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12.やられっぱなしじゃない


〈すみません、遥〉


不意にラグの声が届いた。泣いてるような、震える声。


〈ラグが謝ることないよ〉

〈でも……私は、私では、あのひとの言うことに何ひとつ異を唱えられなかった。あなたが全力で拒み、戦っているのを、ただ見ていることしかできませんでした。私だって、こうして『私』として『あなた』と話せることが嬉しいのに、それでも〉

〈泣かないでよぉ、あたしまで悲しくなっちゃう〉


 それってつまり、あたしがあたしであり続けることにこだわれば、ラグを不幸にしてしまうってことだ。こうして別々の存在であることを肯定しているのも確かだけれど、ラグの本能は完全な融合を至上の目的としているし、それを達成することが何よりの幸福なんだから。


 ふっと目の前が暗くなった。力が抜けてがくんと座り込む。あ、やばい。悲しいとか言ってる場合じゃなかった。


 おなか空いて動けない。


 そうだよ、お昼結局食べてなくて、ずっとあいつ追いかけてたんだもん。マラソンランナーでもないあたしが、ずっと息切れもせず走り続けられるように、ラグが身体強化して。

 ニケに乗るのだって、まともな人間だったら振り落とされる。自力で翼を出して飛ぶよりは楽だけど、それでもラグの力に頼ってる。

 しかも。あたしはずっと、触手を出しっぱなしだったのだ。あいつの触手がほどけた時に、あたしのも一緒にしまったけど。それまでずっと、縛られていたせいで戻せなかった。


「くっそ……やられた……」


 罵る声も力がない。ああくそ、してやられた。

 話があるのに逃げ回って無駄に追いかけっこさせたのは、これが目的だったんだ。あたしを腹ぺこに追い込むこと。

 そうすれば、あたしが見境なくして誰かを食べちゃうだろうと、そんな計算で!

 ああ、おなか空いた、おなか空いたよぉ。


 うずくまって震えていると、身体の下の影からニケがむくりと起き上がった。あたしは背中にだらんとへばりつく格好になる。


「ニケ……大丈夫、なの?」

「多少痺れが残っているが問題ない。しっかりしろ、ハルカ。すぐに王宮へ連れていく」

「駄目。……あっちは、駄目」


 こんな状態でウィルに会ったら、今度こそ食べちゃう。それこそあいつの思うつぼだ。冗談じゃない!


「学院に、お願い」


 それだけ言って、あたしは残った力でニケになんとかしがみついた。

 ニケは屋根の端から身体をうにょんと長くのばし、前足を地面につけてから後ろ半身を引き寄せるようにして降りた。一気に飛び降りたら確実にあたしが転がり落ちるからだろう。うう、丁寧にありがとう。

 その後も、あまり激しい動作をしないように気遣いながら、ニケは急いで走っていった。


 学院に駆け込むと、受付の人がぎょっとなって立ち上がったけど、あたしの顔を覚えていて、困惑しながらも見逃してくれた。

 向かった先は導師さんの部屋。ニケがドアに体当たりして飛び込む。


「ルカ!?」


 驚愕の叫びが二人分。導師さんとゴン太だ。そんな呼び方でも、あたしはすっと楽になって息をついた。ずるっとニケの背中から落ちて、床に座り込む。まだおなかぺこぺこだけど、とりあえず見境なくす心配はなさそう。やれやれ、助かった……。

 導師さんとゴン太が慌てて駆け寄ってきた。あー、なんか補習だか特別指導だかなんだか、お勉強の最中だったのですねゴメンナサイ。テーブルにあれこれの本とか紙束が積み上げられている。その向こうから、マイアちゃんが心配そうな顔でこっちを見ていた。


「大丈夫か、ルカ! どこか怪我したのか、しっかりしろ!」

「うむ、ニケ殿もなにやら妙な力の乱れがあるな」


 ゴン太がむやみとあたしをべたべた触りまくる一方で、導師さんはニケの不調に気付いてすぐに手を当て、小さくつぶやきながらゆっくり何かを整えるように撫でていく。うわぁ、ニケが目を細めて喉を鳴らしてるよ! ただの猫だよ!

 さすが導師さん、ついでにあたしの方も助けてくれませんかね、この人鬱陶しいだけで役に立ちゃしねえぇ!


「ちょっとゴン太、そんなくっつかないでよ暑苦しい! っていうか危ない!」

「危ないのはおまえの方だろう、どこをやられたんだ見せろ!」

「やめろぉ! どこも怪我してないっ、おなか空いてるだけだから!! はーなーせー!」


 危ないんだってば! そんな全力で心配しながらくっついてきたら、ほら、ああぁ取れちゃう取れちゃう、糸くずが、美味しい糸くずがぁ!!

 ひらひらキラキラ、二本三本と舞い落ちる白い光。


「うわあぁ! もったいないー!」


 空中で捕らえて両手で包みこむ、までもなく、指先に触れとたんに糸くずがスルッと口に吸い込まれた。

 うあー、沁みる……っ!!


 深い、豊かな命に満ちた森。その奥深く、柔らかな靄に包まれた木々と苔むした岩の懐に湧き出る泉の、澄んだ水の味わいだ。

 大気から緑の葉に集まり宿り、幹を伝い降りて苔の隙間から土に染み入り、砂と岩に濾過されて。森のすべてを含んだ極上の甘露。


 一度に三本ぐらい食べちゃったからか、今までよりもはるかにイメージが鮮明で力強くて、本当にその場所に行ってきたような気がした。ううん、違うな。あの場所を、空気を、自分の中に取り込んだんだ。


 ほう、と息をついて、いつの間にか閉じていた目を開くと、ゴン太が目の前でぷるぷる震えていた。あ、まずい。


「ルカ……っ、今、おまえ、今のは、食べたんだな!? どうやって! 何をどうしたんだ、なぜ俺には何も見えないんだあぁぁー!!!」


 かぷっ。


 絶叫するゴン太の頭をマイアちゃんがくわえた。えっ、ちょ、静かになったのはいいけど食べてないよね!? 首ちょん切れてないよね!?


 凍りついた沈黙の後、何もなかったようにマイアちゃんはぱかりと顎を開き、ゴン太をペッと解放して、のそのそ定位置に戻っていった。お、おお……お利口さんだねぇ……。

 髪の毛ぐっしゃぐしゃになったゴン太が床に座り込んでうなだれる。あー。服はまともになっても頭もさもさのまんまだと思ったら、こういうわけだったか。


 あたしはちょっと同情をおぼえつつも、また叫び出したらすぐ逃げられるように気構えして話しかけた。


「ねえ、ゴン太の生まれ育ったのって、すごく深い森の中か、その近くだった?」

「……?」

「えっとね。今、ゴン太の白玉からぱらぱら細かい糸くずみたいに断片が落ちて、たぶんそれってゴン太があたしに『食え、食って元気出せ』って必死になったせいだと思うんだけど、もったいないって拾って食べちゃった……あ、ごちそうさまでした」


 遅まきながら手を合わせる。ゴン太は一瞬ぽかんとしてから、泣き笑いのようなくしゃっとした笑顔になった。そして、あたしの頭をわしわし撫で回す。ええい、どうぶつ扱いするなって!


「そうか、そうかぁ! 俺の真心が届いたんだな、それでルカは元気になったか! よかったなあぁぁ!!」

「ちょっと違う気もするけど、とりあえず泣かないでくんないかな話が進まないから。それでね、初めて食べた時もそうだったんだけど、ゴン太の糸くず、いつも森とか生い茂った草とか、そこについてる朝露とか、そういうものの味がするの」

「……糸くずで草とか露とか、あまり美味そうじゃないな」

「美味しいよ? っじゃなくて、だから感動するな喜ぶな抱きつくなー!」


 ええい鬱陶しい!! 迂闊に脱線できやしない!

 あたしが四苦八苦してゴン太をひっぺがすと、導師さんがえへんと咳払いした。


「テセアの食事や味覚についての話は私も非常に興味があるし、正直すぐに聞きたくてたまらんのだがね。先に、何があったのかを教えてもらえんかな? ニケ殿が負傷し、君は疲労困憊空腹の極みで立てないほどとは、よほどの事があったのだろう」

「はっ、そうだ、そうでした!!」


 ゴン太にかまけてる場合じゃなかった!

 糸くず食べて元気が出たあたしは、立ち上がって改めて導師さんに頭を下げた。


「突然押しかけてすみません、でもおかげで助かりました。ありがとうございます。実はついさっき、完全体のテセアがあたしに接触してきたんです」

「ほう? ついさっき、ということは都にテセアがいたということかね」

「はい、多分ずっと暮らしてて、最近あたしのことを知ったみたいです。半融合のまんまで腹ペコだったりうまく力を使えなかったりするのが、可哀想で見てられないって言うんですよ失礼ですよね!! でもテセアとしては完全融合するのが一番良いことで幸せなんだってのが譲れないみたいで、だから……あたしの名前、『遥』ってきちんと呼んで定義づけしてくれるウィルが、邪魔だって言うんです」


 あたしは早口に、一番大事な情報だけかいつまんで説明した。導師さんがぎょっとなり、さすがにゴン太も真顔になる。


「あたしが人間としての存在を捨てて完全融合しないって言うなら、ウィルを殺すしかない、って。導師さん、テセアは見た目だけならどんな生き物にでも変身できるんです。王宮にだって入り込めちゃうかもしれない。見付けて捕まえる方法、ありませんか」

「大丈夫だよ、ルカ。王宮にはアルフェン魔法師の厳重な警戒網が張り巡らされている。テセアだろうと簡単には侵入できないし、殿下の身辺は常に護衛の兵士がいるだろう」

「でも、テセアだったら警戒網だってごまかせるかもしれません。最悪……王宮と街を出入りする人を捕まえて丸呑みしてしまったら、完全にその人に成り替わってしまえるから」


 適当な人を捕食できなかったとしても、あの夜あたしが網をすり抜けたように、何かごまかす方法はあるんじゃないだろうか。

 ああどうしよう、こうしている間にもウィルの身が危ないかもしれない!


「か、帰らなきゃ、あたし帰らなきゃ」

「落ち着け、ハルカ」


 ぺしりと尻尾が足を打った。見下ろすと、闇色の毛に囲まれた一対の紫水晶があたしを見つめていた。


「ニケ……でも、ニケでも敵わなかったのに」

「不覚を取っただけだ、次はない。それより、奴があの時私に放った光は、単に魔力というのではなく奴自身の一部に近いものだった。匂いと気配は覚えた、都のどこに潜んでいても私ならば見付け出せる。たとえ完全な人間のふりをしていたとしても、だ」

「えっ。本当!? ニケすごい!」


 なにそれ! 怪我の功名ってやつですか!

 感激したあたしに、ニケはちょっと目を細め、ふふん、って感じで尻尾を一振りした。


「もうじき日暮れて、闇の支配する時間だ。明かりを灯した人家だろうと、私の感覚をすり抜けられはしない。すぐにも居所を突き止めて知らせよう」

「うわあぁ! ありがとうニケー!」


 あたしはニケの首に抱き着いて頬ずりする。なんて頼もしい! ついでにすべすべして気持ちいい!! ニケが苦笑をこぼして首を曲げ、お返しのように額をこすりつけてくれた。親愛の表現、こーゆーのは嬉しいです大歓迎です!


「それならルカ、君はこれから王宮に戻って殿下に状況を伝え、兵士を貸してくれるように頼んでもらえないかね。できればそのテセアを捕獲……いや、身柄を押さえたい。むろんニケ殿の報せがあればすぐに我々も出向くが、人手は多い方が良かろう」

「はい、わかりました!」

「ああそうそう、これも持って行きたまえ」

「っ!! ありがとうございます導師さん大好きです!!」


 すちゃっ、と差し出されたのが紙に包まれたサンドイッチだったもんで、うっかり愛の告白までしてしまいましたよわたくし!!

 ゴン太が「あ」って形に口を開けたから、多分これ、勉強しながら食べようと思ってたんだろうなぁ。どうしよう。返そうか? って目で問いかけたら、持ってけ、と目で答えられた。ということにしておこう。ごめんね。


 それでは、とニケが影に溶け込み、あたしも「また後で」と言い置いて、サンドイッチ片手に王宮へ向かって走り出した。

 うぐ。紙包みからいい匂いがしますよ……ヨダレ出そう。後で後で! 食べながら走ったら曲がり角で誰かとぶつかっちゃうかもしれないからね!


 ……わざとネタっぽいこと考えてみたけど、いつもなら何か言ってくれそうなラグは、やっぱり黙ったままだった。学院にいる間もずーっと無言だったもんなぁ。っていうか気配がすごく静かで沈んでる。


〈ラグ。ごめんね、とにかく今はあたし、ウィルを守りたい。ラグのことも守りたいの。だからあいつは捕まえる。その後で……ちゃんと、話そうよ〉

〈はい〉


 返事は小さくて短かったけど、いろんな思いがいっぱい詰まっていた。

 あなたはわたし、わたしはあなた。

 だけどやっぱり別の存在でもあるんだから、大事なことはちゃんと話し合おう。そうやって少しずつ分かり合って、合意や妥協点を探して、前へ進んでいくんだ。テセアにとっては苦しくつらい、でも人間にとっては当たり前のこと。


 辺りはもう薄暗い。あたしはひたすら、前を見つめて走り続けた。


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