B2会談①
隠れ家のダイニングに、ヒナは一人でいた。タイル張りの八畳の床は、チェス盤の様に、白と黒の市松模様で埋め尽くされている。ヒナはスリッパを脱いで、タイルに足を着けた。ストッキング越しにひんやりとした感触が伝わる。白いタイルも、黒いタイルも、同じくらい冷たい。ダイニングの灯りは、笠付きの電灯が一つ吊り下がっているだけなので、灯りが足りず、部屋の隅の方は薄暗い。そうなると、最早、床の白と黒の見分けも付かず、一様に黒く見える。その暗闇に溶け込む様に、ヒナは黒のトラックジャケットと黒のショートパンツを着て、手に黒いマグカップを持っていた。中身は白湯。湯気が電灯の灯りに揺らめいている。
赤メッシュを入れた白髪が、暗がりに目立つ。きっと銃とか狙い易いだろうな、なんて考え、小さく笑い、ヒナは電灯の下にある銀色の椅子に座った。マグカップを、同じく銀色の食卓に置く。
「楽しそうだな」
暗闇の向こうから声がする。やがて、暗がりから、黒シャツにデニムパンツ姿のミラが、手にお揃いの黒マグカップを持った姿で現れた。マグの中身は、人肌に温めた血液。
「ううん、何でも無い」
ヒナは笑顔で応えた。ミラも笑ってヒナの向かいに座り、食卓にマグを置いた。
「ヒナはお湯が好きなのか?」
と、湯気を立てるマグカップの中身を覗いて、ミラが訊く。
「そういう訳じゃないけど」
ヒナはマグカップに口を付けながら、
「お湯は冷めても水でしょ?それは許せるの。私、甘党だから、本当はココアとか飲みたいんだけど、冷めたココアは嫌い。アイスココアは好きだけど、ホットココアが冷めたのは許せない。で、お湯にしたの。お湯が水になるのは平気だし、これからミラと長くお話しするし」
と、マグカップを両手で包み、
「それに、もう、歯も磨いちゃったし」
「ヒナはいい子だな」
ミラは血を飲みながら、
「浩一の教育がよかった証拠だ」
「お兄ちゃんは、厳しかったから」
早くに両親を亡くした烏羽兄妹は、兄浩一が妹ヒナの保護者役に収まるしかなかった。浩一にとって、それが不幸だったかどうか、本人に訊いてもはぐらかされるのがオチ、知る由もないが、結局不登校になった自分は、少なくとも兄不幸者だろうなと、ヒナは秘かに思っている。
「ミラはお兄ちゃんの事、どう思ってる?」
ヒナは椅子の上で体育座りしつつ訊いた。自分の相棒が、自分の兄をどう思っているか、これはヒナにとって大問題だ。二人の関係が良好でないと、この先、公私共に息苦しい。
ミラは、頭上の白々しい電灯を見上げつつ、「そうだなぁ」と呟いて、
「達観した男だと思ったよ。彼の信条を悪く言うんじゃないが、ああいう類の男は偶にいる。暴力を取り扱う世界には、ああいう男が必要だからな」
「お兄ちゃんは何を諦めてるの?」
「平和。世の中はトラブルだらけだって信じている。実際その通りだし、そういう風に考えれば、綱渡りも巧くいく。いつか落ちると悟った曲芸師は、足が震えないからな」
「……じゃあ、お兄ちゃんは、幸せになれないの?」
「そんな事はない。愉快な仕事ではないが、妹想いのいい兄だ。ヒナが無事に暮らしていれば、浩一は充足感を得られる。それが浩一の人間らしさであり、私が彼を信頼している点でもある。信頼出来ないのは、いつだって、組織の方さ」
ミラは血をグッとあおって、
「業務内容がアレだ。必要悪なんだろうが、私は矢張り好かないね。政治の裏面にいる連中は、どの時代も、自分達が全能だと過信している」
「私も軍警嫌い」
ヒナは自分の膝を抱えて、
「こんな仕事してて、こんな事言ったらダメなんだろうけど、正直、トレンチにいる犯罪者全員、好きにすればいいと思ってる。勝手にやればいいのに、って。したい事はしたいもん。なのに、軍警が管理したり、切り捨てたり、取捨選択してて、お前らに何の権利があるんだよ!って」
「ははは、いいなぁ。ヒナのそういうトコロ、好きだよ。保護者も軍警も法律も、ヒナの神様たり得ないって訳だ」
ミラはヒナを見やって、
「そして私も」
と、優しい笑みを浮かべ、嬉しそうな口調で続けた。
「ヒナの反骨が、思春期の所為じゃないのは承知だよ。ヒナはしっかり現実主義者さ。浩一との血の繋がりを感じるね。盲目的でないというのは、裏稼業じゃ重要だ」
「ミラの事好きなのは、本当だよ」
訴える様なヒナの大きな瞳に、ミラは頷いて応えた。
「判ってるさ。安心して。寧ろ嬉しいんだ。盲目的に信じられちゃあ、却ってやり難い。軍警で受けたあの試験、ヒナは見えてたんだろう?」
「……うん」
頷いて、ヒナは身体を丸めた。第五会議室で起こった、ミラの入門試験の件を思い出す。兄浩一の背後に、保安特級装備で透明化した隊員が二人いた事を、ヒナは知っていた。見えていたからだ。タネは目に入れた生電レンズ。最新式の生電レンズをいじくり、電磁波や光学類の屈折を可視化出来るよう、改造しておいた。
しかし、罠が見え透いていたにも関わらず、浩一が試験を口にし、その意図を理解しても、ヒナはミラに何の助言もしなかった。ヒナもミラを試したかった。透明人間二人くらい、楽々倒してくれなくては、自分の護衛としては不足だと、理解していた。
「でも、何で私が見えてるって、判ったの?」
ヒナが両膝の間から頭を上げて訊く。
「だって、ヒナ、私が奴らを殴り倒しても、一切驚かなかったじゃないか。あれは見えてる人間の反応だよ」
「ミラの動きは見えなかった」
「試験官によく見せようと、張り切ったのさ。ほら、私は怒ってないから、可愛い顔を見せておくれ」
猫を構う様なミラの声につられ、ヒナは体育座りをやめ椅子に座り直した。が、ミラの顔をマトモに見るのが気恥ずかしく、視線を脇の壁掛け時計に向けた……もうすぐ零時十分。
「そうそう、ヒナに一つ確かめたかったんだが」
そう言われたヒナは、反射的にミラを見やった……相変わらず、深紅の瞳に吸い込まれそうになる。
「確かめたいって、何を?」
「うん。ヒナが、どうやって、私を見付けたか」
微笑むミラに、ヒナは見惚れた。ミラの美貌は、相変わらず、人間離れしている。
「ヒナが私の存在を知った経緯は聞いたよ」
ミラは微笑んだ儘言った。
「援交の客が迂闊に口走ったってね。けど、それは二年前だ。今回の脱走は、どうやって知った?」
「シノニックで話題になってたんだよ」
「シノニックで?」
「そう。写真や動画に映らない美少女がいる、って。当然だよね。最近のカメラには、全部、鏡が入ってるんだもん」
「そうか、シノニックで……しかし意外だな。ヒナがシノニックに登録してたなんて」
「登録はしてないけど……」
ヒナは少し言い淀んで、
「シノニックで知る前に、別の、トレンチのサイトでニュースになってたんだよ。『シェリダンの怪奇新聞』で、『怪奇!透明少女』って。でも……」
「でも?」
ミラがヒナの顔を覗き込む。と、ヒナは形容しがたい表情を浮かべていた。不気味と不思議とが半々に混じり合った様な顔で、ヒナはこう言った。
「この間、確認しにトレンチに潜ったんだけど、なかったの。『シェリダンの怪奇新聞』が、記録も符号も何もかも、跡形もなく消えてたの」