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室内の机やイスがガタガタと派手な音を立てて倒れた。
「きゃああっ!?」
身体が床の上をザザッと滑っていく。
「ミアン!!」
ブランがあたしの体に覆いかぶさるようにして止めてくれた。
「ミアン、ケガはないか!?」
「だ、大丈夫だけど・・・これっていったい?」
慌てて起き上がろうとして、室内の違和感に気付いた。
床が、斜めになっている?
キョロキョロ周囲を見回すと、明らかに部屋そのものが大きく傾いてしまっていた。
と、いうことは・・・
あたしとブランはガバッとお互いの顔を見合わせた。
船自体が、傾いているんだ!
ふたり共、急いで船室から出ようと動き始めた。
明らかに尋常じゃないことが起こっている! すぐに確かめないと!
足に力を入れて踏ん張りつつ、斜めの床を移動して甲板に出た。
一寸も動かず、ビタリと停止している船の甲板のあちこちに、兵士や船員が倒れている。
船のヘリにつかまり、状況を確認したあたしの目に、傾きの原因がはっきりと映った。
・・・岩! 島のような大岩に船がぶつかってしまっている!
なんで!? こんな大きな岩に誰も気が付かなかったの!?
「男爵夫人!」
オルマさんが、ヘリにつかまりながら伝い歩きをして近寄ってきた。
「オルマさん! 無事だったの!?」
「男爵夫人、歌声が聞こえてきます!」
「え!? なに!? 歌声!?」
聞き返すあたしの耳に、確かにどこからか、風に乗って歌声が聞こえてくる。
聞いたことのない、不思議な響きの歌。
ちょっと誰よ! この非常時にノンキに歌なんか歌ってるヤツは!
そんなヒマと余裕があるなら、すぐに救助活動を・・・!
「セイレーンです!」
オルマさんが叫んだ。
「これはセイレーンの歌声です!」
「せいれーん? なにそれ・・・あ!」
セイレーン。海の魔物。聞いたことがある。
美しい姿と美声で、人を惑わし、眠らせ、船を座礁させる海の妖魔。
・・・そんなバカな!!
だってそれはただの伝説でしょ!? そんな妖魔が本当にいるわけが・・・!
「う・・・」
突然ブランが呻いて、ガクっと倒れ込んだ。
なにかを振り切ろうとしているように、頭を強く左右に振っている。
「ブラン、どうしたの!?」
「歌、が・・・歌が、オレの心の中に・・・」
ブランの両目がぼぅっと霞んでいる。
今にも閉じてしまいそうなまぶたを、懸命に開こうとしているのが分かった。
ほ、本当に!? じゃあこれは本当にセイレーンの歌声なの!?
あたしたち、妖魔に襲われているの!? まさか!
あたしは船のヘリから身を乗り出すようにして確認した。
・・・・・・嘘でしょ!? ほんとにいた!!
岩の上に女性が身を横たえ、朗々と歌っている。
長い長い、足先に届くほど長い、濡れ光る緑色の髪。
上半身は裸で、下半身はウロコに覆われた魚のヒレの形をしていた。
まるで作り物のような、まさに伝説で聞く人魚の姿。
とても信じられない。
いくらこの目で見ても、そう簡単に妖魔の存在だなんて信じられるもんじゃない。
誰かがタチの悪いイタズラをしているんじゃないの?
だってあの女の人、見たとこ普通の・・・
と思った瞬間、その女性があたしの方を向く。
女性の長い豊かな髪が、海風に吹かれてなびき、その顔を露わにした。
目が合って、あたしは息を飲む。
女性の顔は、まったく人間のそれではなかった。
完全に魚類の顔だ。
丸いギョロリとした黒い目。前方に大きく尖るように突き出す口元。
分厚い唇全体からのぞく、ズラリと上下に生えそろった、尖った歯。
・・・・・・美しいって、どこが!?
うわグロテスク! たった今から信じる! 妖魔決定!
「あ、でもあたし、歌を聞いてもなんともないんだけど」
「セイレーンの歌は、男性だけを魅了するのです。女性には効きません」
男ひっかけるのが趣味の妖魔か!
趣味は個人の自由だけど、せめてその対象はアジとかイワシあたりにしといてよ!
手あたり次第に種族を超えて引っかけないで!
・・・ちょっと待て。
じゃあ、あちこちで倒れてるこの男たちって、グーグー気持ちよく眠ってるだけ?
座礁の衝撃で意識を失ってるわけじゃないの?
「こら起きろ!!」
あたしは怒りにまかせ、ダン! と足を踏み鳴らした。
だらしないわね、あんたたち! それでも海の男なの!?
「メスの魚類に誘惑されて、ホイホイ乗っかってるんじゃない!」
あたしが怒鳴りつけると、急に男たちがムクリと起き上がった。
フラフラと立ち上がり、ユラユラと身体を大きく揺らしている。
そして夢遊病者のような足取りで、船のヘリに向かって移動し始めた。
・・・嫌な予感・・・なにする気?
不安な思いのあたしの目の前で、男たちはなんと、次々と海に飛び込み始めた。
うわあ!? 予感的中! なにしてんのよー!!
激しい水しぶきの音が、次から次へと響き、男たちは何の迷いもなく海へ飛び込んでいく。
あたしは慌てて、ヘリを乗り越えようとしている男に飛び付き、止めようとした。
「なに考えてんの!?」
「あぁセイレーン、美しい、きみ・・・」
「どこがよ!? よく見なさいよホラ! あれ魚! 魚だから!」
人の好みはさまざまにしても、さすがにあれは、ないでしょ!
ある日とつぜん、あんたの隣で産卵とかしちゃうのよ!? それでもいいの!?
男は凄まじい力であたしの腕を振りほどき、喚き散らしながら海へ飛び込む。
・・・・・・あぁ!
泳ごうとする様子もなく、夢見るような表情で、そのまま沈んでいってしまった。
「スエルツ王子!? おやめください!」
オルマさんの叫び声に、慌てて顔を上げる。
見るとスエルツ王子が朦朧とした顔で、ヘリに身を乗り出して海に飛び込もうとしていた。
「ダ、ダメー! 王子!」
あたしは王子の体に飛びつき、必死にヘリから引きずりおろそうとした。
「気をしっかり持って!」
「・・・セイレーン。セイレーンの歌が!」
王子は喚きながら全力で抵抗する。
なにがなんでも海に飛び込もうとして、大暴れし続けた。
その間にもセイレーンは歌い続け、男たちは次から次と海へ飛び込んでいく。
あの歌を、セイレーンをなんとかしないと!
――ドーーーンッ!!
大きな音と共に、船体全体が不意に大揺れしてあたしは悲鳴を上げる。
うわぁ!? 今度はいったいなに!?
船底のあたりの水面が激しく乱れている。なにかいる!
真っ白に泡立つ海面に見えたその正体を確認して、あたしは再び悲鳴を上げた。
サ、サメーーーー!?
でかい! ちょっとした船なんかよりも、よほどデカイ!
まるで洞穴のような、生赤い大口をパックリ開け、その恐ろしい歯を見せつけている。
サメが、船底に体当たりしてる!?
なにかに狂ったようにサメは猛り、体当たりを繰り返す。
その衝撃で船は揺れに揺れた。
ちょ、やめなさいサメ! あんただって痛いだろうに!
セイレーンの歌声が高らかに響くたび、サメはますます興奮して、ついにはその巨大な歯で噛みつき始めた。
これもセイレーンの歌声のせい!?
サメ! お前、オスだな!?




