表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
B2  作者: 白基支子
8/9

立方体回路①

 二十年前に戦争があった。三度目の大戦が。既に終結しているこの戦争は、皮肉にも「自重(テイク・ケア)戦争」という名で歴史の教科書に載っている。

 1990年代に捕まり、以降幽閉されていた為、二度の大戦しか知らないミラにとって、歴史の授業は思いの外楽しかった。新聞すら許されない生活があんなにも退屈だったとは。

 サングラスに仕込まれた生電コネクトレンズの茶色い表面に映し出された教育動画(ビデオ)を眺めながら、ミラは血液を飲んだ。グレーのスーツを着込んだ女教師が、細長い棒を持って歴史を語っている。ミラが背もたれに寄り掛かると、黒革のソファは窮屈そうに、ギュ、ギュっと鳴った。

 歴史は教養の一部だ。学ぶ価値がある。なのでヒナも誘ったら、彼女は喜んでミラの隣に座った。今も大人しく同じ動画を見ている。いや、本当に同じものを見ているかは疑問だ。昨夜のベッド上での記録アーカイブを愉しんでいるのかも知れない。

 戦争の発端は機密文書の漏洩だった。大使が駐在している国を「敵国」と表現していたのがバレた。唯の単語が現実になった訳だ。動画の教師は、それから、戦争名の由来を説明していた。先の大戦では、あらゆる先端技術が戦線に投入されるも、大国は保有する核兵器だけは一発も使わなかった。自制セルフ・コントロールしたと、教師は熱弁している。ミラは鼻で笑った。

 代わりに駆使されたのが、軍事拠点の攻略と、経済エコノミック攻撃。前者は単なる陣取りゲーム。勝敗を決めるものではない。戦争の行方を決めたのは後者だ。教師が語る前にミラは察した。資源と主要産業を握る国が勝つ。近代以前から変わらない方程式。そして、徹底的に攻撃された金融市場は必ず壊れる。戦勝国も例外ではない。経済攻撃は自殺に等しい。互いの首を絞め合う緩やかな自殺。ウォール街が地に落ちたあの火曜日から、世界経済は一蓮托生と連帯責任の賜物だ。

 サングラスを外し、リビングに浮かぶ埃を見るでもなく眺める。昼でも薄暗い東京の曇天は、灰色のビル群によく似合う。不景気は曇り空と共に人々の頭上に重くのし掛かる。日々の電気すら事欠く連中。東京のライフラインは、支払いが滞れば即座に打ち切られる仕組みになっている。

 貧しさは指数関数的に加速した。判り易い戦禍。最早、世界に活気と呼べるものは殆ど残っていない。

 その代わりに、これだ。サングラスを日光に透かす。こういった物が手放せなくなった。人々は衰退する物質世界に見切りをつけ、電脳空間という幻覚世界に夢中になっている。

 つい先日、ミラはマトリックスマスクを初体験した。マスクは顔と耳を完全に覆う作りになっており、装着した瞬間、鼓膜の奥に管を通される様な猛烈な感触が耳穴を襲った。ヒナ曰く「装置デバイスと脳を同期シンクロさせる為に、音波で触覚を刺激する必要がある」らしい。

「あたしも初めての時はびっくりしたな。細長い蔦が耳の中を這い回ってる感じがして」

 ヒナは無邪気に笑ってそう言った。ベッドに押し倒したくなる台詞と笑顔だった。

 今時は、デートもマスクでやるのが流行りらしい。脳とリンクした幻覚は五感も支配する。覚醒剤スピードを打ち続ける感覚が、電脳空間には溢れていた。不可能のない世界、肉体から脱獄した精神のみの世界。しかし、娯楽も快楽も、決して行き過ぎす、自重と自制は、表向き、守られていた。

 華やかなりし電脳空間。ヒナにお勧めされたサイトを体験した時、こいつは前世紀のトランスと何ら変わらないな、と、ミラは思った。輪郭線で色がぶれたアイドルの踊り。紫の道を歩くだけで音楽は脳に流れ込み、映像は触覚すら感じられた。二十世紀のドット絵から随分進化したものだ。それも奇妙な方向へ。

 ヒナは本物のアイドル好き(フリーク)だった。事務所が運営するライブアーカイブ保管庫の常連で、きっと何百回と鑑賞したのだろう、保管庫にあるサイバーライブメディアを、会員特権を使ってフル再生しては、色取り取りのライトが渦巻くアリーナ席で、嬉しそうに飛び跳ねていた。

 特に、この間ライブを爆破された「オトリラ」の活動再開を報じるサイト、御丁寧にもGLDを具現化モデリングした仮想空間と、「シノノメ・愛理」という名前の、長い茶髪をカールしたアイドルのオールナイトライブは、ミラを連れて七回は訪問していた。

 それから、シノニックというサイトも訪ねた。透明な手に包まれ、何処か白い部屋へアクセスした。白い部屋に置かれた白い机の上に、数多の日記と写真が止め処なく流れ続けていた。これ全て、シノニックに住む者の日常なのだと、ヒナが教えてくれた。彼らは自分の生活を切り売りしているらしい。不思議なものだ。芸能人スターは己の私生活を俗記者パパラッチに書かれる事を何より嫌っていたのに、一般人は寧ろ自分から発表するなんて。

 眩暈を覚え、ミラはヒナと共にシノニックを退出した。休憩したいと思い、電脳の片隅、虹色に輝く川をヒナと歩きながら、ミラは空に咲き乱れる深紅のバラを見上げた。バラの薫りがここまで漂った。それからネオン広告が目の前に突如浮かんだ。ローズ・ホテル305空室、電子ロックはバラの色。

「ここでは何でも鍵になるんだよ、ミラ。色だけじゃなくて、音も、匂いも、感触も、何もかも」

 指先で色相を操りながらヒナが解説する。ミラはもう一度空を見上げた。深紅の鍵。ロマンチックな事だ。眼前に縁取られた扉が真っ赤に染まり、開く。扉の向こうには大きなベッド。幻覚と現実と、どちらがより刺激的なのか、興味がある。ヒナの腰に腕を回し、ミラは部屋の中に入った。

 勿論、現実世界でもミラは手を抜いていない。初心なヒナの乙女心を満足させるよう、都度精進している。悪ぶってみせるのもその一環。古風な名作を細かく説明してみせるのも策略だ。新たな技術に無知であるのも可愛らしさの演出になる。コツは、この三拍子を全て素直にやる事。驕りや嘘は少女を傷付ける。

 昨日、電脳でなく現実でもデートしようという事になり、軍警から支給されたジープをミナト区へ走らせた。一昔前のドライブを味わいたかった。が、結局、薬を一度打ったら止められなくなるのと一緒で、電脳に生活を託した人々は電脳から離れられなかった。道案内から店選び、ネオン広告まで、生電レンズ入りのサングラスを通してでないと見えないときた。灰色の雲の下に建ち並ぶ灰色のビル群、ガラス張りの衰退した世界に被さって、虹色の電脳は、矢張り、幻覚の様に輝いていた。

 辟易したのは、ジープがサングラスとリンクして、度々自動運転を勧めてくる点。機械がハンドルを操るなんてご免被る。

「遠くにある、あの塔は何?」

 バイパスを走らせながらミラが訊く。曇天を衝くピラミッド型の高い塔が、遥か彼方にある。山の様にそびえる巨大建造物。ビルの向こうから顔を出すそれを見続けていると、遠近感が狂う程の大きさ。

「あぁ、あれはね、『農園ファーム』」

 ヒナはピラミッドの頂点を眺めながら、

「公式には名前通り。野菜工場や自動厩舎が入ってるって政府は発表してるけど、誰も信じてないよ。もっと物騒で変なものを育ててるに決まってるんだから」

「ふぅん……」

 ミラはハンドルを左に切って、並木の美しい大通りに車を入れた。農園……ある意味では正解かもな。ミラの瞳は、ここからでも、ピラミッドの中を巡る大量の血液の鼓動は見逃さなかった。

 高級服屋(アパレル)の前に車を停め、特別に精巧な立体映像(ホロ)、痩身の黒人モデルが緑のドレスを着てポーズを決める映像の下を通って、円形の自動ドアをヒナと潜る。

「いらっしゃいませ。ようこそ『舞視線(ダンス・アイ)』へ」

 耳に直接語り掛けてくる女の声。店員の影はない。店舗がサングラスを用いて骨を振動させているのだ。レンズには女の笑顔が映っている。現実の店は、地下にあるライブハウスの楽屋といった暗い印象で、剥き出しのコンクリートや、電球に取り囲まれた鏡、壁際のラックは銀色のポール、壁に貼られた様々なポスターは端が破れている念の入れよう。昔、ソーホーにこんな店があった。外はシャンゼリゼ通りなのに。ガーシュインみたいな店だ。それこそブランドの戦略なのだろうけれど。

 ミラは壁際に飾られたMA-1を手に取った。途端、レンズ上に、服の素材、値段、こだわった箇所、デザイナーの挨拶が浮かんできた。ミラは溜息を吐いた。何もかも、このサングラスがないと立ち行かないのか。人類は依存症が大好きだな。しかし、情事すら再現出来るのなら、それも致し方ない。

 サングラスを外し、直接MA-1を見る。ハンガーから外し、作りの細さを確かめる。腕には軍曹サージェントの階級章。

 ミラは背中越しに店の外を見やった。尾行が二人、並木道にてこちらを窺っている。軍警だろうか?それとも別組織?

 店の奥にいるヒナの方を見やる。マトリックスマスクの向こうでは、奔放に、手慣れた調子で、自由にサイトからサイトへ移っていた少女が、現実では所在なさ気に店内をフラフラしている。私の可愛い小鹿。しかしあれは暗がりに生きる人間の注意力ではない。だからこそ、守り甲斐があるというもの。

 東京にいて感心するのは、犯罪組織の少なさだ。これだけ歪な経済格差が蔓延していたら、そこかしこに不満が膨らんで出来た隙間が広がり、その隙間に必ず組織が巣食う。彼らは一所に犯罪を呼び集め、薬を売り、殺しを請け負い、金を集め、権力を握る。60年代のNYがそうだった様に、仕事を失った連中の弱味に付け込むのだ。

 が、この街にはそういった組織がまるでない。冷戦下と同様に、各国の諜報機関がその代わりを担っているから、というのがミラの意見だった。軍警もその一つだ。幾つかの任務を請け負ったが、軍警の仕事は、時々、荒事の域を超える。

 ミラはヒナの許にMA-1を持って行き、

「これ似合うよ」

 と言って、ヒナの小さな身体に服を押し当てた。

「うん、やっぱり。こういう男性的マニッシュなの、いいアクセントになる。でも、色は黒の方がいいな。そっちの方が脱がしたくなる」

「あっちに試着室があったよ」

 ヒナはそう応えた。ミラは笑顔を返した。外で見張っている連中に見本を示してやらねばならない。悪ぶり、古風好みで、新技術に疎く、素直である事、これこそ乙女を誘う手立てだ、と。

 試着室で起きた情事、我が右手のおいたについて、一通りの感触を思い出していると、いつの間にやら、歴史の授業は終わり、レンズには"Restart?"という文字だけ表示されていた。かと思えば、突然、切り替わり、レンズに地図が映った。地図上の太い線は靖国通り、細い路地が不規則に走る、見覚えのある地形、シンジュク区二番街だ。地図の中央には点滅。メールの差出人は浩一。件名は「避雷針」。

 徐に身体を起こし、黒革のソファから立ち上がる。廊下にある上着掛けから、最近よく着るウィンドチーターを取る。「舞視線」で買った物で、半透明の黒ビニール製、生地のあちこちにパンクロックのポスターを模したデザインがプリントされていた。

 それから、黒いキャップを被る。白無地のTシャツと、黒のスウェット、生電レンズサングラスは掛けた儘、玄関へ向かう。

「出掛けるの?」

 ヒナが扉から顔を出す。

「義理の兄から呼び出し」

 ミラは厚底のスニーカーを履きながら応えた。

「結婚式は南の島でやろうね」

 ニヤつくヒナの声を背に、手を振って外に出る。

 湿っぽい階段。天井の照明が切れている事を、早く大家に知らせてやらねばと、階段を下りる度に思うのだが、毎回忘れる。

 ビルを出、流しのタクシーを拾う。目的地へ行くには影を渡るのが一番早いが、どうやら尾行者が二人、物陰に隠れている様だから、そいつらを釣り出す為、敢えての車だ。

 行先は地図に示された場所。サングラスが機械(マシナリー)運転手に指示を送れば、無言の内にタクシーは発進する。二番街、骨董レコード店「ビーチボール」の前で車が停まる。支払いもサングラスがやる。この感覚が未だ馴染めない。いつもタダ乗りしている気分になる。

 レコード店のドアを押し開けると、カランカラン、ベルが鳴った。ここはミラのお気に入りだ。旧式の楽器店を改造したらしい店内は、飾り気がなく、リノリウムの床に靴音が吸い込まれる。狭い店内には木製のラックのみ並び、その中にレコードがギッチリ詰まっている。恐らく大半が盗品。だからこそ、ここには掘り出し物がある。

 店の奥にあるレジカウンターでは、巻き煙草を吹かす太った男が、入店してきたミラを不躾に一瞥するなり、カウンターの下からレコードを一枚、取り出した。常連向けの商品、所謂取って置き。店外に相変わらずこちらを待ち構える気配が二つあるが、無視、ミラはレジへ向かった。差し出されたレコードを受け取る……「月の裏側」……よく手に入ったものだ。思わず笑みが零れる。迷わず買う。レジに貼られた注意書きには、"Cash ONLY!"とある。そっちの方がミラにも有り難い。ポケットから紙幣の束を掴み、無造作にレジに置く。この店にお釣り(チェンジ)という概念はない。

 小脇にレコードを抱えて店を出、葉の付いていない街路樹を仰ぎながら考える。尾行者の取り扱いについて。組織に属すというのは厄介で、考えなしに始末すると、後で始末書を書かされるハメになる。前々回の任務中、対象者(ターゲット)以外を全滅させたら、報酬が半分になった。派手なのは好きだが、収入が落ちるのは頂けない。

 撒くのが最も平和だが、それよりもっと良い案がある。ミラは角を曲がった。道とも呼べない、ビルとビルの暗い隙間。浩一に指示された目的地も近い。

 馬鹿正直に尾行者達もビルの隙間に入って来る。ダークスーツの男二人。男達はミラの不審な行動に最大限の注意を払っていた。と言っても、ミラから決して目を離さない、という、原始的(プリミティブ)な方法以外、これといった対策はなかったが。

 どうしてこんな路地に入って行ったのか?遠目に見える金髪美女は、迷いなく歩を進めている。この先に何かあるのか?まさか、軍警の接触場所(ポイント)が?男達は固唾を呑んだ。

 頭上の曇天。両側から壁が迫って来る様な閉塞感。視界一杯の灰色。男達は緊張していた。これは罠ではないか?黒い服を着た吸血鬼は振り返りもせず、十メートル先を真っ直ぐ歩いている。歩いていた、筈なのに、ふと、その姿が消えた。

 目の錯覚、或いはコンタクトの生電レンズがバグを起こしたのかと疑った。室外機とパイプ以外、障害物のない、真っ直ぐな一本道。人がすれ違うのも難しい細い小道で、目の前を歩いていた人間が消えたのだから。

 しかし、男二人の意識はそこで途絶えた。後頭部に爆発的な衝撃。人間離れした力で殴られた男達は、なす術なく、道に倒れ伏した……。

 ミラは拳を解き、気絶する男二人を見下ろした。ギリギリ、殺してはいない、と思う。どちらにせよ、こいつらには先がない。今、浩一に連絡した。「回収してくれ」という一文と、現在地情報。これでこいつらは行方不明になる。骨の一欠片すら発見される事はないだろう。

 一仕事終えた感慨があるが、本来の目的は別にある。ミラは又しても影に身体を溶かし、道を挟むビルの壁を伝った。忽ち、十二階建ての屋上に着く。

 北風吹き荒ぶガランとした屋上に立ち、たなびく金髪を手で押さえながら、ミラは眼前にそびえる銀色の避雷針を仰いだ。五メートルはある銀色の針。その先端に、封筒が一枚、刺さっている。今時紙媒体(ペーパー)とは、ミラから見ても旧式アナログだが、秘密保持にはこちらの方が都合が良いのだそうだ。紙は燃えれば完全に消えるから、というのが理由らしい。

 人間と同じだ。

 ミラは跳躍し、針の先から封筒を抜き取った。早速、中身を開いて見る……手紙にはたった一文……ミラが微笑む……珍しい任務……ヒナが喜びそうな任務じゃないか。

 北風にたなびく手紙にはこう書いてあった。


 シノノメ・愛理を護衛せよ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ