BANG!①
軍警新宿分署の端末室は、昼間だというのに真っ暗だった。ヒナが照明を切ったからだ……こっちの方が落ち着ける……マトリックスマスクを被ってしまえば、部屋の明るさなど問題にならないが。
端末室の壁や床には、海底のワカメを連想させる量のコードが数多と伝い、机上に並ぶ数十個のマスクにそれぞれ連結している。その中の一つ、軍警所有の、無茶な改造を加えられたマスクを、ヒナは被っていた。兄に訓練を言い渡されていたからだ。電脳空間にて、五角形に配置された氷鍵を突破し、保護された曼荼羅図を盗み見る。これが本日、ヒナに課された業務だった。
昨日は別の訓練だった。結合トーラス体状になった電極迷路の始点と終点を特定しろと言い付けられた。これは一時間で終わった。一昨日も別の訓練を課せられた。軍用A.I.の閾値下で、武器庫の警報レベルを赤から青に変更するよう言われた。国が管理するA.I.は全て間抜けだとヒナは思った。警報は三十分も掛からずに変更された。これで、シンジュク区四番街にある武器庫は、浮浪者ですら寝泊まり出来る無料モーテルになり下がった。
本日の訓練も、ヒナにはとっては朝飯前。自分は過小評価されていると、ヒナは内心不満だった。そもそも、鍵屋としての知識はそれなりにある。五つの氷鍵は、内に仕込まれたアラートも含め、全て欺き、接続したワイヤーに施錠の命令を流しつつ、同時連結された場合のみ解錠になるよう、指示を上書きしておいた。所要時間は四十分弱。訓練想定時間は三時間なので、時間が大分余ってしまった。
軍警の一部隊として、ミラと共に入隊してからというもの、毎日毎日、退屈な訓練ばかり続いている。訓練はどれもヒナには不必要なほど簡単で、最初は暇を持て余していた。が、近頃、ヒナは素敵なサボり方を覚えた。と言うのも、退屈しのぎに、新宿分署の監視システムを守る量子格子に侵入し、館内にあるモニターを覗き見れるようにしたのだ。
ヒナは、日々、各会議室や、訓練室の様子を眺めるのを趣味としていた。最近はもっぱら訓練室ばかり見ている。そこで戦闘訓練に励んでいる、愛しきミラの雄姿を堪能しているのだ。と言っても、ミラはカメラに映らないので、実際は、訓練室内で起きている事象から、透明になっているミラの行動を連想し、楽しんでいるのだが。
本日のミラは黒いスポーツウェアを着て、長い金髪を後ろで一つに束ねているに違いない。隠れ家を出る時、スポーツウェアの着替えを持って行っていたし、髪もまとめていた。戦闘訓練でもするのだろうか。確か、昨日は、サングラス型の接続レンズを受け取り、その使い方を講義されていた。流石に、現代において通信手段が一つもないのは不便極まりなく、任務にも差し支える。浩一は携帯通信の基本を教えつつ、ついでにミラの個人認証も登録し、電脳上の住所も作成していた。
そして現在、ミラは浩一から銃の組み立て方を習っている、らしい。白い訓練室には、銀の長机が置かれ、机の上には細かなパーツが沢山並んでいる。浩一はそれらのパーツを順番に組み合わせ、古い火薬式の拳銃を作る。と、透明なミラの手が、浩一の手から拳銃を受け取り……カメラ越しには、拳銃が宙に浮いている様にしか見えないけど……それから、ミラは逆の手順で分解してから、もう一度拳銃を組み立てた。
一昨日は刃物の訓練をしていた。摸擬刀だが、ナイフやマチェットを使用し、実働部隊の隊員と演習していた。一対一から一対多まで、姿は見えないけど、勝率を鑑みるに、ミラは戦闘訓練に余念がない。今日も拳銃を用いた戦闘術を習うらしく、まずは撃ち方からと、訓練室に人型の立体映像が映された。
ミラは、ヒナとは対照的に、実に真面目に訓練に臨んでいた。素手での訓練なぞ、ミラが講師をしているらしい。隠れ家のダイニングでミラが言っていた。体術で一番大切なのは、己が最も自然でいられる型を見付ける事だと、血を飲みながら語っていた。
そう、訓練の後こそ、ヒナの一番の楽しみだった。ミラもヒナも、訓練は正午キッカリに終わる。終わった後、二人は互いをより深く知る為、共同生活するようにと、浩一から指示されていた。軍隊式の、旧態依然とも呼べる様式だが、ヒナにとっては願ってもない事だった。
二人の生活を、ヒナは目一杯楽しんだ。ミラが欲した僅かな家具や日用品は軍警が用意した。隠れ家は無駄に部屋が多かったので、空いていた一室をミラの私室にあて、そこにベッドと小さなワードローブが運び込まれた。ミラが特別に所望したのは、ヒナとお揃いの黒いマグカップと、後は骨董品なレコードプレーヤーだけだった。
「ロックはLP時代が最高なんだ」
ミラはプレーヤーの曇りを丹念に拭き取りながら懐かしんだ。が、軍警は肝心のレコードを用意しなかった。なので、ヒナはミラの頼みに従い、トレンチで違法競売に掛けられていたレコードを数枚、差し押さえというかたちで手に入れた。ストーンズ、エシディシ、ローゼズ、フロイドが配達された夜、ヒナはミラから熱烈なキスを焦げ付くほど浴びた。
二人はリビングでよく互いの趣味を紹介し合った。ミラは古い映画や文学等の芸術について語り、ヒナは最近のアイドルや模擬体験について話した。
それから午前中の訓練も話題に出た。
「拳銃ってどう?強い?」
興味半分にヒナが訊くと、ミラは「どうかな」と唸ってから、
「便利ではあるが、私の場合、素手の方が速い上に確実だからな。使うとしても、まぁ、脅し用だろう」
ミラは片手で拳銃の形を作り、「バン!」とふさげてみせた。子供っぽい、見た目相応の無邪気な笑顔だった。猥雑な世界に咲いた、深紅の瞳に、ヒナはつい見惚れた……。
その時、耳元で、バン!と、大きな破裂音が響き、ヒナは力強く現実に引き戻された。訓練室でミラが本物の拳銃を的に撃ったらしい。相変わらず、ミラの姿は映らないので、見た儘を述べれば、虚空に浮かんだ拳銃が、まるで自由意志を手に入れたかの様に、自動で己が撃鉄を引いていた。道具が遺志を持ったら、たまらないなと、見事頭に穴の空いた的を見て、ヒナは思う。
ヒナは時刻を確認した。そろそろ正午になる。が、今日はいつもと異なり、真っ直ぐ帰れない。この後、第五会議室に寄るよう、浩一に言われている。何でも、ヒナとミラの初任務について、説明があるのだとか。
そろそろ正午になる。ヒナは勿体振った動作で、ゆっくりマスクを脱いだ。同時にターミナル室の照明が点く。本当ならば、すぐにでもマスクを脱ぎ捨て、第五会議室に駆けて行きたいけれど、ヒナはわざと伸びを一つし、のんびり立ち上がった。楽しみを出来るだけ長く味わう事こそ、最大の贅沢だと、ミラに教わったからだ。
昨晩、ヒナとミラは映画を見ようとした。ミラの勧める昔の映画だ。ヒナは、早速、マスクを被った。ミラにも被せようとした。二時間近い映画を五分に圧縮再生する為だ。が、ミラはマスクを被らず、実際に映像を投射し、普通再生、即ちキッチリ二時間掛けて見る方を望んだ。それが映画の最も自然な見方であり、最も贅沢な見方だからだと、娯楽は如何に時間を無駄に費やすかが大事なのだと、ミラは語っていた。
そしてそれは真実だった。リビングの広い壁に映像を投射し、二人でソファに座り、寄り添った二時間は、ヒナにとって至高の時間だった。映画の内容はよく覚えていない。冴えないタクシー運転手が、ひたすら「満たされない」と言っていた事だけは記憶している。が、ヒナはミラの肩に頭を乗せて、ミラの映画解説を聞いているのが堪らなく幸せだった。
「ほら、ヒナ、有名なシーンだ。主人公が鏡に映った自分に話し掛ける名台詞がくるぞ」
久々の映画に嬉しそうな声を上げるミラが、ヒナにはとても愛おしかった。
この経験を得、ヒナは学んだのだ。楽しみは焦らすに限る、と。映画を見ながら肩に頭を乗せていた時、すぐ近くにミラの顔があった。しかしヒナは触れなかった。それが解答であり、真理だった。
なので、ヒナは第五会議室へはゆっくり行こうと決めていた。愛しのミラが待っている筈だと思えばこそ、会議室の扉を開けるその瞬間まで、自分の愛を焦らしていたかった。
……しかし、生電レンズに、浩一から「早く来い」というお達しが入り、ヒナは渋々会議室へ向かった。まったく、情緒に欠ける兄だ。
ヒナが第五会議室の扉を開けると、既に浩一もミラも席に着いていた。
「重役出勤だな、どうも」
「ここで一番の腕利きだからね」
浩一の嫌味も慣れたもの、ヒナは悪びれもせず、ミラの隣に座った。
「お前は一番の新人だ。新入りらしく、もう少し礼儀正しく振舞うべきだな」
浩一は説教しようと身を乗り出したが、これまでの訓練の結果を思い出し、座り直した。事実、ヒナは部隊の誰より早くペンタゴンを突破し、どころか、館内の量子格子すらすり抜けてみせた。
「訓練中に他の事にかまけるとは、感心しないな」
「問題が簡単な方が悪いよ。試験時間が余ったら、落書きするでしょ?そんな感じ」
「落書きの代わりに覗き見か?」
「ミラの雄姿が見たくて」
ヒナが正直にそう打ち明けると、隣のミラが首を傾げた。
「しかし、私の姿は映らなかっただろう?」
「うん。だからお兄ちゃんに、ミラがどんなにかっこよかったか、聞きたいの」
期待の眼差しが自分に向けられている事を意識しながら、浩一は妹の願いを無視して、
「共同生活の方を聞きたい。二人は巧くやっているか?」
と、反対に質問した。
「問題ない。日々、楽しくやっている」
ミラが即答する。ヒナもしつこく頷いた。
「そうか。ならば、そろそろ頃合いだろう。ここらで、一つ、仕事を任せたい」
そう言って、浩一は机の上に書類を滑らせた。現代において、秘密だけは依然として紙式なのは、データ管理より破棄が簡単だからだ。紙ならば焼却すれば片付く。
ヒナとミラは渡された紙を覗き込んだ。「GLD爆破犯の特定」と、一番上に大きく書かれている。
「ニュースは読んでるか?」
浩一が訊く。組んだ両手には、相変わらず黒手袋が嵌めてあった。
「ゴシップなら」
ヒナがそう応えると、浩一は予想していたと言わんばかりに演技の溜息を吐いた。
「これからは全て読め。この仕事を続ける積もりならな……せめてGLDは知ってるだろ?」
「大きいコンサートホールでしょ?あそこが爆破されたの?」
「そうだ。そして、そのテロ犯を捕まえる事が、君達の初任務になる」
浩一は書類を指差しながら、
「テロ犯と呼んだが、その思想や動機は判っていない。先週、GLD一階スタッフ用通路に設置されたゴミ箱が爆発した。最初は事故かと思われたが、爆発の中心、つまりゴミ箱の中に爆弾の残骸が発見され、事件扱いになった。犯行予告も声明も未だなく、犯人が個人なのか集団なのかも不明だが、何しろ爆発規模が素人のそれではない事、爆破当日、現場では観客十万人を見込んだライブが予定されていた事も加味し、本案件は重要指定を受けた……が、刑事部の捜査がまるで進展せず、こっちに回された」
「手掛かりは一切なし、か」
書類を読んでいたミラが呟き、それから紙を指差した。
「ここに『捜査権の委譲』と記されているが、私とヒナに捜査権が付与されたと考えていいんだな?」
「ああ」
浩一が頷く。
「他に貰えるものは?」
ミラが質問を重ねる。と、浩一はスーツの懐から鍵と拳銃を取り出して、
「こいつらが支給される。地下にある車と、武器」
「車は有り難いが、銃は必要ない。素手の方が手っ取り早い」
「貰える物は貰っておけ。転ばぬ先の杖だ」
これ以上の問答は面倒に感じ、ミラは黙って鍵と銃を自分のポケットに突っ込んだ。そして即座に席を立った。
「訓練で教わった通り、行動は素早くしよう。もう捜査に取り掛かっても?」
「勿論」
「了解。行こう、ヒナ。GLDとやらまでドライブだ」
ヒナも立ち上がり、二人が会議室を出ようとした直前、またしても浩一が呼び止める。
「そうそう、君ら二人のコンビ名が決まったよ。"B2"だ。以降は"B2"と呼称される」
「何で"B2"?」
ヒナが首を傾げる。と、浩一は振り返らずこう応えた。
「二人共、黒い服ばかり着ているからだ」
「なにそれ」
ヒナは呆れ、黒いスタジャンのポケットに手を突っ込み、会議室を去った。
分署の地下へ通ずるエレベーターは、飾り気のない、コンクリート箱その物で、無機質な灰色の中に閉じ込められるといつも息が詰まった。動いている時は何の音も立てず、目的の地下一階に着いてもベルすら鳴らない。秘密部隊にお似合いの、静かで事務的な機械だ。
そんなエレベーターを降り、駐車場に入る。ミラはポケットの底にある鍵に触れた。途端、真正面で明かりが点き、まるでスポットライトの様に、ミラとヒナの影を暗いコンクリートの壁に映し出した。軍用車。無言で二人を待ち構えている。
腰のベルトに差した拳銃を煩わしく感じながら、ミラは運転席に乗り込み、ヒナは助手席に座った。
「GLDまでの道、判る?」
ミラが訊くと、ヒナは生電レンズを車に接続して、
「ミナト区だったかな。自動でも行けるけど、ミラ、運転する?」
「そうだな。久し振りに」
「少し待って」
軍警の機械にありがちな独自回線はこの車も例外でなく、無限延線より複雑な仕掛けが施されていたが、軍の回線は大概型落ちで役に立たないので、ヒナは毛糸玉をほどく様に保護を外し、以前に所有権を一部間借りした衛星と通信出来るよう、コードを書き換えた。ついでに、ディスプレイにもなるフロントガラスと同期も済ませておく。
「住所、判ったよ。ミナト区埋立十号地だって」
昔懐かしいHUDをフロントに映す。GLDの所在と経路が光る地図と所要時間、それから道筋を示す矢印……デザインは、ヒナがレンズ越しに見ている拡張現実と同じだ。が、音声案内だけは切った。ドライブ中、ミラとのお喋りを邪魔されたくなかった。
「ヒナは便利だな」
フロントで輝く矢印にミラが感心すると、ヒナは得意になって、
「その言い方、私が安い女って言われてるみたい」
と冗談を返したが、
「安くはないが、私はいつでも食べちゃいたいね」
と吸血鬼にやり返され、返事に詰まった。
「冗談だよ、半分ね」
ミラが微笑み、ハンドルを切る。車はコンクリートの駐車場を出、曇天のシンジュクを走った。
シンジュク区は、政治家達の郷愁の為に、わざと再開発が遅れている区画の一つだ。血液に微細装置を混ぜている老人達は、せめて馴染みの街並みだけは電子化させたくないと願ったらしい。目に見える景色に、思い出の欠片が一つも見出だせない事が堪えられないのだ。その結果、六番街などの商業区や、七番街などの歓楽街には、二十世紀の名残が端々に見られる。灰色の雲と黒いビル群を背景に、自動車が行き交う大通り沿いの路面店は飾り窓を灯し、ビルの壁には果実の様に色取り取りの看板が生え、昼間のバーは店名のアルファベットネオンを落として空虚な硝子管を晒している。
黒いスカイラインに縁取られたシンジュクの目抜通りを、ミラは車窓越しに眺めた。信号が赤に変わり、車を止めた時、眼前の横断歩道を行く通行人の服装を、何気なく観察する。ファッションは周回軌道を描き、まるで干支が巡る様に、流行は数年周期で繰り返している。今はストリートが流行っている。その前はトラッドだっただろう。そして次はスポーツが流行るに違いない。
「変わらないな。車は未だに空を飛んでいないし、街も人も、私が知る『新宿』の儘だ」
ミラが呟く。
「ここらへんはね。景観保護法の適用範囲内だから」
ヒナは頭をもたげて、ディスプレイを確かめた。目的地まで三十分。
「でも、ミナト区は様変わりしたよ。特に埋立て地は」
ヒナがそう言うと、信号が丁度青に変わった。ミラはアクセルを踏み込みながら「へぇ」と応えた。
「そりゃ楽しみだな」
「あ、でも、生電レンズがないと楽しめないかも」
「どうして?」
ミラが訊くと、ヒナはフロントガラスにアクセスしながら、
「埋立て地は半電脳地帯だから……えっと、レンズがないと、普通というか、面白いものが見られなくて」
「つまり、街全部が3D映画なのか。3Dメガネがないと、何が何やら判らない、と」
「ちょっと違うけど、大体そんな感じ。うーん、どうしよう。フロントに映せなくはないけど」
「いや、いいよ。未来都市には、今度、仕事じゃなく、デートで行こう。それまでに、私も3Dメガネを用意しとくよ」
デート、という響きが、ヒナの胸を打つ。ミラの美しい金髪に触れようとして、手を引っ込める。運転中は危ない。帰ったら沢山触らせて貰おう。
極彩色の看板ばかりがやかましい、都会の静寂に沈むシンジュクを走る道中、ヒナは渡された資料に目を通した。浩一が用意した、GLD爆破テロ犯の特定指令書だ。
「先週の十七日、午前十時頃、GLD一階、スタッフ用通路にて、大規模な爆発が発生。ドームの裏側は半壊、当日のイベント設営に従事していたスタッフ二人が死亡、二十五人が重軽傷……あー、爆破の日って『オトリラ』のライブがあったんだ」
資料を見た儘、ヒナが言う。
「『オトリラ』?」
ミラには初耳の単語だ。
「アイドルグループだよ。女子三人組の。今人気なの」
「へぇ……なら、過激なファンがやったのかもな」
「そうかも。『オトリラ』は反感買いやすいから。でも……」
ヒナは資料の先を読んだ。
「刑事部も同じ事、考えたみたい。かなりの人数で聞き込みしてる。現実でも電脳でも」
「警察らしい人海戦術だな」
「うん。それで過激なファンや、悪質なファンは、随分徹底的に洗い出してるんだけど、全員外れ。ファン以外の犯行か、もしかしたら捜査から隠れてるのか、判んないけど、兎に角、刑事部はそこで行き詰まったって、資料には書いてある。だから私達に回されたんだね」
しかし、ヒナには腑に落ちない点があった。本案が軍警に回される時期が、幾ら何でも早過ぎる。事件発生から未だ一週間、刑事部だって、やりようは残されていそうなものだが……。
ヒナの疑問を余所に、軍用車はシンジュクを走り抜け、首都高に入った。運転がA.I.制御になって以降、渋滞とは縁遠くなった首都高は、車が正確な等間隔に並んで走っている。ミラは、この秩序立った車列を眺めていると、今まさに工場で車が組み立てられている真っ最中に思えてならなかった。
ミナト区に入り、案内に従い高速出口から下りる。と、確かに、シンジュクとは景色が一変した。それもつまらない方向に。
氷河期によって世界中の海面が下がり、東京湾も漏れなく後退したのを、これ幸いと、人口に対し手狭な東京を拡張すべく、干上がった湾に土を盛って出来た新しい街がここだ。まっさらなキャンパスが突然現れた様なもので、インフラから何から、一から好き放題に出来るというので、表向きは新サービスの発信地、実際は企業の大掛かりな実験場として発展した。
景観保護法の適用外にある埋立地は、しかし、建造物の規格がほぼ統一されている。抜け駆けを嫌う企業間の不文律がそうさせたのだ。ナッシュ均衡はいつの世も不変である。
水色の壁面に、ガラス張りのビル。高さは十五から二十階。これが延々建ち並んでいる。首都高は車工場だったが、ここはビルの工場なのかと、ミラは辟易した。
が、助手席にいるヒナには、全く別の景色が見えていた。生電レンズ越しに映るミナト区は、マトリックスマスクを被ったサイバー・スペースと殆ど変わらない。二進数に組み立てられた、質量ゼロの森羅万象が、レンズの上で踊り狂っている。
空を飛ぶ様に空中を泳ぐ魚の群れが、尾びれをはためかせて入っていった扉の先は、レストラン。「私を食べて」という演出。ホテルの前には料金表と今夜の空室の数を書いた板を持った支配人が立ち、彼の方を向けば、このホテルの売りを上品な口調で喋り出す。
「当ホテルは何よりお客様の睡眠の質にこだわっております。無重力式ベッドでは、水中の効果音を鳴らし、胎児だった頃の思い出と共にお眠りになれます。更に、特別に注文して頂ければ、お望みの夢を編集し、レム睡眠時に脳へ直接お届けする事も可能です……」
視線を移せば、服屋、今季のランウェイがビルからビルからへ伸び、その上をモデル達が、背筋を異様に伸ばして歩いていく。お次は電気屋。ビルの壁から兵士が飛び出し、二つ前の戦争を真似た疑似体験の商品名を叫んだ。
半電脳地域は、サイバー・スペースにお決まりの、所謂広告群が現実界に侵食してきた様な場所だ。ヒナは、最初こそ、見慣れた電脳のノリが街の風景に溶け込んでいるサマを楽しんでいたが、その内、あまりの看板の量に嫌気が差し、レンズの広告ブロックを設定して、街中に点在する音楽ポートにのみアクセスした。
車内にオトリラの楽曲が流れる。アイドルソングは、一時期、低容量音が席巻していたが、最近はバンドミュージックが復調の兆しを見せていて、その先駆けこそオトリラなのだと、ヒナがミラに説明している内に、車は目的のGLDに到着した。
試作符号の見本市を抜けた先の、青い摩天楼の谷間、大通りの終着点にそれはあった。
周囲を覆う林の緑。常緑樹の枝葉に隠され、全体は拝めないが、尖った木の先から、卵形ドームの頭だけが覗いている。電子広告を退ける為に一帯を緑化したのだろう。贅沢なものだ。自然は今、何よりも贅沢品だ。
林の手前、アスファルトと公園の境界線にある駐車場に車を停め、降りる。公園に敷かれたプラスチック制の芝生を踏み締める。本物の芝を敷くだけの予算はなかったらしい。人工芝の間に通る煉瓦道を辿る。と、道の両脇に四角い機械が二台立っており、行く手を塞ぐように黄色いテープのホロを渡していた。警ら機械だ。しかし、ミラとヒナが近付くとホロは消滅した。通行許可の合図……大方、浩一が手を回し、二人の個人認証を通過させるよう、命令を書き換えたのだろう。「アテストがないと、生きていけないぞ」と浩一に脅され、嫌々ながらも作っておいて良かった。ミラが独りごちる。
GLDの入口に着き、二人はその痛々しい全容を仰いだ。文字通りの半壊。曇り空の下に建つ、硝子の球体は、件の爆発によって崩れ、剥き出しの鉄骨が黒ずんでいる。
「ドラゴンが生まれた後の、卵の殻だな」
ミラがそんな感想を述べると、ヒナは瞳を輝かした。
「ドラゴンも実在するの?」
「どうだろ。私は会った事ないな」
「なーんだ」
残念がりながら、ヒナは指令書の裏面を見た。GLDのスペックが記されている。高さ六十メートル、半径二百メートル、収容人数十万人。続いて、爆発規模についても概要が書いてある。爆発半径、凡そ七十メートル……ドームが原型を保っているだけでも、奇跡みたいなものだ。爆発の余波で、周囲の木々も何本か折れたり、焦げたりしている。
プラスチックの芝生も溶けている。
ヒナはレンズを使い、シノニックに接続、GLDの評判を集めた。
「ここ、今は見ての通りだけど、こうなる前はあの硝子に、相当凝った画面が使われてたみたい」
「どんな風に凝ってたんだ?」
ミラの質問に、ヒナはシノニック上の写真や日記を総合して応えた。
「えーっと、簡単に言うと、特定のチケット……つまり、ドームの中のチケットを取れなかった人用に、外でもライブが楽しめるチケットを売ってたんだって」
「じゃあ、そのチケットを買った奴だけ、中の様子が見えるようにしたのか」
「惜しい。硝子上に映像が流されてたのはそう。だけど、もっと生。演奏の振動まで、レンズからの神経電気で感じられたの。仮想体でも似た効果は得られるけど、物理的に近くにいたいっていう、熱心なファン用のサービスだね」
「音楽は身体で聞くもんだからな……どうやら、この間の振動は、強烈過ぎたみたいだが」
吹っ飛んだドームの、哀れな玄関口に、二人は入った。
煤だらけのだだ広っい室内は、最初から広かったのか、爆弾によって拡張したのか、判然としない。というより、今や室内ですらない。壁も天井も吹っ飛び、瓦礫の山、何もかもが壊れている。
二人は、しかし、散らばる瓦礫には目もくれなかった。そもそも、二人は現場検証をしに来たのではない。検証は刑事部が充分に済ませている。情報が欲しかったら、後で刑事部のサーバーに線を繋げばいい。
では、何をしに来たかと言えば、記念だ。めでたい初任務の舞台となる爆心地を拝みに来たのだ。
そして、予想外にも、来た甲斐があった。
爆心地は、エントランスホール北にある扉(だった物)を抜け、スタッフ用通路入ったすぐの場所。扉の脇に爆弾は設置されていた。
元は細い通路だったらしい。ヒナはそんな現場を、一応、レンズでスキャンした。刑事部の装備が如何程の物か知らないが、マシンパワーで、ヒナの生電レンズが負ける筈がない。その読みは当たった。ヒナは、倒れた扉の残骸の表面に、微小な電子的ひっかき傷を見付けたのだ。
そして、ミラの方でも、ある仮説が確信に変わっていた。矢張り、実際に現場を見るのは大事だなと、ミラは再び独りごちた。
「素人め……」
ミラはそう呟くと、ヒナと共に、焦げ臭い現場を後にした。