3.黄金色のたまご
当のあたしはもちろんそれどころじゃなくって、高い空を運ばれながら、寒さと痛みと恐怖で歯をガチガチ鳴らし、あぁこれ死ぬな、ってべそべそ泣いていた。
鉤爪が食い込んでいる所だけじゃなく、馬車から落ちたり、鍋持って駆け付ける間に無我夢中で狼魔獣を振り払ったりした時の怪我がズキズキ痛くて、血はじくじく滲んでるし本当もう悲惨だった。
しばらくして意識がぼんやりしてきた頃、行く手から黄金色の光がぐんぐん近付いて来るのが見えて、あー、あの世につながるトンネルってあれかな、とか考えた直後、
――ドンッ!
力強く何かにぶつかられ、朦朧としていた意識がはっと目覚めた。同時にツァヒールが悲鳴を上げて飛び去っていく。
って、あれ、じゃあなんで落ちない……落ちたー!!
今度こそだめだ墜落死だ、と目を瞑る。けど、身体を引きちぎるような空気の摩擦が突然ふわっと緩んだ。驚いている間に、見えない何かに運ばれているようにあたしはすうっと地面すれすれを飛んで、小川のほとりの平らな岩の上にそっと降りた。
……えーっと。夢かな?
もうこれ、最初から夢だったんじゃないかな! うん、異世界とかおかしいと思ったよ、やっぱり夢だよ夢! 起きろあたし!
ぺしんと頬を叩いて痛みに悲鳴を上げる馬鹿一人。うぅ痛い……ほっぺたよりも、動いた拍子に肋骨とか腕とかなんかもう全身ばらけそうに痛いんですけど!
涙ぐんでいると、不意に胸の奥がほんのり暖かくなった。そして、
「はるか」
確かに間違いなく正確な発音で、あたしの名前を誰かが呼んだ。びっくりして辺りを見回したけど、もちろん誰もいない。幻聴かと不安になったところで、あたしの目の前、腕を伸ばした先ぐらいのところに、すうっと光が集まって黄金色の球になった。
「遥。私はテルセア、あなたと融合しひとつになるもの」
もう一度はっきり呼びかけてから、その光が微かに震えつつ語りかけてきた。えっ。テルセアってどこかで……ああ! あれだ、見込まれたら食われちゃうやつ!
咄嗟に身構えたものの、痛みですぐへなへなになる。駄目だ。もはやこれまでか……。
「融合、って……要するに、身体を乗っ取るってことじゃ、ないの? 魂を食べるって」
「違います。私達は適合する相手と融け合ってひとつの存在になることで、初めて孵化するのです。相手が受け入れてくれなければ、融合できません。このままでは、私は死んでしまいます。お願いします、遥」
訴えかける声は中性的で穏やかで優しくて、……何より、とても弱々しかった。今にも消えてしまいそうな儚さに、あたしは思わずほだされる。
「あたしがあたしじゃなくなるってことは、ないの? 見た目だけあたしのまんま、他の人間を次々乗っ取るとか、そんなの勘弁なんだけど」
「融合して間もない間なら、強く拒めば……解けます。あなたは私、私はあなた……ある意味で、今とは違う、けれど……」
声がどんどん弱っていく。あたしはぎゅっと目を瞑って考えたけど、もう答えは決まっていた。
「いいよ。よくわかんないけど、命の恩人を死なせたくない。どっちみち、あたし一人じゃここから動けなくて野垂れ死にだしね」
「ありがとう」
途端に金色の光が一回り大きくなる。しまった付け入られたか、と思ったけど、そんなあたしの心情も見透かしたように、テルセアは素早く近付いてきた。あたしの胸のすぐ前まで。
「一緒に生き延びましょう。私とひとつになってくれますか」
「うん」
迷いはなかった。一緒に生き延びよう、って言葉がとても真剣で切実だったから。
深くうなずいた直後、光の球があたしの胸に沈み込んだ。
どしん、と大きな力が身体を揺らす。皮膚、筋肉、骨や胸膜や臓器を突き抜けて行くイメージ。心臓に達し、その中へ。
こんな所が人体にあったのか、と驚いた。心臓よりもさらに深いところ。そこに、しっかりと埋まって根を下ろす。それから――光が、弾けた。
孵化の瞬間は、テルセアの、そしてテセアの、生涯一度きりの体験だ。今でもはっきり覚えてる。
金色の微粒子が瞬く間に全身に広がっていった。血液に乗って、細胞の隙間を、ありとあらゆるところへ染み込んでいく。
それはもう本当に素晴らしく幸せで、歓喜のあまり天にも昇る心地ってまさにああいうのだろう。ほんの一呼吸の間だったようにも、たっぷり数分かかったようにも感じられた、不思議な恍惚。
そうして我に返った時には、あたしは『融合者』になっているはずだったのだけど、なんにも変わらないように思えて。金色の光を思い浮かべて呼びかけてみたら、意識の中でちゃんと返事があったのだ。本来そんなこと、あっちゃいけないんだけど。
お互いちょっと困惑しながらも、意識の根幹が融合しているおかげでそれほど事態の理解に手間取ることもなく、あたし達はお互いを半身として受け入れた。その時にラグの名前をつけたんだよね。ええはい、痛々しさ全開のマイナー神話の神様ウルスラグナとかってのを!
くっ……やり直したい……!
ともあれ。無事に孵化したラグのおかげで、あたしは怪我も完治し、ついでに視力矯正もしてもらって(コンタクトは乱闘の間にどこかで落ちた)、皆のところへ戻ろうと立ち上がった。
「さて、ここからどうやって皆の所まで戻りますかね」
〈歩くしかないでしょうね〉
「えー!? さっきみたいにすーって飛んでいくとかできないの?」
〈すみません。孵化したばかりですし、融合も完全ではありませんから……〉
「そっか……うぅ、仕方ない。とりあえず東に行けば皆のいる方に近付くよね。どこか人里に出たら、『客人』ってことで役所の人が砦まで送ってくれるかもだし」
東ってどっちかな、と見渡したところで、ラグが遠慮がちに切り出した。
〈遥、あの……皆さんと合流するのに異論はないのですが、元の世界へは……〉
「あっ」
言われた瞬間、理解して立ち竦んだ。
――そうだ。あたし、もう帰れなくなったんだ。
まるで他人事みたいに、感情の痺れた思考だけで、その事実を指でなぞるように確かめる。
ラグの持っている「種の本能としての知識」のおかげで、あたしも自然といろんなことがわかった。テルセアは、この世界でしか生きていけない。あたしと融合したからって、あたしの世界には渡れない。接触ポイントにいたら、巻き込まれて消し飛ばされてしまう。
呆然としていると、胸の奥で涙の気配がした。すみません、という謝罪が言葉の形をとらずに伝わってくる。つられてあたしも泣きたくなってしまった。
「うわ、泣かないでよぉ。ラグは悪くないよ、むしろ助けてくれたんだから」
いたわりと慰めと申し訳なさが、優しい温もりになって身体を包み込む。あたしは涙を拭いて無理やり気持ちを切り替えた。今はめそめそしてる場合じゃない。
「とにかく、早くなんとかして皆に追いつこう。帰れなくなったんなら、なおさらだよ。ちゃんと二人に事情話して後のこと頼んでおかないと、死んだことにされちゃう」
〈そうですね。急ぎましょう〉
目的を決めたら、行動あるのみ。そこからは、ラグが身体能力を軽く上げてくれたおかげで、足場の悪い河原も楽々、よろけもせずに歩いていった。
道々、あたしはラグと会話しながら情報を整理した。
あの魔獣の襲撃が不自然だということ。確かに森林には野生の魔獣が多数生息しているし、人間が襲われる事例も珍しくはない。
でもあの狼のような魔獣アグルは、なわばりに近寄らない限り攻撃してこないし、侵入者には必ず警告する。
そしてまた、彼らを従えていたとおぼしきツァヒールは本来温厚従順な性質だ。おそらくウィルを狙った誰かが導師に命令して仕組んだのだろう。
だからこそ、早く皆のところに戻らなきゃならない。敵は一度の失敗で諦めるとは思えないからだ。そして……今のあたしなら、皆を助けられるかもしれない。融合したばかりで、しかも半分だけとはいえ、元のあたしにはできなかったことが沢山できる。
今までなら倒立さえ無理だったのに、宙返りだって軽々なんだから。
崖の下、遠くに人里を見つけて、あたしは道なき道を降りていく。トン、トン、岩から岩へ跳び移り、くるんと一回転して着地!
よし、あそこの人家を目指そう! おなか空いたし!!
※
あたしがラグと出会って、帰れない身にはなったもののちゃんと無事で、元気にトレッキングしてるなんて、もちろん希実も祥子も知りようがなかった。だもんで、その頃の視察隊一行は葬列みたいだったとか。
二人ともしばらく放心して、それから少し泣いたけど、その後はすぐ真剣に相談を始めたらしい。
「帰ったら、遥のお母さん達になんて言って説明しよう?」
ってことをね。いや本当、頼もしい友達ですよ!
一緒に遊びに行く予定だったのはそれぞれ家族が把握しているから、ごまかしようがない。じゃあ、来なかったことにするか、途中ではぐれたことにするか。
あれこれ考えている二人に、御者台のセンが謝った。助けられなくてすんまへん、って。その声があんまりにも深刻だったから、祥子はつい、励ましたんだとか。
「センさんは何も悪くないですよ! あたしと希実を守ってくれたじゃないですか! あんなことになるなんて、誰も予想できなかったんだし」
「ああ、ほんま優しいなぁ、ショウコはん」
センはわざとおどけた返事をしようとしたけど、涙で語尾が揺れて上手く言えなかった。それまでにもセンは、祥子のこと、優しいとかしっかり者だとか細々と褒めてたから、そのふりをしようとしたんだろう。
余談だけど、あれは明らかにお世話係としてのリップサービスを超えてたね。あたしがアワジ村でアリッサにセンのことを「惚れっぽいから気を付けて」って言ったのはまんざら嘘でもないのだ。さすがに十四歳に熱を上げるとは思ってないけど。
それはさておき。センの下手な取り繕いに、希実はこの時点ではっきり不審を抱いたらしい。まさかこんな、ってつぶやきを聞いてたせいもある。
ただこの時はまだ追及せず、祥子に調子を合わせておいた。死んだと決まったわけじゃない、遥は強運の持ち主だからきっと無事だ、帰還に間に合わなくても捜索はしてほしい……って感じで。
そうしておいて、希実は密かにセンの言動を観察し続け、二人きりになる機会を捉えて警告したのだ。
「祥子を騙さないで」
「えっ? なに言わはるんですか、騙してなんか」
「優しさに付け込んで、何も知らない祥子にいい人扱いしてもらって、それで許されるとでも思ってるの? 遥を死なせたくせに」
「――っ!」
鎌をかけられて見事にひっかかったセンは、希実にとことん容赦なく責められたらしい。
いやー、ほんっっまに、あの時のノゾミはんは怖かった、と後日しみじみ述懐してくれた。女の人らは観察力があるて言うけど、皆あんなんやったら僕、絶対に浮気せんよう気ぃ付けんと……なんておどけてから、彼はふっと悲しそうにつぶやいた。
「ぐうの音も出まへんでしたわ。古傷つつかれて、今さらウィル殿下に恨み抱いて、失敗してもかまへん、せいぜい王族同士身食いしたらええんや、とか捨て鉢なこと考えて……そないな私怨に、何の関係もあらへんハルカはんを巻き込んだのに、その友達の前で善人ぶって。最低な卑怯者、って非難されたんも当然や」
もういいよ、ってあたしが言ったから、センは謝罪の言葉は繰り返さなかったけど、とても痛々しい笑みを浮かべた。
根が優しくてお人好しで、自罰的なんだよなぁセンは。だから、希実に罪を暴かれた後、思い詰めちゃったんだろう。残念ながら、間違った方向に。
――犠牲を出しておきながら途中でやめるのは許されない、って。




