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 共働きのリサの両親は帰りが遅い。

 外でフラつくのもなんだかなぁというとき、だから彼女の家は私たちの恰好の居場所になる。万が一両親が戻ってきたとしても私たちにひどく寛容だ。最もリサに言わせると「とっくに見限ってんだよ」ということだけど。それは私にもおもいっきり覚えのあることで、だから私たちは親友なのだ。

 久し振りに会うユミはちっとも変わってはいなかった。相変わらず金髪で、相変わらず片方にえくぼがあって、そしてそのよく手入れされた指先は、完璧なまでの綺麗な色に染まっていた。ブルーともシルバーとも思える、不思議な発色のマニキュア。光線の加減で揺らめくような謎めいた陰影ができあがる。

 私の目はそこに釘付けになった。

「ちょっとユミ、これ綺麗じゃん。どこの?」

「ふふん、いーでしょ。ベルサーチのお店で見つけたんだ。今持ってるからヨーコにも貸したげるよ」

 言いながらユミは化粧ポーチの中からマニキュアを取り出した。ぱっと見では読めないイタリア語が、その小さな容器にもちゃんと書いてある。

 私はどきどきしながらすばやく自分のマニキュアを拭き取り、試しに左手の人さし指にそれを塗ってみた。デロリとした質感は、やがて微妙な輝きを含んだブルーグレイに変わった。

「おぉ、さすがベルサーチ」

 隣でリサが目を丸くする。私は嬉しくなって、両手の指全部にそれを塗った。

「ユミ、これ高いんじゃないの?」

「そんなことないよ。たかがマニキュアだし。それに私、最近バイト始めたからさ、けっこうリッチなんだよねー」

 私が尋ねると、ユミはリサと顔を突き合わせてにんまりと笑った。

「そのことなんだけどさ、店長に友達つれてこいって言われててね。リサにはもう話したんだけど、ヨーコもどうかと思って。すっごく楽なんだよ。にこにこ笑って座ってて、適当に話してればいいんだから。それですごくお給料はいいし。ティッシュ配りやコンビニバイトなんてもうやってらんないよ」

 ユミの話し振りからどういう種類のバイトかはすぐに察しがついた。私の指先が徐々に乾いていく。

 私は顔を上げ、もうひとりの親友を見た。唇をわずかに綻ばせながらリサは頷いた。

「うん、ちょっとくらいならいいかなって。だってさ、すっごいお金になるらしいよ。それに夜だけだからさ、昼間は学校行ってれば親とかにはバレないと思うし」

「ふーん」

「ね、ヨーコ、今晩さ、覗くだけでもいいから来てみなよ。すごく楽な仕事だよ。それでお金貰えて、もうこんなコスメ系、なんだって買えちゃうんだよ。百均とかコンビニとかのチャチなマニキュアなんて、ベルサーチのとか使ったらもう使えないよ。だってほら、こんなに綺麗なんだよ。ヨーコにすごい似合ってんじゃん」

 私の指先はもう完全に乾いていた。角度を変えると、深みのあるブルーが目立つ。光にかざすと涼やかな銀色。

 それはもう自分の指とは思えなかった。雑誌で特集されてるネイルみたいだ。私の指もこうして見ると、なかなか捨てたもんじゃない。

 大事なのは指の形なんかじゃない、マニキュアの質なんだと、私はようやく気づいた。どんなに品行方正に生きたって、安い物を身につけたんじゃいつまでも安っぽい人間のままだ。見た目も中身も普通の私たちは、高価な物で飾り立てることによって、ずっと綺麗になれる。それで世の中が楽しくなる。

 そのためにはどうしたってお金が必要だ。

 私が呟くと、ユミが瞳をぱっと輝かせた。

「そうそう、みんなでさ、じゃんじゃん稼ごうよ」

「あー、私、どーしても欲しいバッグあったんだよね、コーチの新しいヤツ」

 リサが雑誌に手を伸ばしてページをめくっていく。私もユミも顔を突き合わせてそれを覗きこむ。

 欲しい物は手に入れてこそ楽しい。私の指もきっとそれを待っている。

 時計を見ると五時半だった。約束の夜が待ち遠しかった。



 背はまぁまぁ高いけど頭のてっぺんがやばい中年親父が、どうやらそこの店長らしかった。開店の一時間以上も前に私とリサがユミによって紹介されると、店長はまくしたてるように言った。

「大丈夫、難しいことなんてなぁんにもないから。ウチは客層がよくてね、みんな優しい人ばっかりだし。今日はユミのヘルプってことで、三人一緒に出てくれてかまわないよ。あぁ、もちろん、バイト代出すから」

 人なつっこい、それでいていけすかない店長の笑顔に、私とリサは顔を見合わせた。

「ただ見てるだけってのも変だよねぇ、やっぱ」

「そうだね」

 私が頷くよりも早く、店長が「じゃぁ決まりね」と手を打った。

「衣装も化粧品もあるから奥で準備してきて。ユミ、頼んだよ。あぁ、それと二人ともユミと同じく“二十歳”ってことで通してよね。後は適当でもいいから」

 話がまとまると店長はさっさと踵を返し、ほかのスタッフに檄を飛ばしはじめた。

「二人とも、こっちこっち」

 小うさぎのようにぴょこぴょこ跳ねて、ユミは奥の扉を指差した。狭い廊下の先に控室らしきものが見える。

「おっはようございまーすっ」

 ユミがドアを開くと、そこにはすでに数名の女性がいた。メイクをしたり畳のあるスペースで寝っ転がったり、煙草を吸いながら雑誌を読んでいる人もいる。

「おはよう、あれ、友達?」

 メイク中の女性が明るく挨拶を返してくるのに合わせて、私もリサも頭を下げた。

「そうなんです、今日から二人ともここでバイトするんです」

「へぇ、そう、よろしくね」

 そうしてその女性はまた鏡に向かってアイラインを引きはじめた。

 ユミの指差した方にはレストルームがあった。私たちはいったんすっぴんになってから、鏡の前についた。

 いつものとおり、手持ちのDHCの化粧水と乳液をぺたぺた染みこませて、ジェル状の美容液をたっぷり含ませてから下地を伸ばしていく。動いていくブルーグレイの指先に、私は鏡越しで何度も見惚れた。

(もうすぐ、この指が完全に私のモノになる―――)

 コントロールカラーに続いてシャネルのファンデを塗りたくり、アイシャドウも気合をいれて三色遣いにした。半分消えた眉を丁寧に描き、ツケマをつけてから瞼をひっぱりアイラインをさっと引いていく。いまどきこってりのメイクは受けが悪い。かといって湯上りってほど白々しくするのも私の好みじゃない。

「ルージュは絶対こっちの色の方がいいよ」

「でもなんかオバサンっぽくない?」

 隣ではユミのアドバイスにリサが難色を示していた。

「全っ然問題ないよ。お店が少し暗くなるからこれくらい明るい方がいいって。どーしても気になるんだったら、ほら、このピンクのグロス貸したげるから。オリジンだよ」

 喜々としてメイクに興じるユミはコスメ大好きというだけあって、抜群に手際がよかった。リサはどっちかっていうと服やバッグにお金をかける方で、ブランドの新作情報にとにかく精通している。そして私が一番好きなのはやっぱりマニキュアだ。口紅よりもいろんなシャドウよりもずっと色とりどりでかわいいし、好きなようにアレンジできる。昼間のようにオレンジと銀ラメでポップな感じにもなれば、今みたいにぐっと大人っぽくもなれる。

「ねぇ、リサ、マニキュア塗ったげようか?」

「何、ヨーコがやってくれるの?」

「うん、ユミ、さっきの貸してよ。三人でお揃いってなんかかわいいじゃん」

「そうだね、それいい、ちょっと待って」

 そしてユミは手元のポーチをひっくり返し、例のマニキュアを取り出した。

 私はそれを丁寧にリサの指先に塗っていった。爪に色を落とす瞬間はいつも周りが無音になる。私も息を殺して、ひたすら目と指先だけに神経を通わせる。

 十本の指が、しなやかな光を放つブルーグレイに染まる。それだけで幸せな気持ちになれる。

「それ、綺麗ね」

 いつのまにか先程の女性がこちらを覗き込んでいた。私たちはそれぞれに指をぴん、と伸ばし、顔を突き合わせてにんまりと笑いあった。



 胸元にファーのついたノースリーブの超ミニワンピは、光るようなピンク色がユミの白い肌にとても映えていた。私とリサは店にある服を取っ換え引っ換えして、どうにか見られる形に作り上げた。背の高いリサはゴールドのチューブトップに黒い革のタイトスカート、足もすこぶる長いので網上げブーツもしっかりサマになっている。私にあてがわれた衣装はトップスがスキッパーになっているツーピースだった。ブラの跡が透けるくらい薄手で、燃えるような赤い地に白のストライプと黒いドットが散っている。足元は白のサンダル。華奢なアンクレットが、足首をぐっと細く見せてくれているはず。

 フル装備で店長の前に出ると、胸元を指され、「ボタン、もうひとつ開けて」と注意された。雰囲気に完全に飲まれていた私は無言でその指示に従った。

 開店前に簡単に紹介されると、息を吐く暇もないまま客がやってきた。似合いもしない柄モノのシャツに麻のジャケットを羽織った小肥りのオヤジと、対照的にひょろりとした地味な印象のオヤジ。次に手首にじゃらじゃらブレスレットをつけた、若い男。ごく普通の身なりのサラリーマン。女の客もいた。年寄りも。次々に女の子が舞い散り、テーブルが埋まっていく。

「ユミ、―――さんのとこ行ってよ。三人一緒でいいから」

 借りてきた猫みたいにおとなしくしていたリサと私は、店長のその言葉で、ぴん、と背筋を伸ばした。舌ったらずの声でユミが「はぁい」と返事する。

「ラッキーだね、―――さんってみんなで飲むのが好きって感じで、あんまりしつこくないんだ。適当にお酒すすめて、こっちも適当に飲んでたら、一、二時間くらいで機嫌よく帰ってくれるよ」

 ご丁寧な説明も右から左へとするする流れていく。

 ビューラーでしっかり上げたぱつぱつ睫毛のリサの肘を、私は咄嗟に掴んだ。

「ねぇ、リサ、お酒って飲んだことある?」

 不安気な私の声から察知したのか、彼女は怪訝そうな顔をした。

「何、ヨーコもしかして、飲めないの?」

「え、う、ううん、まさか」

 慌てて首をふる。「だよねー、イマさら」とけらけら笑うリサを見て、私はとうとう本当のことが言えなかった。

 うんと子どもの頃、父親のビールを舐めたことくらいはある。でもそこで私の飲酒暦は止まっている。というより、これじゃぁ始まってないも同然だ。あのときの私はおもいっきり顔をしかめて、傍にあった甘いジュースを一気飲みして味を紛らわせた。

 あれから十年以上たつけど、お酒に触れる機会はずっとなかった。リサたちと遊び歩くときだって、そんなモノには手をつけなかった。

 それが、今だ。こんな場所ではどうしたって、アルコールを避けて通ることなんてできやしない。私はにわかでもキャバ嬢なんだから。

 そんな私の不安を余所に、ユミは甘えるように客の隣に滑り込んだ。

「お久し振りでーす」

「やぁユミちゃんか。しばらく見ない間にまた色っぽくなったねぇ」

 下卑た声が足元から這い上ってくる。似た感じのオジサンが二人。こいつら何物なんだろう。私はここでどうすればいいんだろう。

「―――さん、今日はね、友達が一緒なの。二人とも今日が始めてのコなんだよ」

「初めまして、リサです」

 隣でリサがトーンの高い声で微妙に腰を折った。

「ほらぁ、ヨーコも」

 ぼーっとしている私にユミが発破をかける。私は慌てて、リサに合わせるように頭を下げた。

「ダメじゃん、もう。あ、この子はヨーコっていうの。よろしくね」

「へぇ、みんな同い年?」

「そう、揃って二十歳!」

 ユミが両の手をひらひらさせたのを見て、リサも手を上げた。ついでに私の手もとっていく。

「へぇ、同じ色かあ、仲良しなんだね」

 私の泳いでいた目が、それでようやく手元に定まった。

 そうだ、私には目標がある。この綺麗なマニキュアを買わなくちゃいけない。もっともっと素敵な指にするために。誰にも負けないために。

「いやぁ、今日はこんなかわいい子三人も独占できちゃうなんて嬉しいなぁ」

 どんなに言葉を変えても、目の前のオヤジの下卑た響きは消えなかった。私はゆっくりと息をのむ。

 大丈夫、あの子ども舌の頃から十年近くたっているんだ。私だってお酒くらい飲める。リサもユミも普通にやれることを、私ができないはずがない。

 私だけが大人になれないはずない―――。

 この指が「やれる」と言う。私のことを綺麗だと。

 斜め前でユミがグラスに氷を入れていた。ふっくらした唇がけたたましいくらいに動いていく。

「やだなー、私、学生ですよぉ。専門行ってるって、この間教えたじゃないですかぁ」

「そうだっけ?」

 そういやそんなこと言ってましたねぇと、連れの男が相槌を打つ。ユミが「ほらぁ」と

頷きながら琥珀色のグラスを差し出した。

「じゃ、みんなそうなの?」

「ううん、違いまーす。私たちは高校のときの同級生なんです」

 場に慣れ始めたリサが、できたグラスを私の方に回しながら睫毛を何度も瞬かせた。たぶんこの左側の連れの人、オヤジ好きのリサの好みだ。背がまぁまぁ高くて三白眼気味で、いかにもこなれているという感じの男。リサの元カレに似てる。

 冷静に観察を続ける私の手元には、もうグラスがあった。氷がからんと音を立てて、とろりとした色合いが緩やかに広がっていく。

「それじゃ、かんぱーいっ」

 ユミとリサの明るい声が鳴り響く。オヤジたちがにこにこそれを眺める。

 リサ好みの連れの男が、ひとり乗り遅れた私を引っ張り上げる。

「あ、はい」

 返事がか細くなる。指先が氷のように冷たい。

 大丈夫、何度も自分に言い聞かせる。私だって女子高生の端くれだ。

「じゃ、飲みまーす」

 わざとらしい口調でわざとらしい笑みを浮かべて、私は一気にグラスをあおった。

「おぉ、いい飲みっぷりだね」

「ヨーコすごーいっ」

 拍手が沸き上がる。合わせてぱっと目を見開く。

 けれど次の瞬間、私の喉元がけたたましい悲鳴を上げた。

「あううっ」

 慌てて口元を抑え込む。顔が一気にかあっとなって、くらくらするくらい熱い。

「やだっ、ちょっと、誰かっ」

 リサたちの声が不協和音のようにわんわん響く。頭が締めつけられるように軋んで、意識がすっと逃げていく。

 床に倒れ込みそうになるのを防ごうと無意識に手が伸びる。その先にあるのはガラスのテーブルと、みんなが置いたグラス。

 ガシャーンという派手な音が鳴り響いた。それで逆に意識がはっきりした。けれど自分の身体は思うようには動いてくれなかった。



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