船巫女たちの時代
「船御子」は、「船巫女」とも書き、あらゆる艦船の魂を司る女性のことを差す。
世界で初めて船御子が確認されたのは、一九〇五年のことだ。戦艦“三笠”の艦内に現れた船御子を皮切りに、世界中の艦船で船御子が確認されるようになる。一九一二年までに、新造を含めた全ての艦船には、必ず船御子が存在するようになった。
船御子の思考や心理は、非常に人間に近い。彼女たちは意志を示し、人間と対話する。それはすなわち、便利な道具に過ぎなかった船が、高度な思考を持った人間と対等な存在になったことを意味していた。
各国の動揺は言うまでもない。国益を根底から支える彼女たちの扱いに、政府や海軍は心を砕いた。それでも、船御子たちの立場を確定させるまでには至っていなかった。
そんな中、世界を巻き込んだ戦争が起きた。半年で終わると言われた戦争の火は、人々の予想に反して拡大を続け、欧州を浄土へと変えるほどの大火となった。
人類最初の世界大戦は、五年もの長期に及んだ。多くの人間が不幸になった。そして多くの船御子たちが不幸になった。大戦を通じて、生きとし生ける者の権利は徹底的に無視された。
「船御子にも、人間と同じように権利がある」
大戦が終結した世界は、二度と同じ不幸が起きないように、各国の意志調節を図る機関の設立と、船御子の権利確立に向けて、運動を加速させていく。
国際連盟、そしてワシントン船御子条約に代表される船御子権利宣言。
神なき時代に舞い降りた、船の魂たち。彼女たちとの道を模索する、人間たち。
混迷の時代、船御子たちは、そして人類は、どこへ向かおうというのだろうか。航海はまだ、始まったばかりだ。
◇
昭和九年(一九三四年)六月某日。横須賀海軍工廠第五船渠。
巨大な艦体が、乾ドックに横たえられていた。見るからに強靭なそのたたずまいは、これからの帝国海軍を背負って立つに相応しい。鋭い艦首と細く絞られた艦体が、夏を迎えようとしている晴れた朝に照らされて、進水の時を静かに待っていた。
そう。今日はこの艦の、進水式が執り行われる日なのだ。
海軍の高官や、政府の要人、皇室関係者、造船技師など、多くの参列者が並ぶ中、式は粛々と進められる。そんな人間たちの様子を、冗長な式への退屈に由来する欠伸を噛み殺しながら、気だるげに見守る人影があった。
肩に少しかかる黒髪はしなやかで、陽光を反射するほどの艶がある。端正な顔立ちは、欠伸をしていてもどこか凛々しい。深い海を思わせる瞳は、一点の曇りもない蒼だ。
服装は、公式な式典の際、正装として定められている、白と赤の巫女服。朝とはいえ、陽が当たるともう暑さを感じる季節だ。巫女服の生地自体は薄手だが、もうちょっと薄着にできないものだろうか。
くす玉が準備されている艦首、そこに立つこの艦の船巫女は、いい加減海に浮かべてくれないだろうかと、特注の斧が振り下ろされる瞬間を、今か今かと待ち焦がれていた。
夏目漱石ではないが、彼女は船巫女であっても名前はまだない。何せ進水式、彼女の名前はこれから決まるのだから。
―――名前といえば。
まだまだ続きそうな式の雰囲気を悟って、彼女の思考はあらぬ方向へと飛んでいく。そのまま帰ってくることがないだろうことに、彼女自身は全く気付いていなかった。
―――名前・・・どうしよう。
ここで彼女が考えている名前というのは、艦の船巫女としての名前ではない。彼女自身の名前だ。
退役した船巫女には、二つの選択肢がある。
一つは、そのまま船巫女として、船とともに解体される道。船の魂たる船巫女は、船が解体されることで魂を失い、光の粒となって消えていく。
もう一つは、人間として生きる道。魂の軛から解放されることで、船巫女は人としての生を得ることができる。その際、戸籍登録のための名前を決めることになっていた。
どちらの道を選ぶか、日本においては船巫女に一任されている。それぞれの選択肢で、船巫女の意志は半々といったところだ。
彼女自身は、後者を選ぼうと思っている。寿命による死というものを受け入れなければいけないのだとしても、多くのものを見て、聞いて、感じたい。限りある時間の中で、許される限りの体験をしたい。
―――竣工する前から、なんで退役した後のことを考えてるんだろう、私。
思わず苦笑が漏れてしまった。
式は、いよいよ本題を迎えようとしていた。この艦に天皇陛下から名前を賜り、海へと滑り出すのだ。ようやく意識を目の前の式典へと戻した彼女は、緊張と期待が入り混じった心境で、その時を待つ。
綺麗に折られた命名書を、白の第二種軍装に身を包んだ女性士官が開く。
『―――命名。本艦を、“駿河”と命名す』
―――駿河。
呼ばれた名前を反芻する。次の瞬間、列席者が白銀に輝く小さな斧を振り下ろし、艦体をドックに繋ぎ止めているロープを切った。支綱切断。いとも簡単にロープが切れたかと思うと、艦首に用意されていた特大のくす玉が綺麗に割れて、中から飛び出した色とりどりの紙吹雪が、ドック中に舞い散った。
ドックへの注水が始まる。海水が乾ドックに流れ込む轟音の中、列席者の誰もが、彼女に―――駿河に拍手を送る。誇らしげな表情、やり切った表情、晴れやかな表情、様々な感情がこもる彼ら彼女らは、しかし誰も彼も笑顔を浮かべていた。
駿河もまた、満足げに笑みを浮かべた。ただし、その意味合いは他の列席者たちといささか異なる。やはり船は、水に浮いてなんぼなのだ。
やがて注水が完了し、タグボートに曳かれて艦体が全てドックの外へと滑り出す。艦首に立つ駿河の髪を、清々しい初夏の風が撫でた。
ロンドン海軍軍縮条約下で建造された、明日の帝国海軍を担う軍艦。たった今、“駿河”と命名されたその艦が、彼女であった。
◇
横浜港に、一際華やかな様子の船が一隻あった。出航前、船長が主催して開かれた船上パーティーの華やかさは、港の近くを行きかう人たちにも伝染する。それだけ盛大なものであった。
一万トン級貨客船“氷川丸”。日本郵船が保有する「H」シリーズ三隻の長女であり、北太平洋航路でアメリカのサンフランシスコと横浜を結ぶ、豪華客船だ。竣工は一九三〇年。
楽隊の演奏に合わせて、きらびやかなドレスやタキシードを着込んだ紳士淑女が、思い思いに踊り、話に花を咲かせる。その間を、正装に身を包む給仕係が行きかって、ワインやシャンパン、軽食を配っていた。
そんな会場に、“氷川丸”の船巫女、氷川春子の姿があった。用意したドレスを着る彼女は、シャンパンのグラスを片手に、パーティーの様子を眺めている。
貨客船の船巫女は、「春子」のように各々で名前を持っている。これは、船内において乗客と接する機会が多いため、名前があった方が何かと便利だろうという判断からだ。実際、船内でも「春子さん」や「春ちゃん」と呼ばれることが多い。
「どうしたかな、春」
そしてここにも、春子のことを名前で呼ぶ者がいる。後ろからかかった声に振り返ると、このパーティーの主催者である、古神剛史“氷川丸”船長が、ゆっくりとした足取りでやって来た。濃紺の制服が、電飾の下でも様になっている。
古神が横に並んだのを確認して、春子は頬を緩めながらポツリと呟いた。
「皆、楽しそう」
「そうだな。皆笑顔だ」
乗客たちだけではない。楽隊も、行きかう給仕係も、ダンスの相手をする乗組員たちも、皆が笑顔だ。そしてもちろん、それを眺める春子と、古神も。
「私ね、私が“氷川丸”で、本当に良かった、って思う。私に乗って、一緒に旅をする人たちが、皆笑顔だから。心の底から、そう思えるの」
「同感だ。俺も、君の船の船長であることが、誇らしい。この船で誰もが笑顔になってくれることが、何よりも嬉しい」
そんな古神の言葉に、春子は笑って見せる。古神の表情も柔らかい。
「同じね、私たち」
「ああ、同じだ」
微笑みを湛えたまま、春子はシャンパンのグラスに口づける。炭酸を含んだ辛口の液体は、夜の雰囲気に相応しい。奏でられる弦楽器の音色が、そこに溶け込んでいるかのようだ。
「どうかな、春。せっかくだから、踊らないか?」
グラスを空にしたらしい古神が、春子に問いかける。
「もう少し、ちゃんと誘ってくれたら、考えてもいいわ」
若干のイタズラ心を込めてそう返す。船巫女にダンスの相手をさせるのは、そう簡単なことではないのよ、と。
春子の返答が気に入ったのか、空のグラスを置いた古神が、ニヤリと笑う。それから、急に真面目な表情になったかと思うと、恭しく礼をして、手を差し出した。
「お嬢さん、どうか一つ、この私と踊ってはいただけませんか?」
その様子が可笑しくて、春子は思わず、小さく吹き出してしまった。
差し出された手に、ゆっくりと自分の手を重ねる。長年海で生きてきた、大きな古神の手は、細く小さい春子の手を、まるで壊れ物でも扱うかのように、丁重に包み込んだ。その温もりに触れられることが、何よりも嬉しい。
「ええ。喜んでお受けします、キャプテン」
古神の手が、春子を引いていく。強くなくとも、確かにエスコートされていることがわかる、優しい力加減。
―――本物のお姫様みたい。
そんなことを思った春子は、頬が熱くなるのを感じていた。
「おっ、船長が春さんと踊るぞ!」
気づいた船員の声に、パーティー会場の人たちが春子と古神の方を振り向く。もう慣れたものだ。
温かい拍手が送られる。その中で、お互いに礼をした二人は、手を取って構える。
メロディーに合わせて、ステップを踏む。客船として竣工するにあたり、練習はたくさんしてきた。
―――一、二、三、四。
古神と息を合わせて、右へ、左へ。お互いの呼吸だけで、タイミングは完全に合っていた。エスコートする古神の足取りはしっかりとしていて、春子は安心して身を任せることができる。
更けていく港の夜。パーティーは、たくさんの音楽と笑顔で溢れていた。