銀河の果てよりも
たたん、たたん、という小気味良い振動が身体に伝わる。まるで母親の胎内にいるかのような心地よさだ。わたしは瞼の裏に眩しさを感じて、ゆっくりと目を覚ました。
ここはどこだろう?
辺りを見回すと、列車の中のようだった。レトロな雰囲気を醸し出している座席の一角で、わたしは眠っていた。乗客は多くはないが、年齢層は幅広い。年老いた白髪の老人から、子供連れの家族まで、さまざまなひとがいる。
窓の外に目を向けると、ただ暗闇が広がっているだけだった。吸い込まれそうなほどに深い黒が、目前まで迫っている。
わたしは立ち上がって、自分の出で立ちを検めた。下着が見えそうなほどギリギリに短くしたプリーツのスカートを履き、それを隠すように丈の長いぶかぶかのセーターをブラウスの上から羽織っている。襟元には臙脂色のリボンを付け、足元は何の変哲もないシンプルなローファーだ。いつもの服装とは全く違う、派手な格好をしていた。いつものわたしは校則に従って、スカートは折らず、セーターも身の丈にあったものを着用している。それに、いつもわたしが選ぶのはリボンではなくてクロスタイだ。
どうしてわたしは今、こんな身に覚えのない格好をして、知らない列車で寝ていたのだろう。わたしは他の車両へ移ろうと歩き出した。
二つほど車両を移動すると、見覚えのある少女に出会った。
「……鷹嶋さん?」
思わずその名を呟くと、彼女は片手を挙げてわたしに応じた。手近な座席を指差して、そこに座れと促した。
ボックス席に向かい合って座ると、彼女は短いスカート姿であるにもかかわらず、大股を開いて脚を組んだ。鷹嶋さんは意味ありげに不敵に微笑むと、不意に口を開いた。
「みんなはねずいぶん走ったけれども遅れてしまったよ。ザネリもね、ずいぶん走ったけれども追いつかなかった」
「……ざねり?」
どこかで聞き覚えのある科白を吐く彼女を見上げると、彼女は手を伸ばしてわたしの髪に触れた。慈しむような優しい声で、彼女は言う。
「聞いたことないかしら? まあ、あんまり有名なフレーズじゃないのかもしれないわね」
鷹嶋さんはわたしの頬をひと撫でして、再び天鵞絨張りの座席に身を沈めた。何かを知っていそうな彼女に、おずおずと尋ねる。
「鷹嶋さんは、ここがどこだか知っているの?」
鷹嶋さんはにやにやと笑ったまま答えない。わたしはなんだか腹が立ってきて、自分の喉元を抓った。
苛々したときに喉を抓るのは、幼い頃からのわたしの癖だった。誰かにやめなさいと叱られたこともあったけど、なかなか癖は治らなかった。
……誰に、叱られたのだろう?
母親ではないことは確かだ。毎日夜遅くまで働いて、朝は早くに出て行く。一週間も顔を合わせないこともある。母親はわたしに干渉しない。もちろん父親の筈もないし、祖父母とは会ったことがない。なら、誰が?
悶々と考え始めたところで、不意に薄暗かった車内が明るくなった。
窓の外に目を向けると、蒼白い光が辺りを埋め尽くしていた。蒼白い光の中に、紅や燈がところどころ混ざり、明滅を繰り返している。まるで星空の海のようだった。
ふと、視線を感じて目線を戻すと、鷹嶋さんが目を細めてわたしを見つめていた。
「……なに?」
「千代の瞳は、銀河のようね。綺麗だわ。欲しくなっちゃう」
彼女は窓辺に肘をついて頬杖をする。意味不明な発言はいつものことなので、わたしは適当に聞き流す。
銀河、という言葉で思い出した。先ほどの彼女の科白は、宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』に出てくる科白だ。確か、列車の中で再会したカムパネルラが、ジョバンニに言った言葉だ。
「ここは銀河鉄道なの?」
鷹嶋さんは微かに顎を引いた。
「どうして、わたし達はこんなところにいるの? あの物語では、確かカムパネルラは……。鷹嶋さんは何かを、」
「千代」
鷹嶋さんは氷のように冷たい声でわたしの名を呼んだ。人差し指を立てて、わたしの唇に当てた。
「"鷹嶋さん"なんてよそよそしい呼び方しないでちょうだい。あたしとアナタの仲でしょ?」
「……みどり」
「そう、それでいいのよ」
翠は満足気に頷いて微笑んだきり、再び黙ってしまった。
ごとん、ごとん、と列車が揺れる振動が耳に響く。乗客達の低いどよめきを牽制するかのように、不意に車内アナウンスが響いた。
『次は×××、次は×××。乗り換えのため20分ほど停車いたします』
肝心な駅名がよく聞き取れなかった。列車は徐々に速度を落としてゆき、やがてぴたりと停車した。車窓から外を見遣ると、やはりどこかの駅に到着したようだった。駅名を記す看板は無く、ここがどこなのかはわからなかった。
「千代、少し休憩しましょう」
翠はわたしの手を引いて立ち上がる。一斉に出口に向かう乗客の間を縫ってホームに降りると、突風が吹き抜けた。温かいような、冷たいような、なんとも言えない生温い風だった。
翠は手頃なベンチを見つけると二人並んで腰を下ろした。
「好きよ、千代。食べちゃいたいほどに」
唐突に翠は呟いた。腿の上で手を重ね、指を絡める。彼女の手は、驚くほど冷たかった。刺すような冷たさだった。
「翠は、なにを知っているの」
半ば自棄になって尋ねる。どうせなにを訊いても返事は返ってこない。そう思っていると、意外なことに翠は答えた。
「あたしと千代の間に、なにが起きたか。わたしは知っているのよ。聞きたいかしら?」
わたしは力強く頷いた。それを見た翠は、不敵に笑った。
「じゃあ、話してあげる。でも、それだけじゃつまらないわ。……そうね、等価交換よ、千代。あたしはアナタの望みを叶えてあげるのだから、千代もあたしの望みを叶えてちょうだい」
「望み? なに、それ」
「ふふ、お楽しみよ。じゃあ、話してあげるわ。よく聞きなさい」
翠は笑みを滲ませた声で話した。
「あたしとアナタは、ある約束をした。6日の午後8時、つまり昨日ね、駅前で待ち合わせたの。どうしてそんなに遅い時間に待ち合わせたのかって、それはアナタの塾が終わるのを待っていたからよ。
時間ちょうどに集まったあたしたちは、ある場所に向かって歩き始めた。アナタは誰にも見咎められないように、いつもの学級委員長然とした恰好を変えて、今風の服装にしていたわね。最初は驚いたわよ。別人かと思ったくらいだもの。下着が見えそうなほどスカートを折って、ブラウスのボタンは幾つか外れていたわ。その上、下にはなにも着ていなくて、下着が透けていたのよ。もちろんあたしはアナタにそのセーターを貸してあげたわ。
わたし達は手を繋いで、夜の繁華街を歩いた。ひさびさのデートだもの。思いっきり楽しんだわよ。
夜も更けて、あたし達はホテルに向かった。その途中に起こってしまったのよ。暴走した車が、あたし達に向かって突っ込んできたの。詳しいことはあたしにもわからない。一瞬の出来事だったもの。
……これがことの顛末よ。如何かしら?」
翠の口から紡がれた言葉に、衝撃を受けた。
「翠、本気で言ってる?」
「あたしはいつも本気よ」
翠の表情は真剣そのものだった。でたらめを言っているとは思えない。
「じゃあ、わたし達は……。やっぱり、そうなのね」
「なによ。わかってたのなら聞く必要あったかしら?」
翠は口を尖らせて言った。わたしは翠の冷たさを肩に感じながら、呟いた。
「あの物語では、カムパネルラは現実世界で既に死んでいた。銀河鉄道はあの世への渡し舟の役割をしていた。……わたし達も、もう死んでいるのね」
言葉にすると、とてつもないほどの恐怖感や虚無感がわたしの胸を埋めた。
「千代、それ止めなさいって言ったじゃないの」
気がつくと、わたしは喉元を抓っていた。わたしは何に苛々していたのだろう。わたしと翠を殺した車?わたしが死んだことをひた隠しにしていた翠?それとも、何も思い出せないわたし自身?
再び煩悶とした気持ちに陥りそうになるのを、翠の言葉が引き留めた。
「さあ、今度はあたしの望みを叶えてもらうわ」
「……望みってなに? わたしにできること?」
翠の細い指が、わたしの肩を掴んだ。そのまま流れるように口付けられる。油断したすきに舌を割り入れられ、口腔を蹂躙された。
「んっ……、」
ふたりの唾液が混ざり合って口端から溢れた。軽やかなリップ音を立てて唇を離すと、銀の糸が引いた。
「……みどり?」
見上げると、翠は頬を上気させてわたしを押し倒した。冷たいベンチにわたしの黒い髪が広がる。
「好きよ、千代。アナタが好き。あたしはアナタを食べちゃいたいの」
再び口付けながら、翠はわたしのスカートを弄る。彼女の冷たい手が、既に濡れ始めている下着に触れた。
「いいかしら、千代」
熱っぽい翠の吐息を間近に感じて、わたしは思わず頷いていた。翠の話では、生前のわたし達は愛し合っていて、こういうことも多分していた。今さらなにを恐がっても、嫌がっても、わたし達はもう既に死んでいるのだ。なにも恐れることはない。
「好きよ、千代。愛してるわ」
「千代、そろそろ時間だわ。列車が出発してしまう」
人気のないホームの片隅で、わたしはブラウス一枚で座り込んでいた。うまく身体に力が入らない。それでもなんとか元の通りに衣服を身につけると、翠が手を差し伸べてくれた。
「最期にアナタと交われてよかったわ」
「……さいご?」
これからわたし達は再びあの列車に乗って、どこか遠いところまで行くのに、どうして翠はそんなことを。訝しんでいると、突然背後から突風が吹いた。風で捲れるスカートを抑えながら振り返ると、銀河鉄道がホームに入ってきたところだった。先ほどまでわたし達が乗っていた列車ではない。反対方向から来た列車だ。
「どういうこと?」
翠は泣きそうな表情で、眉尻を下げて儚げに笑った。
「千代はあれに乗るのよ。アナタはまだ死んではいけないの。死ぬ運命じゃないのよ」
翠は強引にわたしの手を引くと、乗車口まで引いていった。入り口では、車掌らしき人が切符を検めている。
「わたし切符なんて持ってないよ。どうして、翠も一緒に、」
「スカートのポケットの中に、あるはずよ」
ポケットを探ると、確かに一枚の紙切れが入っていた。【リバイブ】とだけ書かれた紙切れだ。
「あたしは、もともと死ぬ運命にあった。あたしの運命に、千代を巻き込んでしまったのよ。アナタはまだ生きなくっちゃ。生きて、生きて、あたしの分まで生きて幸せになって」
翠は凛とした声で、わたしを真っ直ぐに見据えて言った。彼女の星空のような濃紺の瞳が、潤んで揺れている。
「そんな、どうして、わたしだけなんて……!」
入り口の付近で押し問答を繰り返していると、車掌がわたしの切符を覧た。そしてあっという間の改札鋏が入れられ、現世行きの列車に乗せられてしまった。
「みどり! いやよ、どうして! あなたも一緒に、」
唐突に鳴り響いた発車ベルの音に掻き消される。わたしは負けじと声を張る。
「みどり、好きよ。愛してるわ! だから、お願いだから、一緒に来て!」
翠は片手をポケットに突っ込んで、傾いで立っている。反対側の拳は固く握られている。
『ドアが閉まります。ご注意ください』
車内アナウンスが響いて、ドアが閉められる。わたしは窓を開けて、身を乗り出して叫んだ。
「みどり!」
翠はその美しい瞳に涙をいっぱい溜めて、精いっぱい笑ってみせた。その笑顔に、胸が締め付けられる。翠はいつもと同じように、凛と声を張って言う。
「千代! いつまでも、ずっとアナタを愛しているわ! 銀河の果てよりもずっと、ずーっと遠いところで、アナタを愛し続けるわ!」
ついに列車が動き始めた。あとからあとから涙が溢れ、なにも言葉にできなくなる。わたしはその場に頽れて嗚咽した。
流れゆく景色の中、銀河の光だけが異様に眩しくて、わたしはその光を遮断するように瞼を閉じた。