15.おぞましくも幸福な結末
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ソアンさんとティナさんのお店は、店主急病につき閉店、の紙が貼られていた。美味しいごはんのお店が一軒減ってしょんぼりですよ……。
そしてあたし以上にがっかりしたのは、導師さんだった。あの後、だいぶん遅れてやってきた導師さん達が目にしたのは、泣きじゃくるあたしにしがみつかれて途方に暮れるウィルと、そのまわりをウロウロ歩き回るマイアちゃん、そしてその辺で寝そべって落ち着くのを待っているニケ、というよく分からない光景で。
とりあえず、件のテセアは自決したというものすごく適当な説明を受けてその場は引き下がったものの、一夜明けてウィルの部屋に押しかけ、詳しい話を聞くなり錯乱号泣してしまった。
「殿下ぁぁ!! どうして、どうして捕まえて下さらなかったんですか! 完全体のテセアなどまともな観察記録がほとんどないのですぞ!? せめて我々が到着するまで、交渉を引き延ばして下さったなら!! 世にも稀なる現象を観察することがっ、できたというのにぃー!!!」
かぷっ。
導師さんと一緒に部屋までついてきたマイアちゃんが、慣れた様子で頭をくわえる。うわぁ。あれゴン太専用のしつけじゃなかったのか。
ウィルもさすがに疲れているらしく、胡乱な目で魔獣の無邪気な顔を見やり、軽く手を振った。
「……ご苦労。帰って良し」
はーい、って感じの可愛い声が聞こえそうな仕草で、マイアちゃんは導師さんをくわえたまんま、たしたしと廊下へ出ていく。衛兵さんが「うぉッ!?」って奇声を上げたけど、聞かなかったことにしてあげよう。
導師さんが帰ると、あたしとウィルは揃ってはぁーっと深いため息をついた。うん、本当もう……色々疲れた。ゆうべのあれは衝撃的すぎた。
ウィルが執務机に両肘をついて、顔を手でこする。なんとか気力を立て直し、あたしの方に目を向けた。ちなみにあたしは来客用のソファに沈没中です。だらり。
「具合はどうだ」
「あー……うん、まぁ、なんとか落ち着いた感じ」
漠然とした問いかけに、あたしも曖昧な答えを返す。ラグのことだというのは、説明されなくても分かった。
「昨夜と今朝と、色々話し合って、……うん、なんとかこのまんま行けるといいね、って結論になったから。大丈夫」
ね、と胸の中で呼びかける。ふわりと暖かい気配が心を包んでくれた。
テセアの究極の幸せ。それがあれだというのは、あたしもラグも合意した。でも、じゃあ、自分達があそこへ到達したいか、ということになったら。
〈……巻き込めないもんね〉
〈はい。私と遥が融合してしまうだけなら良くても、ウィル殿下を……あるいは誰か他の人間を、あんな風にはしたくありません。テセアとしては異常ですね、私は〉
ラグは少し悲しそうに、そう認めた。ラグの考えでは、あたしとラグが完全に融合した場合、それは二人の人格が消えてしまうのではなくて、“どちらでもある”人格へと変化するだけだから、『遥』が存在しなくなるわけではない……らしい。
あたしとしては、やっぱりちょっと怖いし、実際やってみるまでわからないのに、ああそうでしたか、って納得はできないけど。
それは置くとしても。
〈伴侶になったら、人間のままでは得られない幸せを得るっていう……それは、テセアの視点では確かにその通りなんだけど〉
〈言い換えれば、伴侶は人間としての存在から逸脱してしまうからこそ、その幸福を得られる。その人本来の人生を奪い取ってしまうことになる。それが悲しむべきことなんだと、私はあなたに教わりましたから〉
消えたくない、人間でいたい、忘れたくない。そう言って『遥』であることにしがみつくあたしの心を、半分融合した心でもって、ラグは理解してくれた。あたしがテセアの心を理解したように、ラグも人の心を理解してくれたんだ。
あたしはうんと伸びをして、沈んだ気分を追い払った。作り笑いを浮かべると、自然と心も明るくなって、本物の笑顔に変わっていく。
「ウィルも安心してよ。……まぁ、完全融合しないままでいようと思ったら、相変わらずごはんいっぱい食べなきゃいけないから、食費の心配はしなくちゃならないかもだけど」
あはは、と笑いかける。するとウィルは、何を思ったか眉をひそめ、椅子から立ってこっちへやって来た。なんですか、また「おまえの平気は信用ならない」とか言うつもりですか!
身構えていると、ウィルは立ったまま難しい顔でじっとあたしを見下ろしてくれた。えーと。観察されてるんですかね、これは。
「本当に大丈夫か疑ってるの? ラグにも証言してもらおうか?」
「……遥」
うっ。なんだか久しぶりに名前が重いですよ! なんですか、疑り深いな! そんなに確かめるように呼ばなくたって、あたしはちゃんとあたしのままでいるよ!
ついファイティングポーズを取ったあたしに、ウィルは小さくため息をつく。失礼だな君は! とか思ってたら、珍しくウィルがあたしの隣に腰を下ろした。
本当にどうしたの、なんか様子がおかしいよ。
あたしは構えを解いて首を傾げ、大事な話でもあるのかと良い子で待つ。そうしたら、いきなりウィルの手が伸びてきて。
――え。
なにこれ。
ぎゃー!! 顔、顔近い! 近い近いちか……っ!?
思わずぎゅっと目を瞑った瞬間、唇と唇がほんのわずか、触れ合った。その隙間から、フッ、と息を吹き込むようにして送り込まれたのは。
雨。
冷たい雨と涙。静かに降り続く。
濡れて冷え切った土と、古い石。悲しみと苦しさと、仄暗さ。
決して甘くも柔らかくもないのに、塩からくて苦いのに、なぜかそれは信じられないほど美味しくて。
複雑に折り重なった暗がりと悔しさ、海水の味の底まで潜っていくと、極上の蜂蜜のような甘さとかぐわしさがひとすじ、密やかに控えめに、優しく舌に触れ喉を降りていく。
あまりのことに、気が付いたらあたしはソファに沈み込んだまま腰を抜かしていた。ウィルはもう立ち上がって、数歩離れて様子を見ている。
「なん、で……っ」
かすれ声が漏れたと同時に、涙が一粒こぼれた。それきり言葉が続かず、あたしは口に手を当て、目を瞑って余韻を味わう。
ああ、なんて美味しい。深くて、命に満ちて、魂に沁みる……
しばらくしてようやく感動が引いていくと、あたしは深く息を吐いてゆっくり目を開けた。濡れた睫毛をぱちぱちさせて、疑惑のまなざしをウィルに向ける。変に感情的になったら恥ずかしくて死にそうだから、敢えてあたしは冷たい口調を装った。
「半融合のままでいくって宣言した直後にこれって、いったいどういうつもり?」
「宣言したからこそだ。……どうやら、ラグとの融合が進んだ様子はないな」
「ちょっとウィル、まさか思い付きで実験してみたとか言う!? なんて危ないことするの!」
「実験のつもりではない」
ウィルはそこまで答え、やや迷ってから、またソファに腰を下ろした。あたしの隣ではあるけど、今度はちょっと間を空けて。
「ラグと話し合った結果、極限状態になっても私を食べるまいと決めただろう。違うか」
「っ、なんで!? ウィルってば実は心が読める異能持ち?」
「おまえの態度が露骨なだけだ」
おぅふ。今日も絶好調に容赦ないですね!
胸を押さえたあたしにお構いなく、ウィルはやれやれとばかりのため息を浴びせてくれた。
「あのテセアの末路を見たなら、おまえが私を巻き込むまいと決心することぐらい容易に想像がつく。だからこそ、現状を維持しようと決めたんだろう。どんなに空腹でも、誰かを伴侶にしてしまうことがないように、人の命を口にすまいと」
「……本当に読心術が使えるでしょウィル。やだー覗き魔―」
「真面目に聞け。私はおまえを生かすために、命をくれてやってもいいと言ったんだ。飢餓の極限まで我慢した挙句に見境をなくしたおまえに丸呑みされて、当のおまえは完全融合して人格を失うようなことになれば、何をしているか分からんだろうが」
「うっ……ごもっともだけど、でも」
「半融合の状態を維持するためにこそ、必要な食事は摂ればいい。そう言ってもどうせおまえはごねて渋るだろうから、問答無用で食べさせたんだ。分かったか」
「……はーい……」
なんでお説教されてるんだろう。微妙に理不尽。
でもとにかくウィルがあたしを心配してくれたのはよく分かったから、おとなしくうなずいておく。本当に、なんでウィルはこんなにあたしを大事にしてくれるんだろう。謎だ。
それを直接訊くのはなんだか、素直に答えてくれそうにない気がして、あたしはおずおずと別の質問を投げた。
「ねえウィル。それでもさ、もし……もしもだよ、うっかり食べすぎて、とか、何か別の理由とかで、あたしがラグとすっかり融合しちゃったら……どうする?」
ウィルは数秒あたしを見つめた後、いたって真面目に考えながら答えてくれた。
「とりあえず王宮から放り出して学院に移すことになるだろうな」
「ひどっ!?」
「何がひどい。完全にテセアになってしまったら、おまえはもう『客人』ではなくなる。身柄の保護は王宮の管轄ではなくなるし、衣食住を確保したければ学院の世話になるしかなかろう。むろん、珍獣扱いが嫌なら逃げ出すのもおまえの自由だがな」
「うぐぐ……ごもっともだけどさ、正論だけどさ、そこに友情はないのかな!」
「その時にはもう『遥』ではなくなっているんだろう?」
しまった地雷踏んだ。
凍りついたあたしに、ウィルは動揺の欠片もない冷徹な目をくれてから、一言付け足した。
「まあ一応、改めて友人になれるかどうか試してはみるが」
「――っ!!」
うわぁん! 何回あたしを泣かす気だこいつは!!
思わずあたしはウィルにがっしと抱き着いてしまった。前にドン引きされたことを思い出して後悔した時には、意外にもハグを返されていた。わあ!
感極まって言葉が出て来なくて、聞き取りにくい涙声でなんとか「ありがとう」と伝える。あたしの背に回った腕が、ぎゅっと強く抱きしめてくれた。
「礼を言うのは私の方だ」
「あたしはなんにもしてないよぉ」
「馬鹿」
「何それ。お礼の次は罵倒とか、ほんと分かんない」
「分からなくていい」
「あー!? 馬鹿にするなぁ!」
苦笑いで腕をほどき、肩を小突いてやる。ちょっと笑ってからふと、ある思いが胸をよぎって笑みを消した。ウィルがどうしたのかと目顔で問いかけてくる。あたしはごまかすように頭を掻いた。
「……こういうのも、テセアにとっては不自由なのかもね。分からなくていい、なんて言われて、言葉で伝えてくれなきゃ本当に分からないっていうのが、……不便で不幸なんだろうね」
あたしがしんみりしたので、ラグがふよんと宙に現れた。心配そうに金色の光を明滅させて、慰めてくれちゃう。
「私はあなたと言葉で伝え合うのを、不幸だとは思っていませんよ」
「ありがとう、ラグ。でもあたし達はさ、半分でも根っこが融合してて心が通じてるじゃない。普通の人間はそうじゃないから、話し合わなきゃならないんだけど」
途中で口をつぐんだあたしの後を、ウィルが引き取ってくれた。
「言葉を尽くしたところで、伝わらないものは伝わらない」
「うん。……昨日、つくづく痛感したよ。あんなに言っても駄目だった」
「聞く耳を持たない相手には理解されない。理解しても、妥協し受容するつもりがなければ歩み寄れない。それは不幸であり、だからひとつの存在になることこそ幸福なのだ、というのがテセアの価値観なのかもしれないが……それを人間の言葉では『侵略』と言うんだ」
ウィルの声は静かで穏やかだったけれど、ラグはびくっと竦んで、テーブルの下まで沈んでしまった。あたしは心の中でラグを慰めつつ、苦笑でウィルに返す。
「でもテセアの言葉では『愛』なんだよ。情だったかな?」
「話にならないわけだ」
「本当にね。分かり合えないからいいってことも、あるんだけど。そういうの、ラグはちょっとずつでも実感してくれるといいなぁ」
だって。
さっきウィルがあたしに食べさせた時。あのやり方をしたのは、ティナさんとソアンさんのを見ていたからだろうし、あたしが自分で手を伸ばして白玉を取ろうとしないんだから、他にどうしようもないと判断したんだろうけど。
あれ、うまくいかなかったらものすごく気まずいことになってたと思うんだけど、その辺はどう考えてたんですかねウィルさん。
――なんてことが気になっちゃうんだけど、これは絶対、訊かない方がいいことだと思うし。
分からないままにしておいた方がきっと、平和だよね。
「何をニヤニヤしているんだ」
「分からなくていいんですよーだ」
気持ち悪そうな顔をしたウィルに、あたしは同じ台詞をお見舞いしてやった。ああ、おなかがすっかり満ちてるって幸せだなぁ! ごはんを食べて満腹なのとは違う、心も体もエネルギー充填ばっちりな感じ。
おっとそうだ。あたしは思い出して、ウィルのおなかの辺りを見つめた。
きれいな白玉がふわりと浮かんで見える。……目立った変化はないみたいだけど、どうかな。
「それよりウィル、気分はどうなの? さっき結構しっかり食べちゃった気がするけど――あ、ごちそうさまでした――だるいとかぼんやりするとか、変な感じはない?」
「特に異状はないな」
「ならいいけど……なんていうか、単に生命力を食べるっていうのとは違う感じなんだよね。その人の記憶とか感情とかも一緒に取り込んでるみたいなの。だから、身体はどうもしなくても、ほかのところに影響出てくるかもしれない。ちょっとでもおかしいなと思ったら、教えてね。治せるわけじゃないけど、あたしの方でも気を付けるから」
「記憶や感情?」
おや。氷の王子様がたじろぎましたよ。あたしはわざと間を置いて怖い想像をさせてから、教えてあげた。
「具体的な記憶が見えるわけじゃないよ。ウィルのは冷たい雨の味がしたなぁ。ゴン太の糸くずは深い森の奥の露みたいな。漠然としたイメージだけどね」
「……そうか。いや、今は自覚できるほどの変化はないと思う」
ウィルは珍しくも逃げるように言って、そそくさと立ち上がった。
そろそろあたしもお暇しよう。座り心地のいいソファに別れを告げて、いざ帰らん。
「それじゃ、あたしも部屋に戻るね。ウィルはお仕事あるだろうけど、疲れてるんだから無理しちゃ駄目だよ。学院から誰か来たら、あたしが後で導師さんに色々まとめて報告するからって言って追い返していいからね」
「頼む。……しかしあの現場に誰も居合わせなかったのは不幸中の幸いだ」
「えぇ? 誰もいなかったから余計な仕事が増えてるんじゃないの? そりゃまあちょっと衝撃的な光景だったから、導師さんとか感激のあまりおかしくなったかもしれないけど」
首を傾げたあたしに、ウィルは頭が痛そうな顔で唸った。
「その程度で済んだはずがないだろう。あんな、おぞましい幸福を見せつけられたら、どこぞの馬鹿がおまえの伴侶にしてくれと毎日土下座しに来るぞ」
「あー……それは確かに。っていうか、おぞましい、はないでしょ。ちょっとひどくない?」
「見た目は光り輝いていたかもしれないが、実態は人食いが大の男を丸呑みしたんだぞ。おぞましくなくて何だと言うんだ」
ウィルが心底げんなりしているような声を出したもんだから、あたしはつい、尖った皮肉でぷすっと刺してやりたくなってしまった。
「それを言うなら、あたしも大概おぞましいんですけどー?」
「そうだな」
待てやコラ。とあたしが突っ込むより早く、ウィルは驚くほど人間らしい苦笑を見せた。いつもの、人外じみているほど整ったきれいな顔の印象を、すっかり消し去るような笑みを。
「それが幸福なんだから救い難い」
「…………」
えーっと。
うん。
ごめん無理。
例によって叫びを上げて、あたしは部屋を飛び出した。進歩がないって言うな! 無理なもんは無理なんですー!!
〈何やってるんですか、遥……〉
〈しょーがないでしょおぉぉ!?〉
本当に! なんであいつは!! ああなんですか!!!
部屋に戻って枕を壁に叩きつけ、腹の底から一声、
「ウィルのばか――!!!」
叫んですっきりしたのも一時のこと、後日この絶叫がいろいろとおかしな尾ひれをつけて、王宮の皆さんの間で噂されることになるのだけど。
もう知らない!
(終)




