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船御子物語  作者: 瑞穂国
プロローグ:船巫女 1905~1940
3/6

別れと出会い

横須賀には、一隻の殊勲艦が保存されている。決して大きくはない。沖に泊まっている帝国海軍の主力たちに比べれば、その半分もないくらいの大きさだ。それでも、一人の歴史の語り部として、またそれ以外の意味においても、重要な(ふね)であった。


記念艦“三笠”。かつて連合艦隊旗艦を務め、日本海海戦を大勝利へと導いた殊勲の戦艦は、ワシントン海軍軍縮条約による廃艦の危機を免れ、こうして今も、横須賀にその雄姿を見せていた。


そんな“三笠”の艦上は、多くの人たちで賑わっていた。特に、軍艦好きの少年たちが、好奇心の塊となって各所に突撃、日本最武勲艦と言っても過言ではない“三笠”に、目を輝かせていた。


―――それにしても、今日は多いわね。


艦内の案内を一段落させた三笠は、艦上に溢れる人たちを眺めて、心の中で漏らした。それもそのはず、七月二十日という記念すべき日である今日は、横須賀鎮守府で海軍所属艦艇の一般公開が行われている。帝国海軍の象徴である彼女らを一目見ようと集まった人たちが、同じく横須賀に鎮座している“三笠”にも訪れているのだった。


これから毎年繰り返されることになるかもしれない夏の光景に、満足げな疲労を混じらせて息を吐く。何だかんだで、こうして多くの人が訪れてくれることは、この上ない喜びだ。


「ここにおったか」


そんな三笠に、後ろから声をかける人がいた。随分としわがれてしまっていても、三笠には一発でわかる。思わず飛んで抱き着きたくなる衝動を、辛うじて抑え込むのが大変だった。


「長官!」


「もう、長官でんなんでんなか。ただの老いぼれぞ」


声の主、東郷が苦笑する。地味な和服でも、瞳の奥の色が普通の人とは違う。衰えたりとはいえ相変わらずの存在感を放つ東郷に、三笠は頬を緩めた。


「体の方は大丈夫なの?」


「こん通いじゃ。若いモンにな、まだ負けん」


「もう、あんまり心配かけちゃ駄目だよ?」


三笠の言葉を、東郷は笑って受け流す。変わらない彼の様子に、三笠も諦めに近い溜め息を吐くしかなかった。


「人が多いのう」


「そりゃあ、もちろん。何て言っても、海の日だから」


新たに制定された国民の休日を、三笠は口にする。


明治九年(一八七六年)七月二十日は、北海道、東北巡幸を終えた明治天皇が、御召艦おめしかん明治めいじ丸”で無事に横浜へと帰港された日だ。このことを記念して、同日を海の日―――正確には、海と船、そして船巫女の記念日として定めることが、つい二か月前に決定されたのだ。そこから正式な公布までが素早く、今年中に海の日は本格的に施行されることとなった。カレンダーを作る業者は大忙しだったというが。


大忙しと言えば、海軍もそうだ。海と船にまつわる国民の休日ということで、何もやらないわけにはいかず、広報部は徹夜に次ぐ徹夜で今日の艦艇一般公開に漕ぎつけたのだとか。


「いいことじゃない?賑やかなのは」


「それなら、よか」


子どもたちを眺めて、東郷も笑った。


“三笠”の前部艦橋、露天になっているそこに立った少年が、真面目な顔で右手を振り上げ、左へ降ろす。隣の友人が、それに応えて、伝声管に何やら吹き込んでいた。「取舵一杯」とでも言っているのだろうか。


「・・・それで、今日はどうしたの?」


甲板を艦首に向けて歩きながら、三笠は東郷に尋ねる。老いたりとはいえ元帥。影響力の大きい彼が、わざわざ足を運んできたということは、それ相応の用事があると睨んでいた。


が、そんな三笠の考えとは裏腹に、東郷はただ穏やかな表情で、艦首からその先を見つめていた。


「よか風だ」


歪曲していた背筋が、日本海海戦の時と同じように、しゃんと伸びていた。司令長官だったあの頃が、体に染み付いているのだろうか。


「おいを神にしよなどとゆとうモンがいうが、墓ぐらいは静かなとこいがよか。そん点、こん場所はもってこいぞ」


「・・・どうしたの、急に」


今まで見たことのない雰囲気に、三笠は戸惑いを隠せなかった。


東郷がこちらを振り向く。


「ただの独い言じゃ」


笑ったその表情で、三笠は全てを察した。


東郷は、三笠にお別れをしにきたのだ。これが、今生で会う最後の機会になるだろうからと。


―――そっか・・・そうだよね。


人類最初の船巫女として、三笠はここで全てを見届け続ける決心をした。人間として生きる道は選ばなかった。だから、いずれ訪れる老いと死に対して、あまり実感がなかった。


今。目の前で死を迎えようとしている、一人の人間。その瞬間というのは、これほど穏やかに迎えられるものなのだろうか。


「海の見えるお墓なんて、素敵ね。でも、お手入れが大変そう」


「言われてみれば、そん通いだ」


「・・・じゃあ、その時は私が、毎日お墓を綺麗にしてあげる。それならいいでしょう?」


三笠が笑う。ジッとこちらを見ていた東郷も、やがてその表情を綻ばせた。


三笠と東郷。一つの時代を作った船巫女と提督。これが、今生の別れとなった。




秋を深めつつある横須賀に、シトシトと優しげな雨が降っていた。最近はやりの洋服を真似てみた三笠は、傘を差して“三笠”を降りる。


東郷の墓が、ひっそりと佇んでいる。公式なものではない。生前の彼の意向を知っていた、三笠含めた数名の関係者によって、遺骨を分けてもらい、建立したものだ。


公式なものではないが、献花をしに来る人は、海軍関係者を中心にして多い。そうした人のための献花台も含めて、東郷の墓を綺麗にするのが、毎朝の日課になっていた。


バケツに汲んできた水で、周りを拭き、献花台を整える。花瓶の水も取り換えなくては。


丁寧に墓を洗いながら、三笠はその下に眠る東郷に語りかける。


「どう?気持ちいい?」


返事はない。そんなことは、わかりきっていた。


船巫女は、もとはといえば、船の魂だ。それなのに。同じ魂同士のはずなのに、ここにいる三笠と、墓に眠る東郷の距離は、海を隔てるよりも遥かに遠い。


一通り掃除を終えた三笠は、バケツを持って立ち上がる。その時、後ろに立つ人の気配に気づいた。


一人の少女が立っている。女学生が着るような、袴にブーツの着物。差している傘の下に、端正な顔がのぞいていた。左手に、ささやかな花束を提げている。


「貴女は・・・」


一目見て、三笠にはわかった。彼女はただの少女ではない。


三笠の言葉に、少女はハッとして背筋を伸ばし、どこか緊張した面持ちで答えた。


「駿河・・・“駿河”型一番艦、駿河と申します」


―――駿河・・・。


確か、ついこの間進水したばかりの、新造戦艦だったはずだ。今は、横須賀工廠で艤装作業に入っている。


「駿河さん、ね。私は三笠。・・・もしかして、東郷元帥のお墓参りに来てくれたの?」


三笠の問いかけに、駿河がこくりと頷いた。その様子に、三笠は頬を緩める。


「そう。・・・もしよかったら、少し、お茶していかない?」


東郷の墓に手を合わせた駿河を、そのまま“三笠”に案内する。朝はまだ早く、一般開放はもう少し時間がある。それに、平日雨天の来艦者など、数えるほどだ。


“三笠”艦内の、一般公開されていない一部屋に、三笠の住空間は用意されている。簡素な部屋の真ん中、机に落ち着いた駿河は、物珍しそうに辺りを見回していた。


「こんな部屋が、あったんですね」


「特別に許可をもらってるの。船巫女としては、やっぱり自分の艦と一緒にいたいから」


そんな話をしながら、ガスコンロにかけているやかんの水が沸騰するのを待つ。しばらくして、沸いたお湯をカップに入れて適温にし、それからティーポットに移す。


淹れ終わった二人分の紅茶。ミルクや砂糖と一緒にお盆に乗せ、机へと向かう。


「お待たせ。ミルクとお砂糖は好みで入れてね」


「は、はあ」


差し出したティーカップを、駿河はおずおずといった感じで眺めていた。顔を上げた彼女は、困った様子で首を傾げる。


「すみません。紅茶、というものが初めてで・・・」


三笠は得心した。見た目がどれだけ大人っぽくても、彼女はまだ、この世に生まれ出でてたった数か月の身なのだ。経験の数という意味では、赤ん坊と何ら変わりない。見るもの、触れるもの、全てが彼女にとっての初めて。


思い出すのは、初めてこの世を見た時のこと。東郷と出会った日のこと。


戸惑う駿河に、三笠は微笑みかける。


「それじゃあ、まずはそのまま飲んでみて?」


「えっと・・・では、三笠さんの言う通りに」


おそるおそるカップを持った駿河は、ゆっくりと口づけ、柔らかな湯気を立てる液体をすする。目を見開いた彼女は、ほうっと暖かい息を吐いた。


「おいしいです。それに、すごくいい香り」


「そう?それはよかった」


早速二口目を飲んでいる駿河に目を細めて、三笠は自分のカップを傾ける。日本茶とはまた違う、どこか高貴さを感じさせる香りは、それゆえに落ち着いた雰囲気がある。朝の一息をつくには、丁度いい。


「あの、三笠さんは、どちらで紅茶の淹れ方を?」


すでに半分ほどを飲み干した駿河が、興味ありげに尋ねてくる。よくなついた犬のような表情に、三笠は頬を緩める。彼女が紅茶派になる日も近いと、確信した。


「私ね、こう見えても、生まれはイギリスなの。だから時々、紅茶やコーヒーが恋しくなっちゃってね。豆とか茶葉を手に入れたはいいんだけど、淹れ方なんて知らなくて。それで、色々な人に聞いて回ったの。お店はもちろん、他の艦の烹炊ほうすい員とか、留学経験のある士官とか。自分で工夫もしてみたりね」


今思い返してみると、あの頃はとにかく忙しくて、無意識のうちに何か息抜きになるものを求めていたのかもしれない。


「自慢じゃないけど。紅茶については、海軍で誰よりもおいしく淹れられるつもりよ」


胸を張った三笠に、駿河が薄く笑う。


「貴女はどう?何か、好きなものとか、ないの?」


「いえ、まだそういったものは。探してみてはいるのですが、なかなか見つからなくて」


「そう。いい心がけだと思うわ。戦艦なら、少なくとも二十年は船巫女として生きていかなければならないし。趣味の一つでもないと、つまらない時間になってしまうわ」


実際、大型艦の船巫女ほど、趣味持ちは多い。大型艦の方が精神年齢が高い傾向にある、というのも一因だろうが、暇を見つけては何かに打ち込む船巫女がほとんどだ。逆に、軽巡洋艦や駆逐艦の船巫女には、自由奔放に今を生きている者が多い。


船巫女の趣味は多岐にわたるが、料理や読書、武術といったものは、手軽にできることもあって、多くが嗜んでいた。


「・・・私は、将来、退役したら、人間になろうと思ってます」


カップの中身を見つめながら、駿河がポツリと呟く。初めて彼女から話し始めた話題に、三笠は耳を傾けた。


「色んな事を、体験してみたいんです。でも、そう思えば思うほど、何をしていいのか、何ができるのかがわからなくなってしまって」


―――きっとこの娘は、そうやって色んなところに、足を運んでいるのね。


ここまで深く、自分の将来について考えている船巫女を見たのは、三笠も初めてであった。


「わからないから、探しているのでしょう?誰でも、すぐに見つけることなんてできないわ。まして貴女は、生まれたばかりだもの。焦らず、ゆっくり考えなさい」


同じような道を歩いてきた者として、三笠に言えるのはそれくらいしかない。三笠の言葉に、駿河は神妙な面持ちで、頷いていた。


「そうだ。人間になるなら、名前が必要ね。私が考えてもいい?」


柏手を打って提案した三笠に、駿河の目が真ん丸に見開かれた。ぶんぶんと縦に首を振る様子が、まるでキツツキのようだ。


「ほ、本当ですか?ぜひ、お願いします。三笠さんが名付け親なんて、光栄です」


どこか忙しない駿河の様子に、三笠は眦を下げる。表情が豊かなのは、いいことだ。


頭の中で引っ張り出してきた辞書を開き、あれやこれやと考える。日本語において、名前というのはほぼ無限と言ってもいいほどの数が考えられる。その中から、ぴったりとくるものを見つけ、あるいは生み出すのは、以外と骨の折れる作業なのだ。


熟考の後、三笠は一つの名前を提案する。


悠希(ゆうき)、はどうかしら?」


「悠希?」


「たとえ船巫女でも、艦として生きることが、全てでは無いわ。貴女なら、艦の先にある、悠な希望を、掴むことができるはず」


生きることは、悩むこと。生きることは、探すこと。船巫女が生まれて、早三十年。この問題は、多くの船巫女が考え、それぞれの答えを出してきたことだった。


それは例えば、三笠のように、船巫女としてこの世界を見続けることであったり。あるいは、人となって生きていくことであったり。はたまた、船巫女として、自らの船とともに消えることであったり。


駿河は、果たしてどのような答えを出すのだろうか。


「名前・・・大切に、します」


三笠の想いは、駿河に伝わったであろうか。


ぬるくなった紅茶の残りを、他愛もない会話とともに飲み干していく。“三笠”の甲板は、優しい秋の雨で、しっとりと濡れていた。

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