7
翌日、ユミは相変わらず学校に来なかった。
リサは一限が終わる頃、気怠そうな顔つきで現れた。
「もうヨーコってば、いったいなんなのよ。店長すごく怒ってたよ。ユミも顔潰されたって頬膨らませてたし」
「ごめん」
顔を合わせるなり超不機嫌な彼女に素直に頭を下げながら、私はただもう小さくなるしかなかった。どんな理由にせよ、私ひとりだけ裏切って逃げ出したようなものだということには変わりない。
「別に私に謝る必要、ないんだけど」
「ほんとにごめん」
「まったく、お酒がダメならそう言ってよね。知ってたら、無理に誘ったりしなかったのにさ」
「リサ……」
おととい、無様にひっくり返ってしまったことを、彼女は責めているわけじゃなかった。それがわかって、私はひとまずほっと胸を撫で下ろした。
「ほんとにごめん。でも、私、ユミに誘われたとき、行ってもいいなって思ったのはほんとなの。私だってお金欲しかったし」
「欲しいのはマニキュアでしょ」
図星を指されて私は押し黙った。私の指に、それからリサの指にも、まだあのマニキュアが塗ってある。
「そうだったけど……でも、もういいんだ」
私はもうその馬鹿高いマニキュアが死ぬほど欲しくはない。もっと欲しいものが垣間見えたから。
それがなんなのか、具体的に言い表すことはまだできないけど。
「ま、ヨーコにはキツいかなって、ちょっと私も思ってたしさ。もういいって」
「リサはどうするの?」
「私? もち、続けるよ。店長も気に入ってくれたみたいだし、ああいうの、けっこう向いてるなって思ったから。それに私さぁ、ぶっちゃけた話、金貯めて外国行きたいんだよねー」
「外国?」
初めて聞く話に私は目を丸めた。
「そ、イタリアとかフランスとか、デザインの勉強したくてさ」
照れくさそうに前髪を掻き上げながら、リサは唇の端をきゅっと上げて笑った。
「まぁ行ったところでどうにかなるってワケでもないんだろうけど、日本の専門とか行ってもたかがしれてるし。昔、親にちらっと言ってみたんだけど、馬鹿なこと言うなみたいな顔されて。だったらもう自分でどうにかするしかないじゃん?」
長い指を適度に組んで瞳を瞬かせる彼女は、いつもよりずっと大きく、綺麗に見えた。子どもじみた夢、と、大人のように笑い飛ばすことができなかった。私は彼女の親友だとずっと思っていた。それなら今まで、いったい彼女の何を見てきたんだろう。
私の尊敬の眼差しを感じ取ったのか、リサは「大したことじゃないって」と手をひらひらさせた。
「ユミだってヘアメイクの学校行くんだーってはりきってるしね」
「そうなの?」
何もかもが初耳で、私はただただ驚くばかりだった。自分の知らないところで二人がそれぞれの道を見つけていただなんて思ってもみなかった。みんな私のように、なんにも考えていないんだとばかり思っていた。
「ところでヨーコ、あれからどうしたの? ちゃんと帰れた? あんたケータイの電源切ってんだもん」
「あぁ、私は大丈夫……」
答えながら隣の席をちらっと盗み見た。畦倉は相変わらずの無表情で英語の参考書か何かを開いている。
今まで気づかなかったけど、畦倉ってけっこう背が高い。身体も運動部並に均整とれてて、指だって長くて節が滑らかで綺麗だ。あの陰気臭さもクールと十分言い替えられる。
結局のところ私には何も見えていなかったのだ。親友のことも、隣の席のことも。
ヨーコさんのことも、そして自分自身のことさえ―――。
馬鹿にされたくなくて、とにかく自分で周りを見下していた。少しでも優越感を味わいたくて、それを失いたくなくて、瞳を伏せていた。そうして何もかも見過ごしてきたばかりに、今ひとりだけ取り残されようとしている。やがてはみんなが手を振って向う側に行ってしまうのを、こちらでひとり呆然と眺めるという構図が頭を掠めて、思わず身震いした。
リサもユミも落ち零れなんかじゃない、もちろん畦倉もだ。落ち零れ街道を突き進んでいたのは私だけだった。そうじゃないと否定しつつも、一番近いところにいたのはやっぱり私だ。
目の前にかかっていた靄が少しだけ薄まった気がした。ヨーコさんのおかげで私の視界は開けて、リサの意外な一面を見ることによって、自分が今どれだけ情けない立場にいるかがわかった。己を知るということは何事においても基本になるのだと、昔何かの本で読んだのを思い出す。諦めてきたたくさんの可能性、後悔したこと、いい思い出なんてそんなにないけれど、そんなものの積み重ねで今の私はできている。
だからたぶん、あと少しで見えてきそうな気がする。みんなが見つめているモノにも劣らない未来。
私に足りないモノは、いったいどこにあるんだろう。
「昨日はごめん、突然押しかけちゃって」
「まったくだ」
麗らかな日差しの昼休み、屋上の片隅で私はようやく畦倉を捕まえることができた。もちろん教室でずっと一緒だったんだけど、リサもいたし、周りの目もあって簡単に声をかけるわけにはいかなかった。誓って言うけど自衛のためじゃない、たぶん私に親しげに話しかけられるのを、畦倉の方が嫌がると思ったから。
もうお昼はすんだらしく、彼は眼鏡をはずして、片手でペーパーブックを開いていた。ちらっと覗くと中身は全部英語だ。伸ばした足の片隅に辞書が置いてはあったけど、使っている様子はない。
落ちてくる前髪を時折掻き上げて、彼は壁にもたれていた。こっちの方がずいぶん畦倉らしい。胡散臭そうな視線を投げかけてくる彼に、私は追い返される前にと、慌てて言った。
「また行ってもいいかな、あなたのお店」
「いいよ」
絶対断られると踏んであれこれ言い訳を考えていた私は、その一言で思わず「え?」と、目を見開いた。
「なんだよ、いいって言ってるのに何が気に食わないんだ」
「違っ、嬉しいよ、あの、そうじゃなくて、絶対ダメって言われると思ったからっ」
不測の出来事にしどろもどろになる私を見て、畦倉は珍しく笑った。
もしかすると私に対して初めて見せた笑顔かもしれなかった。ただ単に「笑われた」だけではあるんだけど。
でも進歩だ。
その笑いを噛み殺しながら、彼は本を膝の上に置いた。
「別に俺はどうだっていいんだけど、あいつがあんたのこと気に入ったみたいだから」
「ヨーコさんが?」
意外なことを聞いて驚くと同時に、気恥ずかしいくらいの嬉しさが込み上げてきた。彼女は私をちゃんと受け入れてくれたのだ。こんな年下(畦倉と同い年だけど)の、ちんくしゃな、毒にも薬にもならないようなありきたりの女子高生のことを。
「まったく、あんた、あいつに何言ったんだよ」
口調とは裏腹に彼の表情は穏やかだった。
「何って……羨ましいって言ったの。あなたとヨーコさん、二人揃ってお互いを思いあってるところが素敵だなあって思って。だからもう一度二人の姿を見たくて、昨日も勝手にお店に行ったんだ」
「……それで、ヨーコはなんて?」
畦倉の発する「ヨーコ」という響きが、まだ自分と重なって不思議な感じがした。まるで私が彼らの世界に入り込んでいるような錯覚にまで囚われてしまう。
「えっと、ありがとうって言われた、かな。自分がちゃんと畦倉と釣り合って見えるのが嬉しいって」
それから私は、昨日ヨーコさんから昔語りを聞かされたことも話した。ただ、ヨーコさんが抱えている不安要素については最後まで黙っていた。いくら全部知っているからといって、ほんの軽い知り合い程度の私が、簡単に口にしていいことじゃない。
私の話を聞いて、畦倉は「そうか」と短く嘆息した。視線がさっと俯く。
そして忌ま忌ましそうに鼻を鳴らした。
「それはこっちの台詞だよ」
「え?」
投げ棄てるような口調が気になって、私は彼の表情を食い入るように見つめた。痩せた頬の辺りに陰が指している。どこかで見た光景だと、そんなことを思った。
「ヨーコと釣り合って見えるように努力してるのは俺の方だ」
ふいっと顔をそむけて、畦倉は苦いものを噛み締めるように荒々しく語りだした。
「高校生なんて、大人と子どもの間なんて言うけど、冗談じゃない、やっぱりガキだよ。俺は自分で自分を養うことさえできやしない。親父の遺産を食いつぶすことしか脳がないんだ」
「だってそれは……」
仕方のないことだ。学校に通っていて、ずっと同じことの繰り返しで、それはもう社会に組み込まれたルールみたいなものだ。私たちがどうこうできるモノじゃない。もちろん、同い年で働いている人もいる。勉学と仕事を両立させている人もいるだろう。それはたぶん不可能なことではない。でもたとえば畦倉には、家に戻っても英語やバーテンダーの勉強がある。そのうえ生活のために働くとなったら、それこそ寝食を削らなくてはならないはずだ。
けれどそんな最もらしい理屈を受け入れることが、畦倉には屈辱らしかった。
「わかってるよ、どうしようもないってことは。こんなこと考える辺り、まだまだガキなんだってことも。だけど、俺は早く自分をどうにかしたいんだ。あいつに、ヨーコに相応しい男に、早くなりたくてしょうがない」
「今だって十分じゃん」
驚いた私は、今まで見てきた彼の言動を即座に肯定した。ヨーコさんの前で堂々と振る舞い、彼女を喜ばせるほどのマルガリータを作ってあげられる彼、彼女を爪の先まで美しくさせ、そして身が捩れるほど苦しめさせている彼。すべて彼女と対等にあるからこそできることだ。
けれど畦倉にはそれが届かない。自分をどこまでも貶めなくては気がすまないとでも言うかのように、反対の方向へと自分を導いていく。
あぁ、これもどこかで見た光景だ。どうかすると震えそうになる声も、自嘲気味な横顔も。
「俺にはカクテルしかないからな。ヨーコのように、一流の会社で走り続ける才覚はたぶんない。だったら、今ある才能にイチかバチかでも賭けるしかない。それが一番の近道でもあるから……あいつと対等な大人になるための」
彼の言葉を聞いていて、私は思わず泣きそうになった。これが畦倉の闇。ヨーコさんが抱えるそれと同じ種類の、等間隔で、同じ温度の、同じ切なさを孕んだ闇。
我慢しようと思った。こんなに明解な答えが目の前にぶらさがっていても、私が口出ししていいようなことじゃない。
けれど、私の口は思いのほか軽かった。私だって辛かったのだ。黙っていることが、こんな二人を見続けることが。
「大丈夫だよ、だってヨーコさんも、おんなじこと思ってるから……」
胸が詰まって、それ以上は口が回らなかった。それにほっとする自分と、もっと頑張れとやきもきする自分がいた。私は二人のことが好きだった。幸せになってもらいたかった。そして、私の目標であってほしかった。一点の曇りもない、穏やかな共同体として、あの夜見たままの姿で、未来永劫ずっといてほしかった。
たぶん、私の願いは叶うだろう。この二人は崩れない。同じ闇を抱えていても、いや、同じモノを抱えているからこそ、ずっと強い結びつきが生まれて、誰よりもお互いを感じ入ることができる。無理をしてでも傍にいたいと思い合っているなら、いつかわかりあえる日がくると思う。それが明日か、あるいはヨーコさんが昇進してからか、畦倉がアメリカに行って戻ってくる頃か、それはわからない。けれど、今この瞬間のことを笑いあって話せる未来が、二人にはきっとあるはずだ。だってあの夜の、あれほど緩やかに切な気に織り成した時間が、簡単に崩れ落ちるとは思えない。
「……あんたに慰められるとはな」
最後までひねくれた台詞を吐く彼を見て、やっぱり大丈夫だと感じた。畦倉はたとえどんな姿でいても私よりずっとすごいと思う。優秀だし冷静だし、たぶん優しい。私の言葉に耳を傾けてくれる人間なんて、ぐっと限られてる。
ヨーコさんは自分を大人過ぎると感じ、畦倉はガキだとけなした。早く大人になりたい、若返りたい、そんなもどかしさはきっと誰の胸にも潜んでいる。形を変えて、言葉を変えて、そう、私の胸にも。けれどそんな雑多なものの中で、一粒の星のようにきらりと光るかけがえのない存在もまた、ちゃんとあるのかもしれない。気の遠くなる距離の先や複雑な迷路の向こうでなく、隣り合わせとも言えるような、近しい、目につく場所に。何もかも現実とか常識とかに照らし合わせて考えるから見えにくくなってるだけで、単純なことを難しく複雑にしないでいれば、一気に視界は開けるはずだ。
そのことは、畦倉やヨーコさんに伝えるまでもないことだ。たぶん二人はもう知り過ぎるくらい知っている。だから迷う。そして私は今ようやくそこにたどり着いた。この二人の傍にいればどうにかなるんじゃないかという私の予測は大当たりだっと思った。
唇をぎゅっと結んで顔を上げた。空は確かに遠いけど、この手は実はその青さに触れている。私も畦倉も包まれているのだと思うと、すっと心が軽くなった。