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8.友人だからな


 夜の闇も高く巡らされた壁も、私の飛行を妨げない。緻密に編まれた警報の網さえも。

 王宮を覆う、蜘蛛の巣よりも密な魔術の網。だがあれは『私』を認識する。テセアにして人間、半人半魔の存在を認め通過させる。

 網が接近を感知して震えた。そうだ、私は免除されている存在だ、問題はない。通せ。

 たわみ緩んだ網の間を、翼をかすめることもなく一瞬でくぐり抜けて。


 ――あそこだ。


 風が唸る。滑空し、目指す部屋の窓へ。

 ガラス越しに部屋の明かりが漏れている。いた。ウィル。


 窓に取りつき、揺らす。鍵がかかっている――引きちぎろうか。

 ウィルが振り向いた。目をみはり、ためらわずこちらへ来る。ああ、逃げないのか。恐れないのか。今の私はさぞ危険に見えるだろうに。


 迷いもなく窓が開く。飛び込み、たまらず掴みかかった私を避けもせず受け止める。

 温かい。なんて美味しそうな……、っ?


 突然ウィルがよろけ、体勢を崩して床に倒れる。とっさに抱き止めた私は、白い光を確かめた。違う。いつもと違う。なぜ。

 思わずウィルの顔を見つめると、彼もまた不審げな、少し苦しげな表情をしていた。そして。


「遥」


 ――名前を、呼ばれた。


「……遥。どうした」


 翼が溶けるように消えて、視界が普通に戻って、それから怒濤のように襲いかかってきたのは、


「おなか空いたぁぁー!」


 もう一歩も動けないほどの空腹感だった。冗談抜きで動けない! ウィルが立ち直るのと入れ替わるように、あたしは絨毯にへなへな座り込んでしまった。


「ごはん! おやつ! 何でもいいから食べさせてー!!」

「叫ぶとよけいに腹が減るぞ」


 やれやれ、とウィルが本や書類綴りの詰まった棚の方へ行き、下の引き出しから何か取り出した。あっ、おやつ! おやつだ! バターと砂糖の甘い香り! くださいくださいそれ下さい!!

 尻尾があったら全力で振っていただろう。涙でにじんだ視界に、奇跡のようにマドレーヌが出現した。うああぁ神様ありがとぉー!!

 可愛らしい籠に布巾包みで五個ぐらい入ってる。いただきます!


 床に座り込んだままがつがつ食べちゃう。立ち上がって椅子に移動する余力もない。

 ああこのマドレーヌ美味しいなあ。卵たっぷり、バターも上等のものらしく、しつこくなくていい香りだ。生地はしっとり、ちょっとほろっとしてて食べやすい。


 食べながら、なんだか情けなくなって泣けてきた。

 あたし、なんでここに飛んできたんだろう。おなか空いておなか空いて、ただとにかくウィルのことしか考えられなくなって。


 あの極上の白いのを食べてしまいたかったんだろうか。

 名前を呼んで、止めて欲しかったんだろうか。


 自分がどういうつもりだったのか、それすらもわからない。

 いきなり窓から押しかけて、お菓子もらってがっついて。ほんと情けない。恥ずかしい。

 うう、涙でマドレーヌがしょっぱくなっちゃう。


「足りないか」

「……」


 ふるふる、と首を振って、最後の一口を飲み込む。いや、実際全然足りないんだけど、泣いてるのはそうじゃなくって。でも言葉に出来ない。

 涙を拭きながら顔を上げると、前にウィルが座っていた。あれっ、絨毯に座っちゃうとかお行儀悪いよ珍しい。

 あたしが目をぱちくりさせている間に、奥のドアから侍従さんがワゴンを押して登場した。ええぇ!?


〈物音で気付いてすぐに様子を見に来たんですよ。ウィル殿下が手振りで指示をされていました〉

〈あたしが腹へりで錯乱してる間にそんなことが!〉


 ていうか侍従さん素早い! 食堂に行って取ってきてくれたんだよね、あの食器とか使用人食堂の備品だもん。大盛りご飯とお味噌汁のいい匂いが……あ。


 ぐぎゅる、とおなかが鳴った。


 ウィルが立ち上がったので、あたしもよろよろ立つ。当たり前のようにウィルが手を差し出してくれた。こういうの、形だけじゃなく本気で力を借りることってあるんだね……自力で立てませんでしたよ。膝がくがくだ。ますますおなか空いてきた。

 侍従さんが来客用の高級そうなテーブルに、あたしのごはんを並べていく。ものすごい違和感なんですけど!


「ねえウィル、いいの? ここでごはんとか」

「せっかく運ばせたんだから、ここで食べたらいいだろう」


 何の問題もない、という態度のウィル。侍従さんもてきぱき仕事を終えて、あたしに礼儀正しい微笑を向けて会釈すると、すすーっとワゴンを引いて出ていった。

 あとには、重要文化財的な高級感溢れるお部屋に、なぜかほかほかご飯とお味噌汁な庶民の晩ごはん。

 ……。き、気にしたら負けだ!


 あたしはソファに座ると、いただきます、と手を合わせてお箸を取った。マドレーヌでとりあえずおさまったと思ったけど、やっぱりおなかぺこぺこだ。力仕事の後で飛んできちゃったもんなぁ。

 まずはお味噌汁を一口。あー、疲れた体に染みる! 具は青菜と麩ですもぐもぐ。お鉢には茄子とお肉の煮物。ちょっと濃いめの味付けがご飯によく合います。

 胃からじんわりぬくもって……ああ、ごはんだなぁ。人間のごはんだ。ちゃんとした食べ物。


 また泣けそうになって、慌ててあたしは瞬きし、顔を上げた。途端に、立ったままのウィルと目が合う。そんなところにいないで下さい!


「そういや、なんでウィルがお菓子持ってたの? おかげで助かったけど」


 とっさにあたしが話を振ると、ウィルは執務机の方に行って、あたしのテキストを取ってきた。


「後で部屋に取りに来ると言っていただろう。だから食料が必要だと見越して調達しておいた」


 ほら、とテーブルの端にテキストを置くと、向かいに腰を下ろす。あたしは恐縮して首を竦めた。


「お世話かけてスミマセン」

「大した手間じゃない」


 例によってウィルの返事は素っ気ない。いつものことなんだけど、今はそれがちょっと気まずくて、あたしは黙って食べる方に集中した。

 瓜のお漬け物がぽりぽり歯ごたえ良くて美味しいなぁ。一口分だけ残しておいたご飯と一緒に食べて、ごちそうさまでした!


 あたしがお箸を置くとじきに、また侍従さんが出てきて食器を片付けてくれた。何から何まで至れり尽くせり……。

 ありがとうございます、とお礼を言うと、にっこり笑って「どうぞごゆっくり」と食後のお茶を出してくれた。いい人だ!

 お茶を一口飲んでほっと息をつく。そこでようやく、ウィルが訊いてくれた。


「何があった?」


 あたしは答えようと口を開き、はたと気付いて眉を寄せた。やっぱりだ。さっき、違う、と感じたのは間違いじゃない。


「ねえウィル、どこか具合悪いんじゃない? あたしの方はもう緊急事態ってわけじゃないから、話は明日にして休んだ方がいいんじゃないの?」

「なぜそう思う? おまえも変調をきたしたから、飛んで帰って来たのか」

「えっ!? ううん、あたしはどうもしないよ、ちょっと事故があって触手出して重いもの動かしたから、おなか空いただけ。変調って、ウィルはどうしたの。もう大丈夫なの?」


 なんとなく白玉がいつもよりくすんでるっていうか、元気がない感じだ。やっぱり体調によっても見え方が変わるんだよ、これ。飛びついた時もよろけたし、どうしたんだろう。

 心配でおろおろしてるあたしにはお構いなく、ウィルはいつもと同じ冷静さで言った。


「夕方、急に腹痛に見舞われて高熱が出た。すぐに医師とローラナが治療してくれたから、もう問題ない。原因はまだ不明だ。私の皿から料理を取ったおまえがなんともないということは、あの店の食事が原因ではなさそうだが」

「……って、ちょ!? ちゃんと毒物探知の腕輪つけてたでしょ、食べ物がおかしかったんなら食べる前に分かってたはずじゃない!」


 ひいきのお店に疑いをかけられて、あたしは思わず語気を荒くした。そりゃウィルの立場からしたら、一服盛られるのが心配なのは仕方ないだろうし、普段ばっちり衛生管理の行き届いたもの食べてて街の食堂とか行ったらデリケートな胃腸様がびっくりなさるのかもしれませんけど!


「護身具は完全ではない。摂取する時点で無害であれば反応しない。時間を置いて毒素を発生するもの、あるいは体内に入ってから変化し害毒となるものは、予め設定したものを除いて防ぎきれないからな」

「いやでも、ティナさん達があたしの友達に毒を盛る必要なんかないじゃん。食中毒だとしたら、同じ台所で作られた賄い食べてるティナさんも、具合悪くなってるはずでしょ。一緒にお使いしてたけど、全然変わった様子はなかったよ。単に食べつけない庶民のごはんで調子狂ったか、日頃の疲れが出たんじゃないの?」

「かも知れないが、変化が急激だったからな。あれこれ調べる猶予がなく、解毒や解熱の薬と術を片っ端から使ったもので、この通り回復はしたが原因の痕跡も消し飛んだ。ローラナが護身具の記録を解析しているところだ」

「……まあ、ウィルが無事だったんなら良かったけど」


 なんか釈然としない。むー。

 けど、ウィルの白玉がだんだん元気になってきたから、もやもやした気分もどうでも良くなった。うんうん、やっぱりウィルのはこうじゃないとねー。

 一口に白と言っても、暖かいとか冷たいとか、ほんのり色味があったり、濃い薄いもあったりさまざまなんだけど、ウィルのは本当に真っ白だ。濃くて深みがあって、つややかな白。こういう色があるんだって初めて知ったよ。

 あー、いいなぁ、美味しそうだなぁ。

 思わずじーっと凝視していると、ウィルが居心地悪そうに身じろぎした。


「まだ空腹なのか」

「あ、ううん、大丈夫。ちゃんと白玉も活きが良くなったなぁって見てただけ。いつも通りにすっごく美味しそうだよ!」

「……お褒めにあずかり光栄だ」

「冗談だよ……。いや、美味しそうになったのは本当だけど、普通に顔色とかも見てるし食べたいわけじゃないからね?」


 ウィルに冗談言うと必ずスベるのは相手が悪いのか、あたしのセンスが悪いのか。これがお世話係のセンだったら「うわー、大胆! そんな目で見んとって~恥ずかしい~」とか寒いリアクションしてくれて、ツッコミ入れつつ笑えるんだけど。

 まぁ今のはちょっと、ネタにするにはきわどすぎたか。反省。

 と、そこであたしの身体からふわんと黄金の光が出てきて、宙で球状になった。


「うん? どうしたの、ラグ」

「取り越し苦労だったら良いのですが……遥、もしかしたら私達は何者かに目をつけられてしまったかもしれませんよ。お使いの途中でも、あの路地でも、誰かの視線を感じたでしょう。もし殿下がそれに巻き込まれたのだとしたら、体調の急変も悪意によってなされたことかもしれません」


 ラグがふよんふよんと空中で悩ましげに漂いながら言う。途端にウィルが厳しい表情になった。


「どういうことだ。何者かに狙われたのか」

「直接何かされたってわけじゃないんだけど……」


 あたしは口ごもりつつ、奇妙な感覚のことを話した。往来で急にピリッと何かが刺さるような感じがしたこと。下敷きになっている人を助けた後、確かに誰かに見られていると感じたこと。

 取り越し苦労なら、ってラグは言ったけど、確かにあれは妙だった。気のせい、って片付けられない、危険な感じがしたもんね。

 話を聞いたウィルは眉間に皺を寄せて、難しそうに唸った。


「おまえの正体に勘付かれたのかも知れんな。異能持ちか、都に潜んでいる魔物の類だろう。普通の人間なら、おまえがラグの力をふるう現場を目撃しない限り、テセアだとは気付くまい」

「うん、本当に見られてたんだとしたら、そのどっちかだと思う。こっちが気付いて探ろうとしたら一瞬で消えちゃったもん。ああいうの、普通の人はできないよ」

「しばらく街に出るのは控えるべきだろうな」

「そうもいかないよ。下敷きにされてた人がちゃんと助かったのか気になるし、無事なんだったら、その……それこそ目撃されたかどうか、確かめないと。ティナさんにも変に思われてるだろうし。大人しくひっこんでるのが正解だとは思うけどさ」


 助けを呼んで戻ってきたら、なぜか荷物は移動されてるし、あたしはいないしで、ティナさんもきっと混乱して心配してるだろう。適当な嘘をでっち上げて説明するにしても、一度とにかく顔を見せないと、どんな憶測をされるか知れたものじゃない。

 もしもあの怪我人さんが、暗がりの中で触手うねうね動いてるのをちらっとでも目にしていたら、ますますややこしいことになっちゃう。

 あたしがそう説明すると、ウィルはちょっと考えてからため息をついた。


「やむを得んな。だがそれが済んだら、しばらく外出するな。ローラナに相談して、父から必要な許可を取れたら、都を隅々まで捜索する」

「えっ。それって、隠れてる魔物とか悪者とかがいないか調べるってこと? やめてよ、大騒ぎになっちゃう!」


 まだ何かされたってわけじゃないのにそんなことしたら、町の皆さんからものすごい非難囂々になっちゃうじゃない!


「騒ぎにはならない。あまり使いたくはないんだがな……ごく小型で一般人の感覚には捉えられない魔獣がいるんだ。ネズミのようなものだと思え。今回は魔物の存在を調べるだけだから、市民の私生活を覗き見るわけではない。それほど揉めずに許可が下りるだろう」

「……うわー」


 なんともコメントしづらくて、あたしは変な声を出したきり絶句した。

 平和な国だけど、やっぱり裏ではいろいろあるんだねぇ……。

 まあでも、それしか方法がないんなら仕方ない。もしも何か悪いものが潜んでいるなら、あたしだけじゃなく他の人も助かるのかもしれないし。あたしはぺこりと頭を下げた。


「なんか色々ごめんね。お願いします」

「謝罪には及ばん。これも仕事だ」


 ウィルは素っ気なく言ってから、曖昧な表情になってふいとあらぬ方を向いた。


「それに、……友人だからな」


 泣かせる気かこいつは!!

 あたしは思わず抱きつきたくなったのをぐっと堪え、お茶を飲み干して「ごちそうさま、おやすみ!」とものすごい早口で言うなり部屋を飛び出した。


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