後編
それを見て、僕は咄嗟に思った。
幽霊だ!
そして塔に踵を返すと、一目散に駆け出した。僕はこれでも幽霊だとか怪談だとか、そういった類のものがかなり苦手なのだ。だから、今見たものを思い返してぶるりと身を震わせると、ひたすら走ることに没頭した。とにかく、早く逃げなくては。
それから、どの位走り続けただろうか。辺りの景色は一向に変わらず、ただただ敷き詰められた石畳の上を駆けるばかり。息を切らした僕は、やがて減速し、その場で立ち止まった。疲れてしまったのだ。そして考える。いつになったらこの世界を抜け出せるのだろうかと。
本当は分かっていた。でも理解したくなくて、僕はその考えから目を背けていたのだ。しかしそろそろ、向き合わなければならないのかもしれない。僕は一つ溜め息を吐くと、仕方なしに今来た方向へと足を向ける。
そしてゆっくり、本当にゆっくりと塔へ向けて歩き出した。恐らく、元の世界へ戻る為の鍵はあの塔にある。でなければ、周りがこんなに殺風景なままである筈がないのだ。僕がそう認識すると、辺りの景色は急に色づき始めたように変わりだした。建物が建ち、人が歩く。僕がいつも見ている左目の風景だった。これが、今の僕が知覚すべき光景だとでも言うのだろうか。
僕がそう落ち込んでいると、目の前で突然ドンという衝撃に襲われた。
「#&*@§!」
どうやら人にぶつかったらしい。僕はすみませんと謝ると、今度は人波に気を付けながら塔への道を進む。辺りはすっかり複雑な街の様相を呈していたが、塔への道だけは、僕の今歩いている大通りが真っ直ぐに続いていた。時折大きな馬車が、甲高く嘶きながら僕の脇を追い抜いて行く。
塔へ向かいながら、僕は街並みを眺めた。建築物はその大半が木造だろうか、大きなものから潰れたように背の低いものまであって、時折石組みでできた教会のような建物が見受けられる。その間に挟まれた大通りには多くの人々が、様々な身なりをして歩いている。急ぐ人、僕のようにゆっくりと歩く人、中には犬のような生物を連れた人までいる。僕はそんな人々をぼんやりと眺めながら塔へと足を運ぶ。
どれほど遅かろうと、前に向かって進んでいる限り、いつかは目的地に辿り着いてしまうものだ。僕はいつしか、塔を見上げる位置に立っていた。塔の周辺は、僕が最初に見た時とは大分雰囲気が変わっている。人々が闊歩し、木々が立ち、雑音溢れる光景がそこには広がっていた。だが誰も塔に足を踏み入れる者はいない。僕は早速、塔の中へと足を踏み込んで行った。
塔の中はがらんとしていて、壁に沿った螺旋状の階段がただひたすらに上へと伸びている。僕は階段に足を掛けると一段ずつしっかりと上がっていく。一段、また一段と上がる度に、僕の足はガタガタと震え出した。それでもぺしりと膝を叩いて僕は上を目指す。時折塔からのぞく街の景色が段々ちっぽけになる。ああ、あのちっぽけな街に僕は居たんだなどとどうでもいいことを考えて気を紛らわせながら、ただひたすらに上を目指す――
やがて僕が大分階段を上りきった頃、階段の途中に、彼女は立っていた。
「やっと、来た」
ニィと笑いながらそう言う少女を見て、僕は久々に忘れかけていた恐怖を思い出した。
「君は誰なの?」
思わずそう訊ねた僕の言葉には答えずに、少女はウフフと笑うと逆に問いかけてきた。
「帰りたい?」
震えを隠しながらも帰りたいと僕が答えると、彼女は白いワンピースを翻しながら、その綺麗な顔を僕に近付けて言った。
「なら、次もまた探しに来てね。待っててあげるから」
「え?」
それから僕の肩に手を押し当て、気付けば、少女によって僕は階段から突き落とされていた。視界が暗転して、徐々に意識が薄らいでゆく――
僕は夕焼けを眺めながら、汐出公園の入り口に立っていた。もう連れの二人は先に帰った後だ。子供建のはしゃぎ声を聞きながら、僕は向こうの世界で出会った美しい少女について考える。
「また探しに来てね、か」
僕はまた、向こうの世界に連れ込まれてしまうのだろうか。左目は、今は古びたパン屋と、店の前で取っ組み合いをする男達を映している。関係のない世界のことで、今の僕にとってはどうでも良かった。だが、いつかあちらの世界が僕にとっての現実になってしまうとしたら。そう思うと、今度こそ本当になにもかもが恐ろしくなって、僕はその場に立ち竦んでしまった。