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次の日、ユミはもちろん、リサまでが学校に来なかった。遅れてくるのかとそわそわ待ってはみたけど、午後になってもとうとう姿を見せなかった。
ひとり取り残されたような状況の中で、リサはきっとバイトを続けるのだろうと思った。夕べだって初めてとは思えない慣れた態度で始終振る舞っていたし、背が高くてスタイリッシュな彼女のことを、店長も気に入ってたみたいだった。
畦倉はちゃんと学校に来ていた。朝、彼を見かけたとき、声をかけようかどうしようか迷ったけど、彼が少しも視線を合わせてくれなかったので、結局そのきっかけを掴めずにいた。まるで昨日のことなんてありもしなかったかのように、彼はいつものダサイ眼鏡にもさっとした前髪を下ろして、高校生ながらにしっかり窓際族している。
これはほんの仮の姿。彼は夜になればぐっと大人ぽくなって、カウンターの向こう側に立つ。いつかアメリカにバーテンダーの修業をしに行くという目標を掲げ、英語の勉強にもカクテルの勉強にも力を注いでいる。そしてヨーコさんみたいな美人の彼女がいる。
その姿を思い出して、私はただもう嘆息するしかなかった。ダメだ、こんなんじゃ。みんなが前を向いているのに、明日を夢見ているのに、私にはそれがない。漠然といいなと思うものはある。畦倉とヨーコさんとか、やっぱりマニキュアとか。だけどそれをどんなふうに口にすればいいのか、何に向かっていけばいいのか、さっぱり掴めない。
誰かちょっとでもいい、ヒントをくれないだろうか。
迷いの色を湛えた私の瞳は、自然と窓際へ流れていく。五月の脳天気な空が、目に染みる青さで畦倉の向う側に広がっている。
あそこまで、すごく遠い。
ひとりでは手持ち無沙汰なので、珍しくまっすぐ家に帰ると、母親が私を見て怪訝そうな顔をした。
「どうしたの、早いわね。まだごはんできてないわよ」
幾分寄せた眉根の言い訳をするかのように、母は言葉を付け足した。
「だってパパは出張だし、カズミは塾の日でしょ。シンジは部活で遅くなるし。まさかあなたがこんな時間に帰ってくるとは思わないから、まだ準備もしてなかったわ」
私のせいで調子が狂ったと言いたかったのだろう。母はのろのろとキッチンに消えていった。その背中を見送るのも馬鹿らしくて、私はすぐに自分の部屋に引っ込んだ。
部屋といっても、狭いマンションではスペースがそうそう余っているはずもなく、姉といっしょくたにされている。それが嫌で嫌でしょうがないんだけど、かといって弟と同室にするわけにもいかないので、しぶしぶ我慢している。私たちは年子で、姉のカズミは今年受験生、弟のシンジは高校に入ったばかりだ。
私はどうしてもこの兄弟が好きになれなかった。苦手意識があるというのもひとつの理由だ。姉のカズミは、いるのかいないのかわからないほど物静かな性格をしているくせに、全国模試ではひとケタの成績をとってくる化物だし、弟のシンジは得意のバスケで中学のときに全国制覇を成し遂げ、高校からのスカウトが引く手あまただったという怪物だ。
だけど最大級の理由は、それぞれの性格。揃いも揃ってかなりねじ曲がっている。
「ヨーコはほんと真ん中だよな」
あるときシンジが私に向かってそう言った。こいつはいつのまにか私のことを呼び捨てするようになった。姉のことはちゃんと「姉さん」と呼ぶくせに。
「だってさ、姉さんは運動ニガテでも死ぬほど頭がいいだろ。オレは救いようのないくらいのバカだけどさ、バスケではたぶんトッププレイヤーだぜ。だけどヨーコは、両方ともほどほどって言ったらまだ聞こえがいいけど、結局のところ何もかもが中途半端なだけじゃないか」
せせら笑いを浮かべる弟に、私は何も言い返すことができなかった。まったくもってその通りだった。ここまで才能豊かな兄弟に挟まれていたら、悔しいという気持ちも、怒りすら覚えない。
でも、こんな口の悪い弟でも、姉のカズミに比べればまだマシだった。カズミは家でもほとんど口を聞かない病的な人間で、そのくせ何か言いたいことがあるのか、潤んだような近視の目で、時折人をじっと見てくることがあった。その湿ったような無言の視線がぞっとするほど煩わしい。学校と塾以外に出かけるところがないらしく、家に帰っても部屋にこもって勉強ばかりしている。私が毎日遊び歩いているのも、半分はこの姉のせいだ。押し黙ったカズミと同じ部屋で息を殺して時間をつぶすのは嫌だし、かといってリビングで両親とともにテレビでも見て過ごそうなんて気には到底なれない。
きっとこの家の誰もが私のことを異分子だと思っている。どうしようもない、落ち零れた真ん中だと。
たぶん、私が欠けても、誰も何も思わない。姉と弟を足して割った人間を想像するだけで、たやすく私の分身が出来上がる。それできっと間に合うくらい、私というヤツは薄っぺらい存在だ。
悲しみはとうの昔に通り越したつもりだった。すべてを諦めたときに一緒に脱ぎ捨てた感情。それがまた頭をもたげてきたのは、たぶん昨日の光景を目にしたせいだ。姉のことも弟のことも羨ましいとは思わないけど、畦倉の持つモノはひどく羨ましいと感じた。しかも、もしかすると手が届くんじゃないかという親しい距離感すら覚えた。それはたぶん、あの二人が平等な目を持っていたから。こんな私とも、ちゃんと向き合ってくれたから。
切羽詰まったような気持ちで壁の時計を見上げる。昨日、キャバクラの店に入った頃だ。 どうしよう、と思った。今からいけば十分間に合う。また会えるかもしれない。でも、今日もあそこにいるとは限らない。ついでに言えばまた店に入れてもらえるという保証もない。でも今日行けばさらにもっと近くなるかもしれない。もしかしたら、手に入るかもしれない―――。
迷いは自分に都合のいい方へいい方へと流れていく。そう思い始めるともういてもたってもいられなくなって、私はついにバッグを掴んだ。
部屋から勢いよく出てきた私を見て、母が再び眉を寄せた。
「ちょい出てくる」
それだけ言い置いて、私は靴を履くのももどかしく、夕闇の街へ飛び出した。