4
畦倉のことはよく知らない。知らないけど少しは知られている。
ウチのクラスにいるくせに学年首位競ってるし真面目だし、見てくれもかなりヒドイ。何を思って国際コースなんか選んだのかまったくもって謎だし、そもそも彼の事情になんて誰も興味を持ちやしない。友達がいる節もなくて、暗くて、だから私たちのからかいの対象で、リサなんて極端に害虫扱いしているくらいだ。
そんな彼の誘いで入った店内は、オレンジの仄かな光が点在する、落ち着いた場所だった。低い女性シンガーの這うような歌声が、控えめなヴォリュームで流れている。
意外に背の高い畦倉が、入ってすぐのステップを一段降りたとき、店の奥から「おっそーい!」という声がした。
「ちょっと、いったいどこまで買い物に出てるのよ。私がここにいること、まさか忘れてたんじゃないでしょーね」
場に不似合いな明るい声に驚いた私は、畦倉の背中からひょいと顔を覗かせた。
すると、カウンターのスツールに腰掛けていたスーツ姿の女性と目が合った。
「あらやだ、お客様が一緒だったの。だったら初めにそう言ってよ。恥ずかしい」
そして女性は片手で口元を抑えつつ、にこやかに頭を下げた。つられて私も会釈する。
「客なんかじゃないよ。ただのクラスメイトだ」
「クラスメイトぉ? あんた、友達いたの?」
派手に驚く女性の脇をすり抜けて、畦倉はカウンターの奥に入っていった。持っていた荷物を片付けながら「そんなんじゃないって」と口を濁す。
「へぇ、リュージがここに友達つれてくるなんてねぇ。あ、ほら、あなた、突っ立ってないで座って座って」
女性は立ち上がって私の手をとり、カウンター席へとひっぱった。重なった彼女の爪は、綺麗な淡いピンクに染まっていた。桜の花びらみたいだと一瞬思った。
年の頃は二十四、五だろうか、ショートカットの黒髪をきちんと整えた、小柄な女性だった。ゴールド系で纏めた流行のメイクもしっくり馴染んですごく綺麗だ。ベージュの、いかにも仕事しさげなスーツもサマになっている。
「ねぇ、あなた名前は?」
「あ、篠崎ヨーコです」
「あら偶然」
「え?」
「私もヨーコっていうの」
桜色の爪で自分を指差しながら、彼女はにっこり笑った。
「あ、そうなんですか」
彼女が驚いたほどには私は驚かなかった。ヨーコなんて名前、どこにでも転がっている。
けれど彼女はそうは思わなかったようだった。
「ねぇ、リュージ、こんな素敵な偶然を祝福する、とびっきりのカクテル作ってよ」
彼女の言葉に、畦倉は手を動かしながら笑って答えた。
「ヨーコにとっては理由なんかどうでもいいんだろ」
畦倉の口から「ヨーコ」という言葉が出てきたので一瞬どきっとした。しかしそれがすぐに私じゃなくて彼女に向けられたものだとわかった。
私たちの目の前で、畦倉の両腕は優雅な線を描いて上下し始めた。その静かで無駄のない動きに、私はしばし見惚れた。
やがて彼は銀の容器の蓋をとって、グラスに液体を注ぎ込んだ。その縁をさっとなぞっていく。
「ご明察」
隣でヨーコさんがうっとりしたような声を出す。
「いつだって、何があったって、君はこのカクテルだ」
畦倉の手によって彼女の前に差し出されたのは、薄黄色に濁ったシャンパングラスだった。縁に、何か白い物がびっしり付着している。
彼女の指は実に嬉しそうにそのグラスに絡まった。グロスの塗られた艶やかな唇が、静かにグラスの縁につけられる。そっと瞳が閉じられる。
一口飲んで、彼女は目を開いた。視線の先で畦倉が微笑んでいる。二人の間に凝縮された濃密な空気に、私は声を挟むことができなかった。
やがて押し黙っていた私の前にも、グラスが差し出された。シャンパングラスのような華奢なものではなく、オレンジ色の液体が満ちたタンブラーだ。ご丁寧にストローと本物のオレンジまで刺さっている。
「何、これ」
「見ての通り、オレンジジュースだ。それ飲んでさっさと帰れ」
浴びせられた言葉は、冷気を含んだような厳しさで私を貫いた。隣のヨーコさんとはえらい違いだ。
なんだか腹立たしくなって、私は彼女の手元を睨みつけながら乱暴に言った。
「私もあれと同じのが欲しい」
「駄目だ。あれはアルコール」
「お酒くらい飲めるよっ。お金なら払う」
「気持ち悪そうな顔でフラついてたくせに、偉そうなこと言うな」
図星をさされて私は黙り込んだ。するとヨーコさんがにこやかに口を挟んだ。
「いいじゃない、リュージ、作ってあげなさいよ。あなたのマルガリータ、私好きよ。彼女にも飲む権利があるわ」
「こいつクラスメイトだって言ったよな。つまりは未成年」
「いいから、ほら」
そしてヨーコさんは何やら意味深に小首を傾げて見せた。畦倉は粗い溜息を吐いて、面倒くさそうに準備に取りかかった。
その間にヨーコさんはこちらを向き直り、グラスを少し傾けた。
「ところでヨーコちゃん。この子の学校での様子、教えてくれない?」
なめらかな声まで綺麗だなと、余裕のあるその雰囲気に酔いかけていた私は、自分に向けられた視線に驚いて背筋を伸ばした。
「……そう言われても、私、その、畦倉とはあんまり親しくないし。リュージって名前も今日初めて知ったんです」
まさか野暮ったくて、暗くて、みんなに嫌われてるなんて、彼女の前では言えない。おまけに目の前でバーテンダーやってる畦倉は、立ち姿が洗練されていていつもと雰囲気が違う。教室にいるときよりずっと大人っぽいし、はっきり言って恰好いい。
なんでバーテンダーなんてやってるんだろう。高校生なのになんでお店持ってるんだろう。そして、このヨーコさんとはどういう関係なんだろう。
考える私の前にグラスが置かれた。ヨーコさんと同じ、薄い黄色の飲み物。
これはお酒。さっき私が飲んでひっくり返ったもの。でも口をつけないわけにはいかない。意地だけじゃない。私はこれを飲んでみたい。
恐る恐る口をつける。グラスの縁につけられた白いものが私の唇に触れる。
「何、これ、しょっぱい!」
即座にグラスから唇を離し、顔をしかめる。
「当たり前だ。塩をなすりつけてあるんだからな」
「塩!? なんで」
「飲めばわかる」
ニベもなくそう言われ、私は目を白黒させながら、再びグラスに口をつけた。
甘いのか苦いのかよくわからない不安定な味に、アルコールのどぎつさが絡まって、私の口の中はにわかに熱った。グラスをカウンターに置いてぐっと睨みつける。
「テキーラにコアントロー、ライムジュースを加えてシェイクする。グラスの縁をこうやってレモンでなぞって、塩をなすりつける」
説明しながら畦倉は、馴れた手付きでカクテルを作り、新しいそれをヨーコさんの前にも差し出した。彼女が目を細めてそれに手を伸ばす。
その一連の動作を見つめながら、私の頭の中ではいろんな疑問がぐるぐる回っていた。
なんで塩が塗ってあるのか、何が入っているのか、なんていうお酒なのか、そしてどこがおいしいのか。
それに、なぜ畦倉がこんなところにいるのか。ヨーコさんはいったい何者なのか。
それから、私はいったい何をしているのか。
「テキーラと塩は相性がいいんだ。それだけだよ」
畦倉の言葉が、私の中に静かに沈んでいく。落ち着いた、深みのある声。高校生だということを、私たちとは別の意味で忘れさせる。
それはこの空間とスーツ姿の美女と微かな輝きを放つカクテルが、絶妙に混ざりあって生み出している世界の賜物だった。紛れもない現実なのに、自分から足を踏み入れたのに、私はどうしても馴染みきれない。
私ひとりが浮いている、その恥ずかしさを紛らわすために、話題を変えて質問した。
「なんで国際コースになんかいるの。落ち零れの集まりなのに。あんたみたいな人がなんで」
「英語が話せるようになりたかったのよね、リュージ」
ちびちびとグラスを舐めるように飲んでいたヨーコさんが、畦倉の代わりに答えた。
「リュージはね、アメリカにカクテルの勉強をしに行くのが夢なの。ミステリー小説の影響ね」
「余計なこと言わなくていい」
「あら、いいじゃない。バーテンダーだったお父様のお店を復活させたいんでしょ。あなたにカクテルを教えてくれた、素晴らしいお父様のお店を」
そしてヨーコさんは視線を店の中にゆっくりと彷徨わせた。色褪せた感じの落ち着いた雰囲気が辺りには満ち満ちている。カウンターもテーブル席も、グラスのひとつひとつまでもが丁寧に磨き上げられていて、しっかり息づいている。
私はとうとう飲み干せなかったシャンパングラスをじっと見つめた。畦倉の作った、ヨーコさんが絶賛するカクテル。私には到底わからない、大人の味。
彼は今でさえあんなに勉強ができるのに、自分にふさわしいものを見つけ、アメリカに渡ってさらに自分を磨くつもりなのだ。そしてカクテルを作る技を極めて、より多くの人に感嘆される存在になっていくのだ。
畦倉はどんどん先へ行く。優秀な人間は、いつだってずっと高みに住んでいる。みんな、私からずっと遠いところにいる。私ひとりだけおいてけぼりだ。
「私には、できない」
諦めの滲んだ言葉が口から零れる。
「何をやっても中途半端で、今日だってキャバクラのバイトに誘われたのに、お酒飲んでひっくり返っちゃって、なんにもできなかった。ユミもリサもちゃんとこなしてたのに、あたしだけ。そもそも自分が何がしたいのかもわからないし。あんたみたいに頭がいいわけじゃないし、カクテルを作る勉強がしたいっていう夢もない。あんたはきっとこのままずっと上に上っていくんだよね。あたしだけがずっとこの場所から動けない……」
「別に、俺はカクテル作りを極めるつもりはないよ」
「え?」
突然畦倉が私の言葉を遮った。驚いた私の視線の先で、彼もまた視線を上げ、ヨーコさんの瞳を強く見つめた。
「俺はただ、ヨーコがおいしいと言ってくれたら、ヨーコだけが認めてくれたら、それでいい」
二人の絡んだ視線は、揺るぎない力によって強く結びついていた。それは決して嫌な光景ではなく、穏やかで清々しい深みのある、芳潤なつながりだった。決して割って入ることのできない、不可侵の領域。
二人のことがなぜだかとても羨ましく思えた。同時に、ひとりでいることがなんだか切なくなった。
私に向かってグラスを掲げる。
「マルガリータっていうのは発案者の恋人の名前なんですって。素敵でしょ。愛してる人に捧げるには絶好のカクテルよね」
微笑む唇にグラスが吸い寄せられる。私と畦倉の視線も。
華奢なグラスの脚に絡まる桜色の爪。艶やかな色合いが、マルガリータの淡い色にこの上なく似合っている。
「いいな、その指……」
私の口からは、知らず知らずのうちにそんな感想が漏れ出ていた。
彼女の愛に満ちた指は、私のそれとは比べ物にならないほどに伸びやかで美しい。
息をのんだまま、私は動くことすらできなかった。
そのとき、無表情に戻った畦倉がぶっきらぼうに口を開いた。
「マニキュアを塗るあんたの目、すごく真剣だったけどな。声もかけられないほどにさ」
「え?」
彼の視線は、決して私の方を向こうとはしなかった。それでも、私の存在を無視するような真似はしていなかった。カウンターを挟んで、ヨーコさんとは違う形だけど、私は確かに彼と向き合っていた。
ヨーコさんが満足しきった顔でグラスを置いた。しなやかな指がそっとほどける。桜色が残像のように閃く。
(いいな……)
唐突にそう思った。ヨーコさんのマニキュアも畦倉の夢もこの店も二人の間合も、すべてが望ましくて思わず溜息が漏れた。それと同時に、遠うと感じ諦めかけていた世界がどうしても欲しくなった。そしてそれは百パーセント無理というわけでもないんじゃないかと、楽観する余裕さえ生まれてきた。
私も、あちら側の住人になれるかもしれない。今は無理だけど、もっと本物をたくさん見ていたら、いつかきっと。
「この指? あぁ、マニキュアのこと。これ安物よ。ドラッグストアで買ったの」
ヨーコさんが小首を傾げて指をひらひらさせる。そんな飾り気のなさがきらめいて見える。
本物は何もブルーグレイの指先ばかりを指すんじゃないのだ。今、この二人を見ていたらわかる。
夜は、静かで濃厚なものだと知った。私が制服でフラついていい場所じゃない。彼らがこうして語り合うための時間だ。
それじゃぁユミは、リサは? あの店長やオヤジはどう説明できる?
彼らのことを畦倉とヨーコさんが知ったらなんて思うだろう。
いろんな疑問が私の中を駆け巡る。酔いの醒めかけていた頭が、キャパを越えたと言わんばかりに再び悲鳴を上げかける。
呆然とする視界の中で、二人は一枚の絵のように穏やかな物語を紡いでいた。