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フラついた足取りで、私はひとり繁華街を彷徨っていた。人いきれもけたたましい騒音も、何もかもが頭に重く痛い。
まさかこんなことになるなんて、ほんの二時間前までは思ってもいなかった。バイトでしくじって店を追い出されてしまうなんて。楽な仕事、いい報酬、そして高価なマニキュア。全部私の物になるはずだったのに。
あの後、かろうじて気絶という最悪の事態は免れたものの、私は店のスタッフに荷物のように控室に運ばれ、そこに放置された。そのまま二、三十分はいさせてもらえたけど、意識もはっきりしてきて動けるようになると、借りていた服を脱がされ、化粧を落とす間も与えられずに、さっさと出ていけと言わんばかりの扱いを受けた。「お酒が飲めないんじゃねぇ」と店長には苦い顔をされ、「ちょいダサじゃん」とユミには呆れられ、「私はもうちょっとやってみるから」とリサには見捨てられて、なすすべもないまま、私はただただ店を後にするしかなかった。
繁華街にひとり放り出されて、とぼとぼ駅を目指していた。胸はムカムカしたままだし頭も痛いし、おまけに恋い焦がれたマニキュアも遠のいてしまって、気分は最悪だ。
歩く毎に体力が失われていくのと同時に、自分自身の不甲斐無さに、落ち込みまで激しくなっていく。
目頭が不意に熱くなる。
思い返してみると、私はいっつもこんなだ。何をやっても中途半端でサマにならない。勉強も運動も、最初はそれなりに頑張っていた。けれど姉のように神童扱いされるほどデキがよくはなく、弟みたくインターハイに出場できるほどすごい選手にもなれなかった。全部放り投げたとたん、知力も体力もどんどん落ちていって、気がつけば落ち零れと呼ばれるようになっていた。それじゃぁとことん落ち零れ街道を突き進めばいいのに、ユミみたいにプチ家出する勇気もなければ、リサみたいにキャバクラで働ける才覚もないのだ。結局どこまでいっても宙ぶらりん。
私だってほんとはもっとちゃんとしたい。誰かに褒めてもらいたい。親はとっくに私のことなんか諦めてるし、だったら少なくとも仲のいい友達には馬鹿にされないようにしようと、一生懸命ついてきたつもりだった。精一杯真似もしてきた。
それなのにこの体たらくだ。
情けなくて悔しくて、俯いて歩いていると誰かの肩にぶつかった。「あぁん?」という鋭い罵声に顔を上げると、イマドキ「は?」って思えるくらいのチャラ男がこちらを睨みつけていた。
「痛ぇじゃねぇかよ、こらっ」
男が赤くなった顔を私にぐっと近づけてきた。酒臭さに私の頭が回る。
「ヤダっ」
そこから逃れようと、私はやみくもに腕を振り上げた。
はずみで、ブルーグレイの指先が男の顔を掠めた。
男の頬に赤い線が走る。
それを見たとたん、逃げなきゃ、と悟った。早くここから立ち去らないと、これ以上何をされるかわからない。
けれど、怖じ気づいた私の脚はその場に貼りついたまま、一歩たりとも動いてくれようとはしなかった。
「このヤロっ」
痛みを感じたらしい男の腕が、再び私を捕らえようとぐいっと伸びてくる。
そのとき、私の右手を強く引っ張る力があった。
「こっちっ」
路地裏から声が聞こえたかと思うと、私は勢いよくそこに引っ張りこまれた。固まっていた脚がそれに合わせて回りだす。
「待てっ、こらぁ!」
男の罵声が跡を追ってくる。同時に何かに躓いたような派手な音。それでも諦めそうにない足音。それが完全に遠くなるまで、私は右手を引かれたまま全速力で走り続けた。
呼吸があがって、胸が苦しくて、脚は重くて、もう死んじゃうんじゃないかと思った。やっと走ることから解放されたとき、私はへなへなとその場に座りこんでしまった。
口の中がからからに乾いて、胸のムカムカもすっかりとれて、頭もずっと軽かった。夜の空気の冷たささえ肌に心地いい。
息を整えて、立ち上がって、私はようやく右手の先を見た。
そこには見知らぬ男の人が立っていた。グレイのシャツに黒いパンツ、髪の色も黒。長めの前髪を後ろにさりげなく流している。何も言わずこちらを見下ろしているその冷めた瞳に、私は「あの……」とつぶやいたまま言葉を飲み込んだ。
いくつか角を曲がったせいで、まったく知らない場所に来ていた。どぎついネオンが輝く繁華街と違って、ここには店から漏れ出る微かな光しかない。
「ここ……どこ」
不安に駆られて独り言のように呟く。
「俺の店」
返事が返ってきたことに驚いて、私はもう一度その男を見つめた。
「ここをまっすぐ行って、二つ目の角を右に曲がったら駅に出る」
それだけ言って彼はその店の中へ入っていこうとした。
「あ、あの!」
私は慌ててその後ろ姿を引き止めた。
「何」
彼が振り向く。淡い光に照らされたその顔に、どこか見覚えがある気がした。
けれど思い出せない。
「なんだよ」
苛立ちを湛えた彼の声まで、どこかで聞いたことがあるような気がする。
さっきまでお酒に苦しめられていたことも綺麗さっぱり忘れて、私は尋ねた。
「あの、あなたの店、入ってもいい?」
「ここはキャバクラでもコスプレ店でもない」
彼の機械的な口調に、私はケバい化粧を落としてなかったことを思い出した。おまけに学校帰りの制服姿ときている。確かに、こんな静かな雰囲気の店にこの私じゃ不釣合だ。
結局どこまでいっても私というヤツは中途半端なのだ。行きたいところにも行けない。そもそもどこへ行きたいのか、何が本当はしたいのか、そんな単純なことさえわからない。何ひとつ見えやしない。
泣きそうになりながら私は深く俯いた。ふらふらした感覚は全速力で走っていた間に完全に抜けてしまっていた。ただどうにもできない悲しみだけが私の全身を覆っていた。
ここを立ち去ろう、そう思い、私は踵を返して教えられた道を見つめた。薄暗い路地は不思議と恐くはなかった。ただ、悲しみで霞んで見えるだけだった。
「……特別に入れてやるよ。クラスメイトの誼だ」
私ははじかれたように振り返った。階段のステップに立つ彼を凝視する。
クラスメイト、彼は確かにそう言った。頭が目まぐるしく回転する。反射光がぱっとはじける。
そして、記憶がつながる。
一つの結論に達したとき、まさか、と思った。あいつがこんなところにいるはずない、と。
畦倉がこんなところにいるはずない。
だけど、あの前髪を野暮ったくたらして、ダサイ眼鏡をかけて、紺色のブレザーを着せたら、左隣の男子生徒になってしまう。
「来いよ」
スマートな動作で店の扉を推す。あまり聞いたことはないけど、その声色は思い出してみれば確かに彼のもの。
疑問を抱きつつも、私は吸い寄せられるようにその店に足を踏み入れた。