シェリダン三面記事
真夜中の電脳海溝は昼間よりズット明るい。烏羽ヒナはマスク越しに、二進数が作り出す天の川の様な光景を眺めた。無限に沈む絶壁、その表面を走る無数の線が青白く発光し、データが正常に流れている事を主張する。触れれば瞬時にサイトと繋がる。
トレンチの利用者は大半が夜行性だから、日付が変わる頃、徐々に青い光がホタルイカの様に集まり出す。午前二時を過ぎれば、深海である事が嘘の様に、辺り一帯はシンジュクの街角と同程度の賑わいを呈す。
表の電脳空間から、薄皮一枚潜るしただけで現れる、犯罪者達の巣窟、ここトレンチが、ヒナの仕事場だった。健全な表側を逃れた日陰者達が、深海の奥底からワイヤーを伸ばし、バレないよう裏側から場に繋げる。そうして有料のサービスにタダ乗りしたり、金庫の金を流失させたり、みみっちい事をしている。或いは、トレンチ内で絶縁ドラッグをやり取りしたり、非合法なDNA(かつての殺人鬼や独裁者なんかの)売買をしたり、殺人の請け負いをしたりと、大それた事をやっている者もいる。が、ヒナの管轄は、前者、表に干渉してくるみみっちい連中だった。
最新型のマトリックス・マスクの位置を整え、ヒナは指先を動かした。今回の仕事は、アイドル「シノノメ・愛理」のオールナイトライブを不正視聴している連中を特定し、接続を切断する事。
愛理の歌とダンスはヒナも好きだ。今回もチケットを買おうとして、抽選で外れた。だからこそ、今回の仕事はそこそこやる気だった。タダでアイドルのコンサート会場に紛れ込む奴がいて、そいつが自分の隣にいたら、遠慮なく殴り殺してやるつもりだからだ。
慎重にダイブし、浅瀬から表を見上げる。と、まるで海面近くから空の雲を見上げた魚の様に、幾多のサイトが境界越しにヒナの目に映った。その中で、一際キラキラと極彩色に輝く愛理のサイトを選んで触り、仮想ライブ会場を担うページのバックヤードへと自分の視界をいざなう。チケットコードに守られた正面玄関には穴がなかった。ならば、裏側にトレンチから侵入しているワイヤーがある筈。
案の定、深海深くからサイトの背面へと、数百本の青い線が伸びて、図々しくも穴を空けている。今頃、一般客のフリをしながら、愛理の歌にコールでもしているのだろう。
反吐が出る。
ヒナは両手を握って、不正アクセスするワイヤーを全て引っ張った。みみっちいとはいえ、犯罪者達だってバカじゃない。サイトと繋がったワイヤーの先端を切断した程度では、こいつらはまた新しい線を伸ばしてくるだけ。イタチごっこだ。駆逐するなら、根本から切断しなければいけない。だからこそ、ヒナはその根元を手繰り寄せている。
しかし、トレンチ深くに沈む根本を引っ張り上げるだけでも、簡単ではない。余程の間抜けでもなければ、連中は大概、無限延線で対策している。ワイヤーを普通に辿っていったら、終点に着くのに天文学的な年数が掛かる。無限に広がるトレンチの特性を利用した厄介な対策だ。が、ヒナには関係ない。十五分あれば充分解決する。
コツがあるのだ。無限延線のほとんどが無意味なフェイクだと知っていれば、後は仮想化を処理している本物のワイヤー部分のみを手繰ればいい。全身のバーチャル処理には、それなりの容量を必要とするから、発見は比較的容易だ。
指先を繊細に動かし、データの重みを確認していく。手慣れた作業は順調に進み、五分後には百本、十分後には全てのワイヤーの根本が特定出来た。
「よいしょっ」
掛け声と共に数百本のワイヤーを引き上げれば、フェイクは霧散し、ワイヤーは呆気なく全容を露にした……根本に個人認証をぶら下げた状態で。こうなってしまえば、相手は丸裸も同然。
アテストの番号を本部に送信する。これで、この数百人は、チケット代の十倍近い罰金を支払うハメとなった。それから根本のワイヤーを、スプラウトを収穫する様に、ブチブチと、いっきに切断する。これで、愛理のライブ会場から、無銭観客は一人もいなくなった。
取り掛かってから丁度十五分。これで今夜の仕事は終わりだ。
一息吐いて、椅子に寄り掛かる。現実界のテディベアを抱えながら、ヒナは切断したアテストを指先一つで視界外へ追いやった。トレンチに仮想体を投影し、そびえる絶壁を前に、フワフワと、浮き沈みさせつつ、今夜はダイブを止めてもう寝ようか、思案する。しかし眠くない。抽選に当たっていたら、今夜は愛理のオールナイトライブに参加する予定だったからか、未だ全然眠気がこない。
暇潰しに、ヒナは行き着けのサイトを覗こうと思い付いた。ショートカットから「ジョゼフ・シェリダンの怪奇新聞」を選び、アクセスする。
と、トレンチの絶壁を間借りしたサイトにありがちな、異様に凝った玄関口がヒナの目に映る。暗い森の中、ガーゴイル石像を両脇に据えた、二階建てゴシック建築。掲げた看板には、仰々しく"Sheridan Newspaper Company"と刻まれている。いつ見ても、ちっとも新聞社らしくない。ヒナは玄関戸を開けて中に入った。
擬似建物の中も、外観と同じく、古い、カビ臭い石造りで、パリ区なんかに僅かに残っている歴史的市役所の待合室を思わせる。誰もいない待合室の片隅には、所々破けた赤い革張りのソファがある。ヒナはそこに座って、傍にある丸テーブルから新聞紙を取った。
リアルでは紙の新聞など見た事もないが、ダイブ中に敢えて旧式な振る舞いを演じる事が、ヒナは好きだった。その振る舞いをよりらしく見せる舞台として、古めかしくデザインされたここは最適だったし、それに、赤リボンの黒セーラー服に沢山のシルバーアクセを付けた自分のアバターも、この場所には似合っていた。
ヒナが新聞を手に取ると、細い指に嵌めた大きな指輪同士がカチカチとぶつかり、腕に巻いた腕輪がジャラジャラと鳴った。リアルだったらわずらわしいだろうが、バーチャルならシルバーの重みも感じない。
ランプの灯りにアクセサリーを煌めかせつつ、新聞紙面に載ったバーコードを視界に入れる。と、今日更新された記事が脳の神経回路に伝達された。
記事の内容はいつも通り、眉唾物の都市伝説ばかりが並んでいる。普通なら一顧だにしないような、小学生の学校新聞によくある七不思議ほどの記事だが、ヒナはそういうトコロを気に入っていた。危険なトレンチ内にわざわざサイトを作っておきながら、子供騙しの情報を取り扱う、そんなナンセンスにワクワクした。
それに、十六歳のヒナには、少しだけ、期待するものがあった。夢見勝ちな性格が主な原因ではあろうけれど、技術が進んだ現代においては、科学自身が、「魔物、妖怪の類いも、存在しない事はない」と証明しているのだ。
勿論、魔物が巷を闊歩している姿なんてヒナは一度も見た事がないし、聞いた事もない。が、それでも、いるはいるのだ。世間では信じていない向きもあるけれど、ヒナは絶対にいると確信していた。魔物や妖怪は、政府の隔離施設に収用されていて、不自由な暮らしを強いられ、時々は非人道的な実験の被検体になっているに違いない。
逞しい空想を働かせながら、ヒナは脳内に転写された「ジョゼフ・シェリダンの怪奇新聞」の見出しを黙読していった。
「恐怖!視線を外すと絞殺する彫像」
「今明かされるサメジマ事件の真相とは」
「怪奇、透明少女」
「精神を破滅させるプログラム蔓延」
伝達回路を通るこれら記事の中身を、ヒナは順番に読んでいった。一つ目は、不気味な写真を基に都市伝説を創作し、それらをファイリングしたサイトを無断で引用したもの。「財団」と呼ばれる古代から人気のサイトで、ヒナも度々訪ねているから、目新しさもない。記事が海馬に届く前に消去する。二つ目は、トレンチに端を発したとある殺人事件の詳細だったが、記事のあちこちに矛盾が見られ、そもそも、先週紹介された「サメジマ事件」は宝石強盗だった事を思い出す。つまり冗談記事か。ヒナは消去すると共に、「サメジマ」という語を無視に設定した。
三つ目は、少なからず、ヒナの興味を惹いた。記事は、ここ数日、共有社会サイト「シノニック」を騒がせているある噂について解説していた。
近頃、シノニックに不審な投稿が相次いでいるという。投稿者はまちまちだが、全員がシンジュク区で撮影した写真或いは動画を、シノニック内の自室に貼り付けている点は共通している。問題はその写真或いは動画だ。本来写っている筈の人物が、写っていない、というのだ。
ヒナは段々と記事の内容に没入していった……写っている筈の人物、というのは、金髪の美女だ。投稿者達は口を揃えて「凄い金髪美少女を見た!」とコメントしている。シンジュクの街中で驚くほどの美女と遭遇し、思わずカメラを向け、シャッターを切ったり、録画して、家に帰ってからじっくり観賞しようと楽しみにしていたが、さて、実際帰宅し撮影したものを確かめると、お目当ての美女だけが、画面からスッカリ消えている。
こんな話が一件や二件なら、白昼夢か、絶縁ドラッグのジャンキーが見る幻覚だと、誰も相手にしないだろう。しかし、似た様な報告が直近一週間で二百件近い。最近ではシノニックの話題にも上がり、俄に噂が広まったらしい。
「知らなかった……」
ヒナが呟く。こんな事なら、シノニックに登録しておけばよかった。後悔しつつ、記事に添付された写真を見てみる。
背景はシンジュク区七番街らしい。曇天の下、冷たく薄汚れたビルが雑多に建ち並ぶ隙間にある、薄暗い路地を写している。人影はまばらで、休憩中のコックが偽煙草をふかしている他は、抱き合うカップルが小さく写っているだけ。金髪の美少女など、どこにもいない。しかし、コックもカップルも、当然曇天もぼやけて、カメラは、写真中央、何もない虚空の道路にしっかりピントを合わせていた。
この不思議な噂を、一層奇妙にしているのは、シノニックの態度だと、記事は言っている。姿の見えない美女を撮った写真や動画は、シノニックの自動判定によって何故か「不適切」と判断され、即座に削除されてしまう。故に、透明美女を撮った画像自体を閲覧出来た者が少なく、この噂は噂の域を出ない、と……。
バサバサと、勢いよく新聞を畳み、ヒナは猛然と立ち上がった。こんな所にいる場合じゃない。どうしても欲しかったものが、すぐ近くにいるかも知れないんだ。急いで「シェリダンの怪奇新聞」から離れ、トレンチの絶壁前に戻る。表を見上げれば、探すまでもなくシノニックのサイトは見付かる。一番大きく目立つそれは、不定形で、まるで巨大アメーバの様に、他の小さなサイトが接近すると、触手を伸ばし、瞬く間に吸収してしまう。そうやって、際限なく増殖し続けているのだ。普段なら近付きもしないが、今はあれに用がある。削除された写真と動画の残滓を早く回収しなければ。
先程刈り取ったアテストの一つ……愛理のライブにタダで参加していた奴から適当に一人選び、アテスト番号を抽出する。大手SSSに無策で不正アクセスするのは、流石に危険だ。犯罪者を身代わりに立て、自作プログラム「タイムズ」を間に挟み、ワイヤーをシノニックへ伸ばす。
巨体は神経を鈍らせる。シノニックはこれまでに幾度となくトレンチから不正アクセスの被害を受け、その度に警備システムの不備を批判されてきた。結果、シノニックはトレンチから距離を取る事にした。サイトの大きさが異常なせいで遠近感が狂うけれど、シノニックはサイバー・スペース内でかなりの高度を保っている。深海魚が空を飛べないように、トレンチから伸びたワイヤーは大概あそこに到達しない。到達しても、ワイヤーの大部分を晒すハメになる。舌がしまえなくなったカエルは哀れだ。
なので、ヒナは正直に行く事にした。犯罪者のアテストを海面から引き上げ、表に出し、一人の新規顧客として、シノニックに登録してやろうと考えた。
正規のやり方ならば、シノニックも歓迎してくれる。登録申請の信号を発すると、シノニックはゆっくり天から下りてくる。透明な触手は、偽のアテストを包み込むと、すぐマイルームを中に作成してくれた。
マスク越しに見る景色が一変する。清潔なワンルーム。白い壁に白い椅子と白い机、フローリングの床、白いカーテンの向こうのベランダからは、青い空と青い海が臨める。ヒナが最も嫌いなタイプのサイトデザインだ。昔、ヒナをイジメた同級生が、こんな部屋に住んでいた。
少しムッとしながら、ヒナは作業に取り掛かった。持ち込んだ「タイムズ」に命令を打ち込む。指示は次の通り。
期間:一週間前まで
範囲:日本新領地内
対象:不適切判定で削除済み画像or動画 all
条件:金髪 美少女
行為:復元コピーafter元データ削除
除外:加工andアダルト
これだけを指示して走らせる。と、「タイムズ」はヒナの手中に懐中時計の形をとって収まった。針は十一時五十五分を指している。即ち、コマンド終了までに五分掛かるという訳だ。
自作ながら、いや、自作だからこそ、ヒナは「タイムズ」に絶対の信頼を寄せていた。「タイムズ」は過去視を可能とするプログラムだ。表裏問わず、電脳内で削除されたものは、たとえ二進数的に完璧に消去されていたとしても、削除前の外観に復元してくれる。ただし、復元出来るのは見た目だけ、中身は含まれない。削除されたプログラムや仮想体がどんなものだったかは復元出来るが、実際にそれらを動かす事は出来なかった。
今回の対象が写真と動画なのは有り難い。どちらも見た目を復活させられれば充分だ。
たった五分を待つ間も、ソワソワと落ち着かず、テディベアを強く抱き締めた。不安がひたすら募る。この噂が嘘か真か、未だ半信半疑だ。何せ情報源は「シェリダンの怪奇新聞」、ガセネタでも平気で載せるサイトだと、ヒナ自身が一番よく知っている。「タイムズ」が終わるまで、不安は一分毎に大きくなっていった。
もし……不安を紛らわすべく、ヒナは希望的観測を妄想した……もし本当に彼女が実在したら、そして、もし仕事仲間になれたなら、私はやっとここから抜け出せる。過保護な兄を説得出来るだろうし、外へ出て殺される心配だってグッと減る。
もしじゃない。彼女は絶対にいるんだ。
だって、彼女の所為で、私は殺されかけたんだもの。
百倍に膨れた様な五分間が、セシウム共鳴周波数を基準とした正確な五分として経ち、手中の「タイムズ」が震え、二百十四枚の画像と動画の群れがマスク上に表示される。ヒナは早速仕分けに掛かった。手始めに関係ない画像を消す。二百十四枚の内、十枚は、画面上にしっかり金髪美少女が映っている。「不適切」と見なされたのは、彼女達の下着が、わざとかどうか、画面に入っていたからだろう。この程度ならシノニックもアダルト判定しない。なのに不適切判定はするらしい。よく判らない線引きだ。シノニックは自己の判定基準を公表していない。興味はあるし、探ってもいいが、今の本題とは関係ない。
十枚を省き、残った二百四枚の解析に入る。写真や動画の位置情報を地図上に反映させる。二百枚以上の画像が、日本新領地の東京市西側、シンジュク区に集中する。ヒナは鼓動が早まるのを抑えられず、息が苦しくなった。彼女は近くにいる。私の近くに。
地図をシンジュク区中心に拡大、鮮明化、彼女の足跡を辿る。添付されたコメントや、動画内の音声では、必ず金髪美少女に言及しているが、噂の美少女は画面内に決して登場しない。これは当たりかも知れない、と、ヒナは直感した。二百という数字は、偶然生まれやしないからだ。
撮影場所と時期を照らし合わせると、彼女はまずシンジュク区四番街に現れ、次の日に一番街へ赴き、それから六番街を歩き回り、二、三日前からは七番街に入り浸っている。
ここから判る事は?何か共通点は?何かある筈。考えろ……リアルで腕を組む。テディベアの首が締まるのも構わず、ヒナは熟考し、ある閃きを即座に実行した。
シノニックのマイルーム、無機物みたいに清潔な真っ白い部屋に置かれた、白い机を操作する。検索ボックスを呼び出し、シンジュク区一番街、四番街、六番街、七番街、これらのワードを突っ込んで検索する。ここの住人なら、問わず語りに何もかも話してくれる。シノニックは生活を共有する場だ。登録者達は、私生活をショーウィンドウに飾り立て、通行人にウィンドウショッピングして貰う事を、至上の喜びとしている。日記、写真、動画、音楽、絵画、短い文学に至るまで、加工したあらゆる日常がここでは公開されている。ヒナが検索を掛けると、忽ち五万件近いヒットがあった。膨大な文章や画像から、繰り返される定型を探る。何かある筈なんだ。でなければ、彼女がこの街を選ぶ筈がない。
指先を動かし、頻出する単語や、画像上のマークを抜き出し、頻度順に並べ直す。結果は面白いものになった。単語は「お見舞い」、「入院」が圧倒的に上位を圧占め、マークは緑色の十字が最も多かった。
「そっか!」
ヒナはもう一度指先を動かし、シンジュク区の地図に戻った。一番街、四番街、六番街、七番街には、共通して大病院が建っている。そして、彼女が撮られた場所も、病院の近所ばかりだった。
しかし、何故、大病院の周りをうろついている?彼女が怪我をしているというコメントは全くなかったけれど……。
束の間、指が止まる。誰かのお見舞い?先程検索した日記や短文を洗ってみる。しかし、金髪美少女がお見舞いへ行ったという話題は、一つも見付からない。そもそも、彼女は病院外での目撃談しかなく、一度も病院内には現れていないのだ。
病院が目的地じゃないのかな……。
諦めるには早いと、ヒナは結論付けた。もう少し、シンジュク区の病院を調べてみよう、きっとその価値はある、と。
今度は「金髪」という条件を付けず、病院自体に注目してみる。彼女が近所を散歩していた四つの病院で、ここ一週間、何か出来事はないか。探し出して、五分と経たぬ内に、呆気なく目星いニュースが発見され、と同時に、金髪の目論見も察せられた。
恐らく、該当の病院に勤務する医者が書き込んだらしい愚痴が、端的にその小事件を説明していた。曰く、輸血パックを保存した冷蔵室に何者かが侵入したというのだ。室内の人感センサーに反応があり、警報が鳴って、保安係が向かうも、冷蔵室はもぬけの殻。監視カメラにも人の姿は映っておらず、結局はセンサーの一時的故障という、お粗末な報告で片付けられていた。
他にも同様の投稿が散見する。シンジュク区の各病院が、同じ憂き目に遭ったとみえる。四つ全ての病院のセンサーが、同時期に故障する可能性は、極めて低い。彼女が冷蔵室に忍び込んだと考えるべきだ。
その侵入方法がまた奇妙だった。病院は、取り分け倉庫内の清潔を保つ為、セキュリティにかなり気を配っており、冷蔵室の扉にも三重の氷鍵を用意していた。にも関わらず、彼女は文字通り、扉をすり抜けてみせたのだ。氷鍵のメモリは正常、解かれた形跡は皆無ときている。錠はズットおりていた。超凄腕の鍵屋なら、痕跡を残さず、氷鍵を三つ同時に解けるかも知れない。監視カメラを欺く術だって、持ち合わせていてもおかしくない。が、彼女は鍵屋ですらないだろう。と言うのも、彼女は冷蔵室に入るや否や、センサーに引っ掛かり、警報を鳴らされ、お目当てのパックを手に入れる前に、敢えなく逃亡しているからだ。氷鍵を解ける者がそんな初歩ミスをするなんて考えられない。一流の鍵屋なら、人感センサーなど夢の中でも解除出来る。
つまり、彼女は電子的にではなく、物理的に扉を突破してみせた事になる。勿論、扉は無傷、こじ開けられた様子はない。まるで密室トリックみたいだが、彼女が輸血パックのみを保管した冷蔵室にこそ侵入した、というのなら、不思議は一つもない。彼女にそういった力があるとしても、ヒナは驚かなかった。寧ろ、夢が現実になったと、無性に喜んでいた。
さて、以上の調査から、魔物たる金髪美少女の存在は、ヒナの心の中で確証となり、彼女を仲間にする事は、ヒナの最優先目標になった。彼女が隣にいてくれさえしたら、街をふらりと歩いても、道路を曲がった所で不意に射殺される心配をせずに済む。
問題は、どうやって彼女とお近付きになるか、だ。
これが一番厄介だった。ヒナは人見知りだ。この二年間、リアルでは部屋から出たこともない。会話らしい会話といえば、時折顔を見に来る兄に「うん」とか「よろしく」とか言った程度、発声練習にも満たない。中学時代、同級生、特に同性から散々イジメられてきた過去もあり、女子と話すと考えるだけで足がすくむ。
その上、今回は特殊中の特殊で、ヒナの見立てによれば、相手は人類ですらない。会話が成り立つかどうかも怪しいのに、仕事仲間にどうして勧誘出来る?いや、課題はそれ以前だ。そもそも、今、どこで何をしているかも判らない魔物に、どうやって言葉を届ける?
はたと、ヒナは困ってしまった。トレンチにいる小悪党の個人認証を暴くなら、いとも簡単、ワイヤーを伸ばし、フェイクを噛ませ、釣り上げるだけで終わる。しかしリアルの対人関係には、数学的な法則も、二進数の庇護もない。心なんて抽象物は曖昧として、二人の個人が繋がるだけで感情には無限通りの組み合わせがある。しかも、現在の心の状態は、一日も維持出来ない。感情はまるで支配が利かず、その所為で、過去何度痛い目をみたか。
躊躇いは不安を後押しし、不安は次の一歩を押し留める。ヒナは相手と接触する方法を既に思い付いていたが、実行するか相当に悩んだ。実行するにしても、今日じゃなくていいんじゃないか、とも考えた。今日は仕事もしたし、沢山調べ物もした。彼女の存在を確定出来ただけで、戦果は上々、私は充分偉いじゃないか。夜も遅いし、今日はここらで寝て、続きは明日やればいい……。
ヒナは指先を動かした。細い指は細かく震えている。誰かとリアルでコンタクトするのが怖かった。人見知りが初対面の相手と仲良くなるなんて、うまくいかない公算の方が遥かに大きい。それでも、ヒナは思い付きを実行に移した。
七番街には、もう一つ、大病院が建っている。ニュー花園病院という、政治家が仮病でよく駆け込む、高級病院だ。数日前から、彼女はこの病院の周りをうろついている。十中八九、次の侵入先はここだ。幸運にも、ニュー花園病院の冷蔵室で警報が鳴ったという投稿は、シノニック上にはない。彼女が手を出す前に、ヒナが先手を打てる。
ヒナはシノニックのマイルームから離れ、サイバー・スペースを急降下し、再びトレンチにダイブした。夜明け近いトレンチは、住民が眠り始めるからか、青白い光も弱まり、夜半の輝きは失われつつある。静まったデータ達の間をくぐり、ヒナはワイヤーをニュー花園病院の裏側へと伸ばした。
大した事をする訳ではない。セキュリティシステムをいじるなら、それこそ鍵屋としての素質を求められるが、氷鍵にも監視カメラにも、人感センサーにすら、手出しはしない。それらを無視して、ヒナのワイヤーは警報の音声データを目指した。病院のセキュリティに裏側から入り込み、A.I.管理者に悟られないよう、こっそり、音声データに登録されたつまらないアラームを消去し、代わりに、ヒナは自分の声を吹き込んだ。
「こんばんは、吸血鬼さん。こんにちは、かな。どっちかわかんないけど、輸血パックは味気ないでしょう。手に入れられてないみたいだし、お腹も減ってきた頃じゃないかな?私なら相談に乗れるよ。興味があったら、シンジュク区五番街三十の四にあるデッカードビルC部屋に来てね。待ってます」
録音し終えて、自分の声が震えていた事に気付く。録り直すのも恥ずかしいので、声の抑揚や高低を調整し、誘拐犯が使う様な、懐かしき機械音声に加工した。
……ふぅ……。
充足感と共に背もたれに倒れ込み、椅子の軋む音を聞きながら感慨に耽る。全部やった。ちゃんと全部。閃いたものは全部やった。後は待つしかない。ダメで元々、期待なんかしてない。他の、無関係な人が、彼女より先に警報を鳴らしたら、それで終わり……え?大丈夫かな。急に不安になってきた。ここの住所を素直にその儘伝えたのはマズかったかも。他の人に聞かれたら、通報されて、お兄ちゃんに怒られるかも……。
ダメダメ。こんな夜更けに悪く考え出したら底なしだ。そろそろ愛理のオールナイトライブも終盤、私も寝よう。疲労感が身体を包む。ベッドが恋しくなってきた頃合い。果報は寝て待てとも言うし、トロトロと眠ってしまうのが何よりの薬になる筈。
「今の時間なら、おはよう、が正解だろうな」
その時だった。唐突に、部屋の中で見知らぬ声がした。反射的にヒナの身体が強張る。それは少女の声だった。緊張過多で物の言えなくなったヒナをよそに、少女は語り続けた。
「招待したのはそちらなのに、そんなに驚くなんてね。変な声だったけど、私を呼び立てたんだ、もっと度胸のある奴だと思っていたが……まぁいいか。指摘は正しい。私は腹が減っている。人間から直接血を吸うと、騒ぎになって、また捕まりかねないから、大人しくパッケージされた物を狙ったら、このザマだ」
声はヒナの背後からして、どんどん近寄って来る。ヒナは震える身体を止められなかった。こんなに早く来るなんて。どうやって仲間にするか、全然考えていないのに。この儘じゃ殺される。
「怖い?だから私は平和にパッケージを飲もうとしたんだ。追い出したのは餌側だろう?それに、お前は相談に乗るとも言ったね。有り難い。ここにパッケージはない様だし、食料といえば、お前だけ。自己犠牲には最大限の敬意を払うよ。最後の一滴まで美味しく頂く事を誓おう」
声はもう椅子の真後ろから聞こえた。相手の気配が背中に伝わる距離。ヒナは神経が麻痺して指一本自由にならない。
声の主は、ヒナの緊張も意に介さず、椅子を半回転させ、マトリックス・マスクに手を掛けた。
「近頃の人類は、皆、タコみたいな被り物をしている。似合っているとも思えないけど、流行ってるの?悪いけど、取らせて貰うよ。敬虔な食料の顔は見ておきたい……お前、小さいな。成長不良?血も少なそうで……いいや、文句はやめましょう。食事にありつけるだけ、感謝すべき……か……」
マスクを脱いだヒナの顔は、長い前髪に隠されていた。ヒナはこの二年間、髪を全く切っておらず、伸び放題になっていた。黒い髪は部屋に散らばるコード類と見分けが付かない。ヒナの部屋は、継ぎ接ぎ建設のサーバールームと言っていい内装で、次々買い足した黒箱が複合ビル群よろしく並び、箱を中心に数多のコードが伸び、連結、枝分かれを繰り返し、床の殆どを占拠しつつ這って、マトリックス・マスクに直結していた。リアルにありながら、部屋はトレンチの絶壁を行き交うワイヤーを彷彿とさせる惨状と化し、絡み合うコードの合間合間に、ヒナの趣味であるヌイグルミが散らかっている。
そんな、コードとヌイグルミばかりの部屋の中央で、二人は見つめ合った。理由は判らないが、美少女はヒナの眼前で動きを止めていた。滑らかな長い金髪、年齢はヒナと同じか少し上くらいに見える。彼女は薄暗い部屋に溶け込む黒いモッズコートを着込んだ、想像以上の美少女で、吸血鬼らしい西洋的な顔立ち且つ、吸血鬼らしい深紅の瞳を備えていた。
そんな彼女が、ヒナの顔をじっと見つめ続け、首元に牙を立てるでもなく、薄く開いた口で、こう呟いたのだ。
「グローチェ……」
「え?」
アイルランド語はヒナには理解出来ず、知らない外国語に何と応えたものか迷っている内に、変な間が生まれてしまい、更に次の言葉が憚られた。下手な返事をしたら殺されると信じ込んでいたからだ。
長い長い沈黙は、ついに夜明けまで及んだ。そして、これが、烏羽ヒナと、吸血鬼ミラ・ヴォルデンベルグの、出会いとなった。