11.大きなお世話です
「逃げて!!」
隙間から出ている自分の触手を動かして、ちょっとでも守ろうとしたけど、届かない!
ニケは空中に跳び上がった状態だから影に溶け込めず、かわりに一瞬で黒曜石の板のように姿を変えた。
バチッ、と槍が跳ね返されて弾け飛ぶ。防げたか!?
砕けた光が細かな金粉のように舞う中、ニケは豹の姿に戻ってスタッとしなやかに屋根に降り立った。ああー、良かった無事だった!
「テセアよ、何が目的は知らぬがハルカを離せ。その無駄に長い手を噛みちぎられたくなければな」
「ニケ……」
格好いいなぁもう、さすが女神様!
安堵してこぼしかけた声が、途中で詰まる。えっ、待ってちょっと待って。駄目だこれ、金色の光が消えてない!
警告しようとしたけど、間に合わなかった。チラチラ薄れて消えそうだった光がいきなりぶわっと集まってニケに襲いかかり、埋め尽くしてしまったのだ。うわあぁ!
悲鳴を上げることさえできなかった。偽者が触手であたしを引っぱり寄せ、手で口を塞いだから。むむむー!!
ニケの声も聞こえなかった。全方向からの光が影を消し去るように、ニケの姿は完全に金の光に覆われてしまって、そのまま――
「殺してはいないから、安心しろ」
耳元でウィルの声が落ち着き払ってささやく。くぬあぁぁ偽者めー! 声と口調まで真似しおって! 澄ましてんじゃないぞ離せえぇ!!
じたばたする間に金の光が消え、ニケの姿も失せていた。やだ、やだよニケ、うわぁぁ!
「しばらく影から出て来られないように封じただけだ。邪魔をされたくなかった」
「んむー!! むぐっぐむむむ!! むごー!」
何言ってんだコラァ! 話があるなら来いって言ってんのに逃げたのはそっちだろー! っていうかウィルの顔と声で気色悪い台詞を吐くな、ぶっ飛ばす!!
あたしが全力で拒否ってるのに、偽者めは面白そうにくすくす笑い出した。だから! その顔でそういうのは!! やめろおぉぉ!!!
恥ずかしいとかそういうのじゃないんですよ念のため! 本物のウィルがこんな笑い方したらそれこそいたたまれなくて全力で扉突き破ってでも逃げるけど、偽者なんだもん。本っ気で気持ち悪いっていうか腹立たしい! いらつく!
そうだ、と思いついたと同時にあたしは攻撃に出た。すなわち、頭突きである。
ゴスッと見事に直撃し、偽者はさすがに怯んであたしを離した。よし、触手は相変わらずぐるんぐるん巻きついてるけど、ちょっと自由がきくようになったぞ。体の向きを変えて偽者に向かい合い、両足で古瓦を踏みしめる。
口と顎を押さえていたウィルもどきは、涙目をぱちぱちしばたたいてから癪に障る微苦笑を浮かべて立ち直った。ちっ、勢いが足りなかったか。
「半人前というのは不便なものだな、ルカ」
「うるさい。他人の都合を無視して迷惑かけるのが一人前の常識だっていうなら、こっちから願い下げだわ」
「おまえが完全体なら、こんな手間も必要なかったんだが。なぜそんな中途半端な状態のままでいるんだ? 苦しいだろう。私はおまえを助けたいんだ、きょうだい」
兄弟!?
呼びかけに驚くと同時に、止めようのない喜びが心の底からどっと溢れた。ちょっ、うわ待ってなにこれ!
〈ラグ!? どういうこと、こいつラグの兄弟なの?〉
〈はい、いいえ、ああ……すみません遥〉
ラグの返事も混乱している。押し寄せる感情の波に、ラグの『記憶』がまじっていた。
テセアの前身たるテルセアに、いわゆる動物的な意味での兄弟姉妹は存在しない。でも、テルセアの『卵』は一度に多数が生み出されて世界に散らばるのだ。その同じ瞬間に生まれたものは『きょうだい』としてお互いを認識できる。
ああ、それで。それでこんなに懐かしいのか。ものすっごく不本意なんですけど!!
ややこしい感情を持て余し、あたしは歯を食いしばって偽者を睨み付けた。くっ……悲しそうな微笑とかやめて! 本当に!
偽者が手を伸ばしてあたしの頭を優しく撫でた。う、ううう。違う違う、ほだされちゃ駄目だ、しっかりしろあたし!
「四六時中ひどい飢えに苛まれ、記憶もろくに引き出せず、力もまともに使えない。とても見ていられなかったんだ。なぜそんな状態にこだわる? ちゃんとまともな食事をして、最後まで融合してしまわなければ駄目だ」
「……っ、大きなお世話! 勝手な心配を押し付けないでよ!」
ぶん、と頭を振って手を払いのける。いい加減に触手ほどけっての馬鹿!
「あたしは! あたしは高尾遥って名前で人間で日本人で、今のこの『あたし』を壊されたくない! 半分融合してても、ラグはラグで別の存在で、あたしの大事な相棒で、消し去ってしまうなんて絶対に嫌! 何よりあたしは、人食いの人殺しにはなりたくない!! だからほっといて!!」
悲鳴のように怒鳴り散らす。頭の四分の一ぐらいは冷静で言うべきことを組み立てているのに、渦巻く感情と、それを押さえつけるのに必死すぎて、まともに話ができない。
ああ嫌だ嫌だ嫌だ、悔しい腹立たしい怖い、なのに今すぐ相手の懐に飛び込んで出会えたことを喜び合いたい! 駄目だってば!!
感情の許容量を超えてしまって、涙がぼろぼろ溢れ出す。ああぁもうどうしよう。
「ほら、半端な記憶しかないから、誤解しているぞ。ルカ、我々は決しておまえが――人間達が恐れるような、人食いの人殺しではない。確かに人の命と精神を食餌とするが、それは人間達の食事と同じものではないんだ。……だからおまえは、せっかく用意してやったのに食べなかったんだな」
残念そうに言って、偽者はまたあたしに手を触れた。今度は頭じゃなく、頬に。涙をそっと指で拭いて。
「我々は人をただの食べ物として見ているのではない。むしろ人間が同じ人間に注ぐよりも深い情を抱いている」
「ええ、知ってる」
涙声で、あたしの口を借りてラグが答える。本当にラグ? 今のはあたし?
知っている、それはたった今胸に生まれた確信だ。あの白い光。あれに対して感じる愛しさなんて、並の人間に対して持てる情じゃない。だけど、でも。所詮食べ物のはず。
「そうして情をかけた者の存在そのものを、少しずつ取り込んでひとつになってゆく。我々が自らを『融合する者』と称するゆえんだ。……ルカ、ちゃんと食事をしろ。そして叶うなら『伴侶』をつくれ。今のままでは人の心もテセアとしての愛も得られないぞ」
「ふぁッ!? いやいやいや結婚とか早いよいきなり何の話になってんの!?」
動転して思わず変な声を上げてしまうあたし。ごはんの話をしてたんじゃなかったんですか兄さん!!
あたしの反応に、偽者兄さんはぷっとふきだして、くすくす笑いながらあたしの額にこつんと自分の額をくっつけた。うわーやめて! 親愛の表現やめて!!
「己が最も情をかけ、相手からも情を返されるなら、その人間はテセアの『伴侶』たりえる。伴侶を得たなら、日々異なる人間からひとすじ一口ずつ食べる必要もない。常に傍らに伴侶がいて、安定した良質な力の源を与えてくれる。空腹を感じることすらほとんどなくなるだろう」
待て。今なんつった。
一気に動揺が引いて冷たい理性が目を覚ます。
「伴侶って、要するにそれ常備食ってことじゃないの! 言葉を取り繕ってごまかしてんじゃないわ図々しい!」
「これだけ言ってもまだ分からないのか?」
怒鳴ったあたしに、ウィルもどきの兄さんは残念そうな顔をして、ため息をついた。
「……分からないんだろうな、半人前のおまえには。伴侶は素晴らしいぞ。日々が幸福で満ち足りて、おまえも伴侶も、互いをひとつの存在のように魂の近くに感じられるようになっていく。充分な力を得られたなら、伴侶との暮らしのためにその力を様々にふるうことができる。伴侶となった人間も、ただの人間としての一生では決して得られない幸福を共に分かち合うんだ。ルカ、おまえの身近にも既に伴侶になれそうな人間がいるだろう? この姿をした、ごく近しい者が」
「――!! なに、言っ……」
血の気が引くってまさにこういうことだ。あたしは自分の手足が冷たくなるような感覚を味わい、唇をわななかせた。
やめて。冗談じゃない。絶対に駄目だ、それだけは。
彼は、彼は違う。あの人は、……全部食べても構わないと言った、あれは、
「友達だよ!! 友達だからだよ!! あんたには分からないだろうけど、人間には人間としての関係で素晴らしいものがあるんだから! 馬鹿にしないで、勝手にあたしを不幸だと決めつけないで!!」
絶叫した。振り絞るように、腹の底から、全身全霊で。
その勢いに押されたように、身体に巻き付いていた触手がほどけて溶け消える。息を切らせて立ち尽くすあたしに、兄さんは感情のない顔になって言った。
「おまえが彼を伴侶にする気がないのなら、彼を殺すしかないだろうな」
「待ってよ、なんでそうなるの!」
「彼がおまえに人間の枷をはめているからだ。彼がおまえを呼ぶ限り、おまえはいつまでも完全な融合を果たせない。おまえを苦しませるものを放ってはおけないよ、きょうだい」
決別の言葉のようにそう言い終えるなり、姿がまたぐにゃりと歪んだ。
瞬きひとつの間に、魔鳥が翼を広げる。あたしは捕まえようと突進したけど、羽根一本もむしれなかった。
「やめて! あたしのことは放っといてよ!! そんなことよりさっさと逃げて!!」
「……?」
屋根の端っこから飛び立とうとしていたツァヒールが振り返る。あたしは一度ぎゅっと唇を噛んでから、拳を握り締めて告げた。
「都に危険な魔物や異能持ちが潜んでないか、徹底的に調べるって話になってるの。特別な魔物を使うんだって。テセアだって見付かるよ。今の内に都から出てって、そのまま帰って来ないで。二度とあたしの前に姿を見せないで!」
ツァヒールは人語を発せない。かわりに、心に声が届いた。
〈ありがとう。でも、テセアはそう簡単には見付からないから。待っていて、じきに自由にしてあげるからね〉
「要らないって言ってるでしょ!!」
あたしの抗議を無視して、ツァヒールが大きな翼を広げて飛び立つ。いつの間にか太陽はすっかり西に傾き、辺りはうっすら蜂蜜色に染まりはじめていた。




