人の分の弁当を作ることにした。それは青葉の名前の由来を教えてくれる大垣への感謝のしるしだった。
土曜日がやってきた。偶然にも、その日は青葉の誕生日だった。青葉は五時に起きて弁当を作った。青葉は料理が得意ではない。だが、青葉なりに心を込めた料理だった。
二人分の弁当をリュックに詰め込み、家を出かけるとき、母の若菜が青葉を呼び止めた。
「これ、お父さんが使っていたものよ。持って行きなさい。必ず役に立つわ」
若菜が渡したものは、伸縮型の二つのトレッキングポール(登山用の杖)だった。だが、青葉は使い方がわからない。
(使い方は大垣さんに尋ねよう。)
そう判断し、青葉は二つのトレッキングポールをリュックに入れた。
三頭山に登るにはJR五日市線で武蔵五日市駅まで行き、そこからバスで檜原都民の森まで行く。
西武新宿線の小平駅で大垣と六時五十分に待ち合わせた。いつも仕事に行く時間よりも早いが、時間どおりに大垣がやって来た。
大垣は元気そうだが、青葉は眠くてたまらない。
六時五十五分発の電車で拝島まで行き、そこからJR五日市線に乗り換える。拝島まではあくびをこらえていたが、五日市線に乗ると安心したためか、青葉は睡魔に襲われた。つい大垣の肩に頭をのせてスヤスヤと心地よい眠りについた。
そういえば小さい頃に父と一緒に電車に乗ったときも、青葉は父の肩に頭を預けて眠ったことがある。あのときと同じ感覚だった。父と似たような雰囲気の大垣に、青葉は安心しきっていた。
人間とは不思議なものである。名前のことであれだけ父親のことを悪く言っていた青葉だが、父親と同じ趣味の大垣といると、なぜか心が和む。安心するのである。それは遠い昔の青葉の記憶によるものだった。
愛情の反対は憎悪ではなく無関心である。
無関心であれば怒ることもなく、悪口すらも言うことはない。だが、青葉は父親のことを無関心ではいられない。
きっと青葉は自分でも気づいていないかもしれないが、今も父親のことを愛しているのだろう。
武蔵五日市駅に着いたとき、熟睡していた青葉は大垣から起こされた。
「ごめんなさい。ついレールの響きが心地よくて」
両手を合わせて詫びる青葉に対して、大垣は和やかな笑顔を向けた。
「電車の揺れは1/fノイズなので、脳内がアルファー波になり、リラックスできるよね」
大垣は、ときとして青葉が理解できない難しいことをいう。
「それって、どんな意味?」
「つまり電車の揺れは気持ちよく眠ることができるってことさ」
「それならば最初からそう言ってくれればいいのに…」
さっき両手を合わせて詫びたことをすっかり忘れ、青葉は不満な顔をした。青葉の頬が膨れている。青葉のそんな顔は可愛い。大垣は、そんな青葉の膨れた頬に人差し指を押しつけ、頬をへこませる。それと同時に青葉は口からプーと、息を吐きだした。そのしぐさが面白いので、大垣は笑顔を見せた。
改札口を過ぎると、武蔵五日市駅の南口ロータリーにあるバス停へと二人は向かった。二人は西東京バスの乗り場に着き、八時十分発のバスに乗りこんだ。武蔵五日市駅から檜原都民の森までは約七十分かかる。目的地は終点だ。バスが出発すると、再び青葉は大垣の肩に頭を預けて眠り始める。どうやら大垣の肩は、青葉にとって格好の安眠枕のようだ。
やがてバスは町なかを離れ、山道の曲がりくねったカーブを何度も何度も登ってゆく。結構な上り坂を進んでゆくと、やがてバスは終点についた。檜原都民の森である。バスを降りると、九時二十分になっていた。
日本には三十四の国立公園があるが、ここは、そのうちの一つ、秩父多摩甲斐国立公園の一角に位置する。まわりが山と木々の緑に囲まれた美しい場所だった。
三頭山に登るには、登る前に登山届を提出する必要がある。義務ではないが、遭難や事故にあった時のためのものである。二人は、登山届を提出するために都民の森の森林館に入った。
係の人へ登山届を提出すると、熊避け用の鈴を貸してくれた。
「熊? そんなに危険な場所なの?」
驚きのあまり、青葉の丸い瞳がさらに大きくなった。
「ほとんど出会わないよ。数年に一度、山道を外れて歩く登山者が出会うかどうかの確率さ。万が一のお守りだと思えばいい」
「本当?」
青葉は大垣の説明を疑っている。
「鈴を鳴らせば、ふつうは熊のほうから避けてくれるさ」
大垣はなにくわぬ顔をしている。
「それでも出会ったら?」
青葉の大垣を見る目つきが少し細くなった。
「子連れじゃなければ大丈夫だよ」
「子連れの熊だったら?」
青葉は唇をとんがらせている。明らかに不信の表情だった。
「そのときには熊に背を向けないで少しずつ逃げよう」
大垣の説明を聞くたびに、青葉は不安が募った。だから、登り始める前に胸に十字を切ってお祈りをした。
「どうか熊さんに出会いませんように…」
「山下さんはクリスチャンだったの?」
「いえいえ、私は無宗教よ。本家のほうは日蓮宗だけど」
「じゃあ、なぜ胸に十字を切ってお祈りしたの?」
「困ったときの神頼みよ。それに私、『摩訶般若波羅蜜多』の心経は、意味もわかんないので…」
「なるほど、山下さんのように困ったときだけ頼む人が多いと、キリストさんもくたびれちゃうよね。過労死するかもしれない…」
「キリストさんはもう亡くなっているので過労死なんてないわ。きっと私の願いを聞いて、懸命に守ってくれる」
傾斜のきつい坂を登りながら、青葉は自分の意見の正しさを主張した。
「もう亡くなっている人が命を懸けて守れないと思うよ。懸命という字は命を懸けると書くからね」
大垣も、負けじと言い返す。大垣も青葉も負けず嫌いだった。それから二人の会話は、お釈迦様やアラーの神などの話に発展した。青葉にとっては頼むことができる神様であれば誰でもよかったようだ。
十五分も歩くと鞘口峠に着いた。ここからは急な上り坂が続く。
そのうち、二人は長く続く上り坂に、だんだん息切れをしだした。特に青葉は、会話よりもゼイゼイと荒い息継ぎを多くするようになった。
「わー、こんなに疲れることをして何が楽しいの? 山登りする人ってバカじゃないの?」
青葉は、ただ疲れるだけの山登りに、全く魅力を感じなかった。呼吸の苦しさだけでなく、日頃運動をしていないせいで足取りも重かった。
「もうすぐ見晴らし小屋がある。そこで休憩しよう」
大垣も呼吸が荒い。ハッ、ハッという息づかいが聞こえてくる。
それから二人は、しばらく歩き続けた。息も絶え絶えな青葉は、愚痴をいう気力もなくなったようだ。
しばらくすると、
「大垣さん、さっき、もうすぐって言ったよね」
なかなか見晴らし小屋が見えないため、青葉は不満顔だ。
「言った」
大垣がボソッと答える。
「もうすぐって、あとどのくらいなの?」
「もうすぐだ」
「もー」
青葉は怒りだした。
すると、リュックの隅からはみ出ている二本のトレッキングポールに大垣が注目した。
「山下さんは立派なトレッキングポールを持っているね。それを使うと少し楽になるよ」
「これは父のものよ。でも使い方がわからないの」
「貸してごらん」
大垣は青葉のトレッキングポールをリュックから取り出すと、それを伸ばし、長さを調節した。
「両手でグリップのところを持って、腕を振りながら短めな足取りで進むと、少し楽に歩けるよ」
大垣の教えに従い、青葉が腕を振りながら短めの足取りで歩いた。すると、ほんの少しだけ、青葉の足取りが軽やかになったようだ。青葉も、歩くのが楽に感じているようである。トレッキングポールでバランスをとるので、足への負担が減ったためである。
次の角を曲がると、黒い屋根のある建物が見えてきた。テラスのような外枠。壁がない休憩のためだけの建物。まぎれもなく見晴らし小屋だった。
見晴らし小屋に着くと、青葉は深々と座り込んだ。ペットボトルを取り出して一気に半分を飲み干す。
「お、おいしい」
思わず青葉は、ペットボトルの表示を確かめた。いつも飲んでいる清涼飲料水と味が違っていた。だが、成分表示を見ても、普段飲んでいる清涼飲料水と何ら変わりない。
「この清涼飲料水って、こんなに美味しかったかなぁ?」
青葉は不思議な気持ちだった。
「それは登山者だけが味わうことのできる美味しさだよ」
そう言いながら、大垣が目の前を指さした。
「見てごらん。この素晴らしい眺めを」
大垣が指し示す先は絶景の景色だった。
青い空。緑の山々。近くの山は濃い緑だが、遠くの山は青白く霞んで見える。それが不思議と美しく感じた。そして遥か遠くに見える都心の高層ビルとスカイツリー。それを見ると、青葉は自分たちが天空の世界へ来たような気がした。
「僕たちは自分の足でここまで登ったのだよ。それはとても素晴らしいことさ」
大垣の説明を聞きながら、青葉は目の前に広がる風景に見入ってしまった。普段の日はこんな光景を見る機会がない。自然の風景をテレビで見たとしても三十インチから八十インチのテレビの広さでしか見ることができない。だが今は、目の前が全て、大パノラマで見る自然の風景である。
青葉は、父が山に登る理由が少しわかったような気がした。不思議な感覚だった。そういえば青葉が幼い頃、父と一緒に山登りをしたことがある。
(あのときも楽しかったなぁ)
青葉は遠い昔の記憶を思い出し、哀愁を感じた。
青葉と大垣は、しばらく見晴らし小屋で雑談した後、再び歩きだした。
「これからは登ったり下ったりだけど、今までのような急な登り坂は無いので安心していいよ」
大垣の説明を聞き、青葉は元気よく歩きだす。そう、最初だけは元気よく。
だがすぐに、青葉は疲れてしまい、犬みたいに舌を出し、ハーハーと息切れをした。
「あのー、大垣さん」
「どうしたの?」
「先ほど、『安心していいよ』と言われたと思いますが…」
青葉らしくもない丁寧な言い方だった。皮肉がこもった丁寧な言い方だった。
「ああ言ったよ」
「まだ休憩地に着かないのですか?」
青葉は息も絶え絶えだ。
「もうすぐ展望台がある」
「さっきも、もうすぐと言いましたよね」
「ああ、言った」
「それじゃあ、あとどのくらい…」
「もうすぐだよ」
大垣の答えを聞き、青葉はもう歩く気力がなくなった。
「もう歩けない。大垣さんは嘘ばっかり。もうすぐ、もうすぐといいながら、いつ着くの?大垣さんの話は信じられない」
青葉は再び不満をあらわにした。
だが、大垣はなにくわぬ顔だ。
「こんなところで休憩したら、熊に遭遇するかも知れないね」
「えーっ」
熊と聞き、青葉は急いで歩きだした。
さっきは大垣の話を信じないと言ったばかりなのに、もう信じている。現金なものだ。
するとそのとき、近くにあるブナの木々が揺れだし、カサカサと音を立てた。森の中から何かが近づいているようだ。
「熊? なんまんだぶ。なんまんだぶ。どうか助かりますように」
木々の揺れに驚いた青葉が、とっさに両手を合わせた。
さっきは胸に十字を切っていたのに、今は浄土真宗の念仏を懸命に唱えている。おそらく青葉は南無阿弥陀仏の意味すら知らないだろう。
すると、木々の間から親子づれの登山者が現れた。もちろん熊ではない。
「あれ? お姉さん何しているの?」
子供のほうの登山者が尋ねると、
「へっ?」
驚いた青葉が恥ずかしさのあまり、顔を赤くした。
「お姉さんは君たちが安全に登山できるようにお祈りしていたのさ」
とっさに大垣が答えた。
「ふーん。そうなの…」
子供は改めて青葉を見つめた。そして、
「お姉さん、僕たちのためにお祈りしてくれてありがとう」
そういいながら子供は下山していった。
「…ありがとうございます…」
青葉は顔を赤らめて、小さな声で大垣に感謝した。
そしてしばらく歩くと、展望台が見えてきた。展望台は三頭山の東峰に設置されている。
青葉は速度を緩めることなく、展望台を目指して登った。
展望台に着き、椅子に座ると、足がジワーっとくる。なんとも言えない心地よさだった。それに、ここからの眺めがまた格別に良い。
先ほどの見晴らし小屋から見た景色とは違う。さっきは東の方角の景色だったが、今は西の方角も見える。僅かに富士山も見えた。
「ここで昼食にしよう」
大垣のその言葉を待っていたかのように、青葉は素早くリュックを開け、弁当箱を二つ取り出した。
「はい。大垣さんの分よ」
青葉が大きい方の弁当箱を大垣に渡した。
「ありがとう」
大垣は照れていた。どうやら女性に弁当を作ってもらったのは初めてのようである。
「いただきます」
二人とも手を合わせて言うと、すかさず青葉はおむすびを食べた。海苔を巻いて梅干しが入っただけのおむすびだが、なぜか美味しい。おかずなどなくても、おむすびだけで何個も食べられそうな気がする。
大垣も弁当を食べた。大垣の弁当も青葉が今朝つくったものである。おかずはハムと玉子焼き、佃煮、マヨネーズがかかっているレタスとプチトマトだけであるが、ここで食べる弁当は、いつもより美味しく感じられた。
「すごく美味しいよ」
大垣のその言葉は、青葉を喜ばせた。早起きして作った甲斐があった。
青葉は良く言えば純情、悪く言えば単純だった。大垣の誉め言葉に青葉は酔いしれた。それだけで青葉の人生がバラ色に色づいた。顔を赤らめてうわの空のようだ。
「山下さん、どうしたの?」
大垣が尋ねると、
「えっ、何でもないです」
青葉は大慌てでごまかした。
それからしばらく景色を堪能したあと、二人は展望台を離れた。
少し歩くと、すぐに三頭山の山頂に着いた。中央峰である。
ここからの景色も美しい。くっきりと富士山を見ることができた。
「ヤッホー」
思わず青葉が声を出していた。
(…あれ? なぜ私はヤッホーと叫んだのかしら?)
青葉は自分の無意識の行動が理解できない。でも、それは、青葉の素直な心が招いた行動だった。
山頂での美しい景色に心地よく感じると、思わずヤッホーと叫んでしまう。ちなみに、ドイツ人はヨッホーと叫ぶそうだ。山に登ったことがあるものならば、誰でも一度は叫んだ経験があるだろう。とても心地よい掛け声である。
青葉たちは、ここでもしばらく景色を堪能した。
「ここからは下りが続くので、トレッキングポールの長さを調整するよ」
休憩中に大垣が、青葉のトレッキングポールをやや長めに調整した。
なぜ大垣が調整したのか、青葉にはその理由が分からなかった。だが、山の峰を少しずつ下りだすと、トレッキングポールのおかげで足への負担が今までよりも少なくなった。しかも、バランスが安定した。これならば足を滑らせても転ぶ心配はない。
しばらく行くと、山道の両側は一面、新緑におおわれた。太陽の光を浴びて透き通るような沢山の青葉が二人の前後左右に広がっている。この美しさはエメラルドの宝石よりもはるかに美しい。まさに大パノラマである。辺り一面、透き通るような青葉の光景だった。
「えっ?」
思わず青葉は両手を頬につけて立ち止まった。そして同時に、
「綺麗…」
自然と言葉が出てしまった。青葉は父の登山帳に書かれていた内容を思い出した。
『…この美しい光景を娘の名前にすることにした。青葉。とても素敵な名前だ』
「この美しさがきみの名前の由来だよ」
大垣の目は自信たっぷりだ。
「……」
青葉は感動して何も言えない。
「おそらく、きみのお父さんは、この美しい青葉を君と一緒に見たかったと思うよ」
このとき青葉は、先日見た夢を思い出した。
『青葉、今度の土曜日に一緒に山に登ろう。奥多摩の山だよ』
あれは青葉がまだ七歳のときだった。
(あのときお父さんは、この光景を見せたかったのね。きっとそうに違いない。)
青葉は確信した。
『青葉、この名前を気に入ってくれたかな?』
なんだか天国にいる父が尋ねているような気がした。
青葉はお腹に力を込め、両手を口のわきに添えてメガホン代わりにして、
「お父さーん。私、この名前が大好きになったわー」
大きな声だった。山びこが青葉の声を返してきた。
『お父さーん。私、この名前が大好きになったわー』
そのこだまは何度か響き渡り、しだいに小さくなった。
「きっと、今の声は君のお父さんに届いたはずだよ」
大垣からそう言われると、青葉はこれ以上ないほどの笑みを大垣に見せた。
(お父さん、ありがとう。とっても嬉しい。)
青葉は喜びをかみしめながら歩き出した。
やがて二人は少しずつ下山した。
相変わらず透き通るような木々の青葉が続いている。
青葉はこの光景を来年も見たくなった。この景色を見るには山を登らねばならない。今まで山登りは青葉にとって苦痛だったが、この美しさを見るためならば全く問題ない。それどころか、青葉は山が大好きになった。
下山の終わり近くになると、目の前に三頭大滝が現れた。落差三五メートルの壮大な滝である。しかも、滝のしぶきにより、うっすらと虹がかかっている。こんな大きな滝が東京都にもあったことを、青葉は今まで知らなかった。そして、この滝は吊り橋の上から眺めることができる。青葉の感動が二倍に膨らんだ。
「素敵…」
青葉が思わずつぶやいた。
「私は十九年間も東京に住んでいたのに、こんなに素敵な場所があることを知らなかったわ」
「まだまだ素敵な場所はたくさんあるよ。いろんな山に登れば、その山特有の素敵なものが見つかるよ」
「そうね。今日、私は山が大好きになったわ。これも大垣さんのおかげよ。ありがとう」
青葉の素直な気持ちだった。そして青葉は、今後登る山でどんな素敵なことを体験するのかが楽しみになった。
三頭大滝を後にして吊り橋を渡り終え、都民の村へ続く道に来たとき、車椅子に乗った老人に出会った。
老人は都民の森からここまでの道のりを車椅子で来たようだ。だが、三頭大滝を見ることができる吊り橋を渡るには段差がある。車椅子では段差を超えることができない。
老人は落胆しているようだ。肩がしぼんで見える。
「おじいさん、三頭大滝を見に来たのでしょう? 私たちが車椅子を持ち上げます」
思わず青葉が声をかけた。
「いや、いいよ。君たちに悪い」
老人は遠慮して青葉の助けを拒んだ。
「よくありません。せっかくここまで来たのだから、滝を見ないと、来た意味がありません」
青葉がきっぱりと言い切った。そして続けて、
「それに、おじいさんは、三頭大滝のすばらしさをほかの人に伝えなきゃ。だから私たちが車椅子を持ち上げます。ほら大垣さんも手伝って!」
有無を言わさぬ青葉の行動だった。
老人の返事も待たずに、青葉と大垣とで車椅子を持ち上げて段差を乗り越え、青葉は三頭大滝が見える吊り橋の中央まで車椅子を押した。その間、青葉は老人に話しかけ、三頭山の素晴らしさや、自分の名前の由来を説明した。人見知りを全くしないのが青葉の長所である。
老人の名前は大沢といった。
三頭大滝が見える場所に着くと、
「おお……」
大沢は三頭大滝の壮大さに感激した。
「青葉さん、ありがとう」
「ここまで来てよかったでしょう? やっぱり滝を見ないと、もったいないわ」
大沢の喜ぶ顔を見ると、青葉もなぜか笑顔になってしまう。
「青葉さんが無理やり連れてきてくれて良かった。ワシもつまらん意地をはってしまったわい」
三頭大滝の壮大な光景の前で、大沢は素直な気持ちになった。
美しい自然に囲まれると、人間はなぜか素直な気持ちになれる。それは滝の飛沫や森の木々たちがつくりだすマイナスイオンの効果なのかもしれない。そして、滝の飛沫や森の木々は健康のためにも良い効果を見せる。特に疲れた心を癒す。そして素直な心を呼び戻す。
三頭大滝を見終わった後、都民の森まで続く道にはウッドチップが敷かれている。歩くとウッドチップの良い香りがする。森に囲まれたこの道は、2007年に森林セラピーロードとして認定された。まさに心と体を癒す道である。
車椅子を押しながら、青葉はこの道を歩いた。青葉も大沢も大垣も、楽しそうに話している。まるで家族のようだった。
都民の森に着くと、大沢の家族が出迎えてくれた。大沢は家族に無断で三頭大滝を見に出かけたとのことだった。
ここで大沢と別れた。大沢やその家族は、青葉たちに何度も感謝した。
青葉たちも熊よけの鈴を都民の森に返した後、バスに乗り込んだ。
青葉の心は不思議と、来たときとは山に対する気持ちが全然違っていた。今ではすっかり山をいとしく感じている。そして、自分の名前『青葉』に対する気持ちも変わっていた。
「大垣さん、今日はとっても楽しかったわ。ありがとう」
そういうと安心したのか、青葉は大垣の肩に頭を預けてスヤスヤと心地よい眠りについた。初めての山登りで、よほど疲れていたのだろう。
今、青葉の五月の山登りが終わった。
山は与えてくれる。登山者だけが味わえる飲物や食べ物の美味しさを…。
山は与えてくれる。登山者だけが見ることができる素晴らしい景色を…。
そして、山は教えてくれる。自分の足で歩き続けることの素晴らしさを…。
また、山は癒してくれる。現代人の疲れた心を…。
五月の山は新緑が美しい。この美しさは、山に登ってみないと決して理解できないだろう。そして、春の山はエネルギーに満ちている。まるで山の木々が登山者にエネルギーを与えてくれるように感じてしまう。
山は無言で語りかける。
『ここへおいで』と…。
ここまで読んでみて、どうでしたか?
次は青葉が奥武蔵にある伊豆ヶ岳に登ります。