6
記憶をたどってたどり着いた店は、昨日と同じ佇いでちゃんとそこにあった。薄汚れたコンクリートの壁、消えかかったBarの文字。
人がいるのかも定かでないドアを、私は意を決して推した。馬鹿にされないためにちゃんと着替えてきたし、メイクだってずっとナチュラルにしてある。
ステップを二、三段降りると、昨日ヨーコさんが座っていた細長いスツールが見えた。そして、カウンターの向う側にいる畦倉の姿も。
今日も黒っぽい恰好をしていた。髪を後ろに掻き上げて、眼鏡もかけていない。しなやかな指を忙しく動かして、白いふきんでグラスを丁寧に磨いている。
「何しに来た」
深く沈むような畦倉の声が飛んできた。叱られて途端に肩を竦める。
それでも怯んでいるわけにはいかなかった。逃げちゃいけない、ここで終わってしまえば、私はどんどん落ちていく気がする。
「あの、今日、ヨーコさんは?」
震えを必死で押し隠しながら、私は明るく振る舞って尋ねた。
「仕事だよ」
冷たいトーンで会話があっけなく終わる。昨日も思ったけど、もうひとりのヨーコさんにはあんなに穏やかに応対するのに、私に対してこんなふうなのはいったいどういうワケなんだろう。この落差が面白くない気はしたけど、まぁ畦倉が私を好きでないことは十分承知しているので、これ以上求めないことにしようと思った。
ともかく私が次の言葉を探して突っ立っていると、彼は顔も上げずに「座れよ」と言ってくれた。とげとげしい言葉だったけど、それはそれですごく嬉しかった。
「ねぇ、ヨーコさんはどんな仕事してるの?」
「普通の仕事だろ」
「だから、職種とか」
「営業」
「ふーん、だからあんなにぱりっと綺麗にしてたのか。どこの会社?」
興味本意に尋ねると、畦倉はくぐもった声で、誰もが知っている大企業の名を告げた。
「スゴっ! って、え? 営業ってことは、総合職なの?」
「みたいだな」
「へぇぇ。女の人でも働けるんだ……」
素直に関心していると、「それがあいつの夢だったからな」と畦倉が呟いた。
「夢? キャリアウーマンになるのが?」
「誰かにちゃんと認められる仕事をすることが」
「認められる仕事……」
その言葉が私の胸の痛いところに優しく触れた。誰かに認めてもらいたい、そんな思いを、あのヨーコさんも抱いていたんだろうか。あんなに綺麗で大人の女の人が。社会にちゃんと受け入れられているように見えるのに、畦倉にだって、すごく愛されてるみたいなのに。
そのときだった。入り口の辺りに人の気配を感じて、私は思わず振り返った。華やかな息づかいが静かな店内に弾むように滑り込んでくる。
「リュージ、いる? あら……」
小さな顔をめいっぱい輝かせて、ヨーコさんが「ヨーコちゃんっ」と声を上げた。
「今日も来てくれたのね、ありがとう」
「ヨーコ、今日は残業じゃなかったのか?」
驚いたのは畦倉も同じだったらしい。手を止めて彼女が近づいてくるのを待っている。
「それがねー、明日の商談ドタキャンなの。先方の部長さんのトコに不幸があったらしくてね、来週に延期。それで焦って資料作らなくてもよくなったのよ。拍子抜けしちゃったわ」
まぁ、おかげでリュージのマルガリータが飲めるわけだし、と、にこやかに笑って隣のスツールに腰掛けた。
「それよりヨーコちゃん、どうしたの? ひょっとしてここが気に入った?」
「え、あ、はい」
つられて頷くと、ヨーコさんはほっと息を吐いた。
「よかったぁ、これでお客さんひとりゲットね」
「こいつは客なんかじゃないよ。何度も言うけど未成年だし」
畳み込むように畦倉が否定する。
「何言ってんのよ、あなたがアメリカから帰ってくる頃には立派なレディよ。どんな店にだって堂々と入って楽しめるようになるわ。ヨーコちゃんみたいな子がいてくれたらとてもサマになるでしょうね。そのときになってやっぱり来てくれって頭下げても遅いかもしれないんだから」
ねー、と同意を求めてくるヨーコさんに、私は薄く微笑み返すしかなかった。畦倉は何も言わずにカクテルを作り続ける。
そして昨夜と同じカクテルが出来上がった。マルガリータという名の、恋人のために作ったとかいうヤツで、テキーラに……なんだっけ? とにかくグラスの縁に塩がなすりつけてあるの。理由は……相性がいい、とかだったと思う。
ヨーコさんは嬉々としてグラスに手を伸ばした。けれど次の瞬間、私の手元を見て不思議そうに首を傾げた。
「あら、ヨーコちゃんは何を頼んだの?」
「え、あ、私はまだ、何も……」
注文をするという行為さえ、すっかり忘れてしまっていた。そもそも畦倉が私のオーダーなんか聞いてくれるかどうか。だってあんな冷たい目で睨みつけてくるんだもの。
「リュージ、意地悪しないでちゃんと聞いてあげなさい。店主として失格」
「別に聞かないなんて言ってないよ。こいつが何も言わなかっただけだ」
「あなたが言わせなかったんでしょう」
「……なんにする?」
いかにもお義理と言わんばかりのくさくさした口調で、畦倉は私の目を見た。
「あ、じゃあ、オレンジジュース」
本当は恰好よくマルガリータなんて言ってみたいけど、自分でも不釣合だとわかってるし、そもそも畦倉が聞いてくれるはずもない。ヨーコさんだって、昨日は私にちゃんとわからせるためにああ言って作らせてくれたけど、今日はさすがに止めるだろう。
「……オレンジを今、切らしてるんだ。グレープフルーツでもいいか」
「あ、私、グレープフルーツは苦手で……」
あの苦みが、どうしても好きになれない。
「ジンジャエールがあるけど」
「ごめん、炭酸って飲めない」
「……」
この日最大の仏頂面を顔に貼りつけて、畦倉はしばし無言になった後、タオルで手を拭い始めた。
「ちょっと出てくる。ヨーコ、店番頼んだ」
「了解。それでこそリュージ」
「え、あの、ちょっと……」
カウンターの横をすり抜けて、店を出ていく黒い背中を、私は引き止めることができなかった。
「あの、畦倉って、どこへ?」
マルガリータ片手にのんびりくつろぐヨーコさんに私は尋ねた。
「買い出しでしょう、オレンジの」
「そんな、私、ひょっとしてめちゃくちゃ迷惑かけちゃったってこと……?」
後悔で呆然とする私に、ヨーコさんは「気にしないで」と笑った。
「リュージは店主だもの。お客さんの望むモノを出してあげるのは当然のことよ。買い出しっていっても遠くまでいくワケじゃないし。たぶん、知り合いの店で分けてもらってくるんじゃないかな。ここ、まだちゃんと営業してるお店じゃないから、品揃えが悪いのよ。来るのは私か、あとはリュージのお父さんの仲間くらいで、だから材料もその都度準備するって感じで」
「そうなんですか」
私みたいなイレギュラーな客はいないのだとわかって、ますます申し訳なくなった。しかも畦倉は私を客とも思っていない。そんな人間のためにわざわざヨーコさんとの時間を削ってまで外に出なくちゃいけなくなったことを、彼はきっと怨んでいるだろう。
やっぱり来るんじゃなかったと、唐突にそう思った。たった一度助けてもらっただけでまた押しかけてくるなんて、ずうずうしいにもほどがある。しかもここに来た理由を、私はまだ二人に話してはいない。そもそもうまく説明できるような内容でもない。
でも、なんとなくではあるけど、ここに来れば何かわかるんじゃないかと思っていた。畦倉とヨーコさんの様子を見てそれが羨ましいと素直に思えたように、私がもっと欲しいものがここに来れば手に入るんじゃないかと、密かに期待していた。
だけど結局は彼らに余計な手間をかけさせただけで、誰にとってもなんのプラスにもなってない。
「どうかした?」
押し黙った私の顔をヨーコさんが覗き込む。睫毛がすごく長い。マスカラなんて必要ないみたいだ。
「私、羨ましかったんです。畦倉とヨーコさんが」
視線を落とした先に彼女の小さな爪が映る。桜色の、幸せの融け込んだ緩やかなマニキュア。
いいな、と思う。色とか形とかじゃなくて、その指自体が。神経の細やかさが、満ちている時間が。
「なんか二人を見てると、お互いがお互いをちゃんと認めあってて、わかりあってて、それぞれひとりずつでも立派にやっていけて、おまけに夢も未来もちゃんとあって……。私にはなんにもないから」
「そんなことないわよ。ヨーコちゃんにもあるでしょ、未来」
「でも、なんにも想像つかないんです。畦倉みたいにこれをするんだって気力もないし、ヨーコさんみたいなすごい仕事も手に入るとは思えない」
「私の仕事? あぁ、リュージから聞いたの」
溜息混じりに微笑んで、ヨーコさんはグラスに口をつけた。形のいい咽喉が微かにうごめく。
「私の仕事なんて、ほんと大したモンじゃないのよ。そりゃネームバリューはすごいかもしれないけど、でも、私だってあの会社、かなり不純な動機で選んだようなものだし」
「……そうなんですか?」
「そうよ。なんであの会社にしたかっていうと、大学のゼミの先生があそこならコネがあるから推薦してやれるって言ってくれたからなの」
瞳を伏せ、ヨーコさんは片手で額を支えるようにして肘をついた。顔にかかる陰が、頬に憂いの色を走らせる。
「私はどうしても大きな会社に入りたかった、そこでバリバリ働きたかった。そうでもしなくちゃ、リュージと釣合いがとれないと思ったの。ヨーコちゃん、リュージのこと羨ましいって言ったけど、私だってそうよ。彼がすごく羨ましい。カクテル作りの技も、お父さんの跡を継いでバーテンダーになるっていう夢も、そしてそれだけ尊敬できる父親がいるっていうことも、全部が羨ましいわ。私にはどれもないモノだから」
いつのまにか彼女の表情から笑みが消えていた。重たく淡々とした声が、静かな店内にすっと染み込んでいく。
冷たい顔もまた十分美しかった。潤んだ瞳、震える睫毛、頬に差した濃いめのシャドウがその落差を際立たせる。ローズの唇がゆっくりと過去をなぞっていく。
「私ね、孤児なの。母親はずいぶん早くに死んだみたいで全然覚えてないんだけど、父親のことは覚えてる。中学入るかどうかってくらいまでは一緒に暮らしてたから。大酒飲みで博打好きで、ロクでもないヤツだったわ。挙げ句、借金取りから逃げ回る途中で事故に合って死んじゃった。それから私は施設に入れられたんだけど、その頃の私って、父親の暴力のせいで病的に暗くてね、全然施設にも馴染めないまま学校もほとんど行かなくなっちゃって。そのままいけばグレるか廃人にでもなったんだろうけど、神様っているもんなのね。リュージのお父さんがどこかで事情を聞きつけて、私を引き取ってくれたの。どうも私の死んだ母親の知り合いだったらしいんだけど、全然血のつながりもない上に、こんな可愛げのない子をよくもまぁって、いまさらながらに思うわ。おかげで私は何年かかけて立ち直れたわけだけどね。だからリュージのお父さんには感謝してもしきれない。ほんとにいい人だった。亡くなってからもう五年も経つのね」
一抹の寂しさを纏わせた表情で、ヨーコさんは懐かしそうに語った。畦倉のお父さんがもういないってことは、昨日ちらっと聞いた。今の話から想像すると、もう母親もいないのかもしれない。
逆算すれば彼女はたぶんは二十歳前後くらい、畦倉は十三歳のときに父親を亡くしたことになる。それからたぶん、二人きりで生きてきたのだろう。傷ついたヨーコさんが立ち直るまでの時間と、肉親を亡くした畦倉が今まで生きてきた時間、その両方で、二人は少しずつ距離を縮め、絆を深めていったのかもしれない。
十三のとき、私は何をしていただろう。まだすべてを諦めてなくて、なんとか優等生の座にかじりついていられた頃だったろうか。
「その頃からよ、リュージが取り憑かれたみたいにカクテルと英語の勉強をし始めたのは。父親の跡を継ぎたい、このお店をもう一度復活させたい、そうやってどんどんひとりで大きくなっていく姿を見て、私も負けてられないって思ったの。とにかく必死に勉強したわ。私にはリュージみたいな才能があるわけじゃないし、だから彼に置いていかれないようにするためには、いい会社に入って、しっかり仕事するしかないと思ったの。馬鹿げた考えだって自分でもわかってるわ。会社の善し悪しくらいで、人間の価値が決まるはずないものね。でも、そんなくだらない看板に縋がりつかなきゃやってらんないくらい、私は焦っていたの。だってリュージは私を追い越してどんどん前に進んでいくんだもの。一方私はっていうと、これといって特技もないし、彼よりずっと年上だし、いつか捨てられてしまうんじゃないかってびくびくしてるわ。今、リュージと席を並べて、彼と同じだけの未来を持つあなたの方がずっと羨ましいのよ、ヨーコちゃん」
グラスをわずかに傾けて、ヨーコさんは照れ臭そうに笑った。その寂し気な表情には、大人で、メイクにもファッションにもスキのない、自立した女の人の、それでもままならない思いが透けて見えた。
私はもう言葉がなかった。あの幸福そうな二人の姿の裏にこんな表情があっただなんて、いったい誰が気づくだろう。それとも私だけが見抜けなかったんだろうか。
畦倉は知っているのだろうか。ヨーコさんの抱えている闇の部分を、苦しんでいる胸の内を。
「でも畦倉は、ヨーコさんは“誰かにちゃんと認められる仕事をしたがってる”って言ってたけど……」
それなら彼はきちんと見通した上で、それを実践している彼女を受け入れているっていうことじゃないんだろうか。
私の言葉を受けて、ヨーコさんは微かに首を振った。
「そうね、それは私が口に出して言ったことがあるから。その“誰か”っていうのは上司でも同僚でもゼミの先生でもなくて、リュージだってことまでは知ってるかどうか……いまさら聞けもしないし」
クスッと鼻に皺を寄せて、ヨーコさんはグラスをあおった。飲み干したそれをとろんとした瞳でじっと見つめる。
けれど次の瞬間、不意に顔を上げた。
「ヨーコちゃん、ありがとう」
「え?」
「私とリュージのこと、羨ましいって言ってくれてありがとう。嬉しかったわ。私、ちゃんとリュージに釣り合って見えるんだって思うと、本当に嬉しかった」
少女のようにはにかむ彼女を見ていると、私も自然と心の奥が仄暖かくなってきた。ヨーコさんを喜ばそうと思って言った言葉じゃない。心底そう感じて口にしたのだ。飾りも外聞もない言動がこんなに好意的に受け入れられて、私の身体は震えるような軽やかさに包まれた。
けれど、彼女の中に潜む苦しいまでの闇を目の当たりにして、やっぱり私は表面しか見ていなかったんだなと改めて思った。恰好いいお酒、慣れた服装にメイク、映画のワンシーンのような会話、意外性、それらはひょっとしたら彼女にとって、自分を奮い起たせるためのポーズなのかもしれない。私が憧れたモノは、ヨーコさんの中では一番大事なモノじゃないのかもしれない。
それからしばらくして畦倉がようやく戻ってきた。「オレンジジュースだな」と釘を刺すように言われて、さっきほどには恐縮しなかった。ちょっと買い物に出るくらいなんだ、ヨーコさんにそこまで思われている幸せ者なら、多少の苦労くらいしてしかるべきだと、開き直るまでの心境に、私はなっていた。横ではヨーコさんが何もなかったかのように、するりとお代わりを注文していた。