とある路地で
この世界には闇の部分があると誰かが言ったのを少女は思い出していた。
暗い路地で、少女のこめかみに伝った汗が冷気に当てられ、固体になって白い肌に張り付いた。
全くこの状況をどうすればいいのかと重く白い息を吐きながら少女は思った。
頭を抱えたくなるくらいまで外気は冷えている。冷えた外気と体温の温度差で、皮膚に水滴が浮かぶほどに。
いや、正確には少女自身が人間が活動できる限界の気温まで冷やした。
「―――やれやれ、そろそろいいでしょう」
少女は誰にともなく呟く。
途端に彼女の手には透明の剣が握られていた。
まるで最初からただそこにあったかのような唐突な出現だった。
刃渡り数十㎝の氷の凶器をまるで温度を感じないかのように少女は素手で握り、辺りを見渡した。とある角度で目標を確認して、視線が止まった。
少女の目に映るのは、黒い影と表現して差支えのない無個性な存在だった。
氷の剣を握ったまま、少女は眼鏡の奥の切れ長の瞳を更に尖らせた。殺意を込めて目の前に現れた黒い影を睨む。
「さて、一応確認しておきますが、私が誰であるか、知っての狼藉ですか?」
少女は水素を何の器具もなしに操作できる能力を持っていた。とある機関に所属し、普段は一般の高校に通っていた。
黒い影は答えない。
「返事がない上にそのような不審な動き。ここで手打ちにされても文句はありませんね?」
変わらず返事はない。少女は自分の細い髪を左手で撫でる様にかき上げ、返事がないという態度に神経を逆立てた。
「……もう結構です。私も気が長い方ではありませんし」
誰にともなく口を動かし、少女は氷の剣を片手で振り上げた。
「さようなら。せめて痛みが無きように」
黒い影と少女との間のアスファルトがぴしっと音を立て、瞬間的に凍り付いた。
全てが凍てつく前に、少女が革靴を履いた足を一歩進めた。黒い影と少女の距離が互いが吸い寄せられるかのように縮まった。
その遠心力を利用して少女は振り上げた剣を黒い影に振り下ろした。
ガラスが割れるよりも軽い破砕音が少女の耳に届いた。
「え?」
少女は意識せずに口を開けてしまう。眼前には吹雪の様に氷の粒子が舞い散っていた。
何の抵抗もなく、少女が手にしていた氷の剣が無残に砕け散っていた。
相応の重量が突然消え失せたことで、少女の手が振り下ろされたままの形でしばらく弛緩した。
何をされたのか全く分からなかった。少女の経験上自身の作り出した剣がこんな壊され方をしたのは生まれて初めてだった。いや、同僚になら同じことができる人物はいると思い至って、混乱した頭が外気によって冷やされるのが分かった。
「いや、しかし、そんな……」
思わず否定の言葉が口から零れた。
そんなこと有り得ない、と続けようとしたところで、左手の手首に衝撃が走った。
遅れて聞いたことのない甲高い音が少女の耳に響いた。
少女は初めて受けるその衝撃を痛覚と理解できなかった。左手の二の腕から先が飛び散り、赤い液体が氷の上に撒き散らされても、自身の身体が損傷を受けたという認識に至らなかった。どういう原理で今この事象が引き起こされているのか少女には納得も理解も全くできなかった。
少女がどう思おうと、栓を失った腕からは心臓の鼓動に合わせて赤い液体を流し続けていた。
凍った地面に体内を巡っていた液体が落ちて、氷を溶かしていた。
しばらく放心してその情景を他人事のように少女は眺めていた。
白と透明の大地に赤い海が出来ていく様を少女は不意に綺麗だなと感じた。
続いて、右足の脛に同じように衝撃が走った。
ストッキングを穿いた足が自重に耐えきれなくなり、粉砕骨折した脛の骨をへし折って少女は氷の大地に受け身も取れずに顔から倒れた。
眼鏡のフレームがその衝撃に耐えきれずに折れ曲がったので、少女は右手の指で眼鏡を払った。
そこまでして、ようやく少女の頭が現在の状況がかつてない危機であることを認めた。
「……な、何が」
何が起こっているのだとぐちゃぐちゃになった頭が答えを見つけようと脳内の情報を整理した。
頬を冷やしている地面の氷が解け始めていた。
そのことに気が付き、少女の頭は再び混乱した。
何故そんなことが起こっているのか理解できなかった。氷が自分のいるところで溶けるという少女の中で有り得ない事態にすっと心に何か得体の知れない冷たいものが差し込まれた。
それが恐怖であるということを少女は知らなかった。
それでもその正体不明の感情に少女はかちかちと歯を鳴らしながら身を震わせた。
乾いた音が頭上で、した。
背中に衝撃が走り、体内を巡る液体が更に流れ出した。
所謂致命傷を受けたにも関わらず、少女は自分がここで機能を停止するという認識に未だに辿り着けないでいた。
ただ身体が動かないということだけが本能的に分かり、悲しかった。
冷やされた空気がどんどん温まっていくのが分かり、ああ、本当に終わりなんだなと少女は現状を冷静に分析した。
脳裏に自分の友人たちの姿が映り、少女は様々な思いを馳せながら瞼を下ろした。
最後に頭上で乾いた音がして、少女の意識は完全に途絶えた。