12.美味しいごはんは正義です
ツァヒールの大きな影に隠れるようにして、茜色に染まった空を飛ぶ。
集落跡は山の中だったけれど、尾根をひとつ越えると見覚えのある景色が開けた。流れの穏やかな川と、その周囲に広がる緑の平地。アワジ村はもうすぐそこだ。
もっとも、徒歩であれば丸一日かそれ以上はかかる道のりだったろう。
私にしがみついたままのアリッサは、早くも順応して、広々とした景色に目を輝かせていた。頭上の空はやや暗い青から藤色に染まり、太陽が足をつけている地平の近くは、眩しい黄金の輝きに燃えている。緋色の雲がたなびき、光と影の流れを空に映し出す。
きれい、とアリッサがつぶやいた。
まったくだ。この世界はとても美しい。人の目には見えない力の流れが、なおいっそう輝きを与えている。
やがて村が近づくと、ツァヒールが高度を下げた。まだ少し村まで距離があるけれど、騒ぎにならないようにこの辺りで降りて、あとは歩くつもりなのだろう。
私も速度を落とし、ゆっくりと下降していく。暖かな地上の風が頬を撫でた。
「着地の時に少し衝撃があるかもしれません。アリッサ、しっかり掴まって」
「う、ウン、わかった」
ぎゅっ、とアリッサがしがみつく。私も少女の体を支える腕に力を込めた。体温が伝わる。美味しそうな生命の熱が――いけない、今はまだ――あたし、は、
「きゃあ!」
耳元でアリッサの悲鳴が上がった。あたしも何か叫んだ気がするけど、無我夢中でわからない。
あと少しで地上というところで翼が消えてしまい、危うく墜落しかける。とっさに触手を地面についてもちこたえた。あぶ、あぶな……っ!
ぎりぎり体勢を立て直して着地したものの、アリッサを放り出すようにして手を離してしまった。まずい、これはまずい。安全は保証するとか言ったくせに、当のあたしがよりによって!
「ハルカ、大丈夫!? どこか怪我したの!?」
うずくまったあたしに、アリッサが駆け寄ってくる。駄目だ、来ちゃ駄目だ!
あたしは激しく頭を振って、傷ついた動物が人の手を拒むみたいに小さく丸まった。来ないで、今は来ないで!
触手がずるっと動いて、カリンの実の袋を引き寄せる。
おなかが空いた。
食べないと。たくさん、たくさん食べないと。
すぐそこに、美味しそうなヒトが……ちがう、駄目、それじゃない! ほら、果物があるじゃない、これを食べたら……こんなものでは……
足音がこっちに走ってくる。やめて、駄目だってば!
「ルカ!」
名前を呼ばれると同時に、がくんと体から力が抜けた。
あ、あれ? なんか、急に楽になったような……。
「ゴン太? 今、何したの」
「特に何もしてないぞ」
言いながらゴン太があたしの肩をさする。さっきまでの強烈な飢えがおさまって、代わりに昔からおなじみの感覚が戻ってきた。
「う……おなかすいた。ごめん、ちょっとカリン貰うね」
「ああ、気にせず好きなだけ食え」
あたしは自分の手で、カリンの袋を引っ張り寄せた。触手はいつの間にか引っ込んでいる。おなかがぐうぐう鳴ってうるさいよ!
夢中でカリンにかじりつく。よく熟れて甘くて、瑞々しい。くぅ、おなかに染みる! ふたつめ頂きます。あ、ちょっとこれまだ固いやつだった。でもこれはこれで、カリカリして美味しいや。
香りは桃みたいだけど、味はスモモに近いかな。ビタミンCたっぷり、って感じ。もうひとつもらっちゃえ。もぐもぐ。うん、だいぶエネルギー補給できた。
まだおなかは空いてるけど、あんまり食べたらゴン太の稼ぎが減っちゃうもんね。村に着いてから、ちゃんとしたごはん食べよう。ひとまず、ごちそうさま。
おっといけない、上着の前後を戻しておかなきゃ。このまま村に行ったら笑われちゃう。
あたしが座り込んだままごそごそ服を直していると、ゴン太は何とも言えない顔で一言つぶやいた。
「すごい早さで食うんだな……」
「ん?」
「いや、何でもない。汁がついてるぞ」
って、ぅおいゴン太さん何やってくれちゃっ……っっ、うわあぁぁ!
口元を指でこすられて、あたしは真っ赤になってしまった。勘弁してよ、赤ん坊じゃあるまいし! そりゃそっちにしてみたら、あたしもツァヒールもモーリーも一緒くたの動物扱いなんだろうけどさ! 一応あたし人間の女の子ですよ!?
うごごごご。ど、どうしてくれようかこの羞恥心。
慌ててあたしはゴン太の手を振り払い、おぼつかない足取りで立ち上がる。直後、心配そうな表情のアリッサと目が合った。そうだった、羞恥心とか言ってる場合じゃなかった!
「アリッサ! ごめん、大丈夫だった? 着地の時、怪我しなかった?」
駆け寄ったあたしに、アリッサは「平気」と笑顔を見せてくれた。あぁ、良かった、なんていい子だろう。思わずあたしの方からぎゅむっとハグしてしまう。
伝わる体温に一瞬だけぎくっとしたけど、あの欲求はもう微塵も感じなかった。ほっ……。
〈ねえラグ、やっぱりちょびっとでも食べちゃったのがまずかったのかなぁ。今までなら、すっごくおなか空いた時でも、人を食べたいなんて思わなかったのに〉
〈何が本来の食物かに気付いてしまったから、枷が外れたんでしょうね。私も少し、見境をなくしそうで怖かったです。ゴン太さんが遥の名前を呼んで、無意識にテセアの本能を抑えてくれたから、助かったんでしょう〉
〈そうみたいだね。……って、ちょっと待った! それじゃあたし、この先こうやって飛んだり色んな力を使ったりするなら、導士か導師に必ず抑えてもらわないとヤバイってこと!?〉
あたしはぎょっとして、アリッサを離して棒立ちになった。
あの飢えの衝動はひどかった。カリンの実がすぐそばにあってさえ、それで我慢するのが難しくて。もしあのまま誰にも止められなかったら、もし挫けて気を緩めてしまったら、きっとあたしはアリッサの命をまるごと飲み込んでいただろう。
帰らせてあげる、って約束した相手を。ただの、食べ物として。
「ハルカ? やっぱりどこか痛いンじゃない?」
「あ……う、ううん、大丈夫。何とも……何ともない、から。早く村に行って、晩ごはん食べよう!」
顔から血の気が引いているのが分かる。それでもあたしは無理やり笑みを作って、ほらほら、とアリッサを急きたてた。
ゴン太がカリンの袋を背負って先に歩き出し、アリッサもそれに並んだ。あたしは二人の後から、うつむいてとぼとぼついていく。
モーリーがアリッサの足元にじゃれつきながら、時々あたしの方を振り返る。家を出る前ならそれは、一緒に遊ぼうよ、とか、何やってるの、とかいう無邪気な視線に感じられただろうけど。実際に今もまだ、モーリーは何も気付いていないのかも知れないけど。
……ごめん。ごめんね。あんたのご主人に、あたし、ひどい事しそうになった。
ちょっと人間食べちゃうからって、とか。
何考えてたんだろう、あたし。
簡単に我慢できると思ってた。全部食べちゃうのは駄目でも、ちょっとかじるぐらいなら支障ないだろう、って。献血してもらうぐらいの軽い気持ちで、なんてこと無い、って楽観してた。
テセアの本能がどのぐらい強いのか、一度あれを食べちゃったらどうなるのか、あたしはもちろんラグでさえ分かっていなかったのに。
……どれだけ馬鹿なんだ、あたしは。泣けてくる。
〈遥……〉
〈あ、違う、違うよ! ラグがどうこうっていうんじゃないから!〉
〈はい、分かっています、私は大丈夫です。私よりも遥、そんなに落ち込まないでください。きっと何とかなりますよ。あまり力を使わないようにすればいいんですし、必要になりそうな時は先に複数人から少しずつ貰って食べておけば、きっとあんな状態にはなりません〉
〈でも、そんな余裕なかったら?〉
〈導師についていてもらえばいいんです。あ、もちろんゴン太さんじゃなくて、ウィル殿下に相談したら王宮の比較的まともな導師さんを貸してくださるでしょうから〉
ぶはっ。今さりげなく酷いこと言いませんでしたかラグさん!
思わずあたしはふきだしてしまった。笑ったおかげで、肩や眉間のこわばりがするっとほぐれる。
あたしの気分が少し明るくなって、ラグもホッとしたみたいだった。本当にいつも色々ごめんね、ありがとう。
〈そうだね。何とかなる、っていうか、何とかするしかないんだもんね。うじうじしてもしょうがないや〉
〈はい。私達だけなら難しくても、幸い、ウィル殿下のような友人がいるわけですし〉
〈……んん? なんかラグ、さっきから妙にウィル推しですな。どうしたの、まさかあたしに隠れて何か賄賂貰ったりしてない?〉
内緒で何か相談してたっていうことが関係しているんだろうけど、本当、妙だ。あたしが探りを入れると、ラグの気配がてきめんに挙動不審になった。今は外に出ていないけど、金色の光がわたわた変な形に伸縮したり回転したりするのが見えるような気さえしてくる。
〈ラーグーさーん?〉
〈な、何でもありません! とにかく村に急ぎましょう、ごはんを食べたらきっともっと元気がでますよ! おなかいっぱいになったら、考えも前向きになります!〉
〈それについて異論はないけど。まぁいいか〉
とりあえず見逃すことにして、あたしは顔を上げた。前の方でゴン太とアリッサが、相変わらずなんだか噛み合ってない会話を、でも楽しそうにしている。
良かった。
食べずに済んで、本当に良かった。
あたしはちょっと微笑んで、小走りに二人を追いかけた。
*
捜索隊が組織されていたりして、物々しいことになっていたらどうしよう。
なんて心配していたのに、村はいたって平穏、昼間となんにも変わってないみたいに見えた。あれーどういうことー。センは何やっとるんですかね。まさかあたしがいなくなった事に気付いてなかったりとか?
おっと、さすがにそれはなかったか。長く伸びた影の中からニケの気配がしたと思ったら、ものすごい勢いでセンが走ってきた。ゴン太と出くわす前に、急いであたしは前に出る。
「うわあぁぁ! ハルカはーん! ご無事でっかー!?」
「やっほー、ただいまー! おなかすいたー!」
そのまま抱きつきそうな勢いで駆け寄ってきたセンが、がくっと脱力してつんのめる。危ういところで体勢を立て直してから、センは呆れたのと安心したのがまじったややこしい苦笑を浮かべて、あたしを上から下まで眺め回した。
「第一声がそれとは、さすがハルカはんや。見たとこ怪我もあらへんみたいやけど、どこも何ともありまへんか? うまいこと逃げ出して来られたんですか」
「あー、うん、色々あってね。問題導士のゴン太を説得して、学院に通うように言って、ついでに迷子になってた『客人』のアリッサとモーリーも連れて、山から下りて来たとこ。それより晩ごはんちょうだい! おなか空きすぎて倒れそう!」
「それより、って……そない一言で横に置けるような話やありまへんがな! 何をやらかして来やはったんですか。はー、殿下の予想通りやなぁ」
センは呆れ返ってから、不穏な一言を小声で付け足す。あたしは眉を上げた。
あたしが攫われたっていうんで、多分センは何かの方法でウィルに連絡をつけて指示を仰いだんだろう。セン自身はその手の異能はないけど、王宮にいる凄腕魔法使いさん――正確には“魔法師”さん――が色々便利な仕掛けを用意してくれているからね。
それはいいんだけど。
「何が予想通りだって?」
「いや、あの、その。こ、これは僕が言うたんやありまへんで、殿下が言わはったんやで! その……ハルカはんを連れ去ったんが導士なんやったら、稀少なテセアを下手に傷つける心配はあらへんし、むしろ逆にそいつの食糧庫をすっからかんにしてしもて、放り出されるんがオチやて……あだだだ!! 僕やない、僕が言うたんやないて!!」
「違うよ! ウィルの失敬な予想はいかにも言いそうなことだけど、その通りになったわけじゃないよ! 全然予想通りじゃない!」
「うわー! 堪忍やー!」
ぴぎゃ、とか悲鳴を上げるセン。まぁ実際はあたしもそんなに力は入れてないし、お約束で騒いでるようなものなんだけど、さすがに初めて見る人はびっくりしたみたい。アリッサが慌てて止めに入ってきた。
「ちょっと、よくわかンないけど、そのぐらいで! いじめちゃダメ!」
「うわぁ優しいなぁ、天の助けやー。おおきに」
「コラそこの兄ちゃん、節操なくでれでれするんじゃない。アリッサも庇ってやらなくていいよ、軽くじゃれてただけでいつものことだからさ。それより、迂闊に優しくしたらこの兄ちゃんは惚れっぽいから危ないよ」
「えっ」
途端にアリッサが目を丸くして、ぴょん、と飛び退いた。センが「根も葉もない中傷や酷い」とか抗議してるのを、警戒の目でちらっと見る。なるほど、アリッサぐらいの美少女だと、色々面倒なことも経験してきたんだろうなぁ。まぁセンには悪いけど、ちょっと距離を置いているぐらいの方がいいよね。……きっと、たぶん、じきに帰ってしまうんだから。
やいのやいの騒いでいるあたし達を尻目に、ゴン太が一人でさっさと歩き出す。カリン売りに行くのかな。
さすがにセンも表情を引き締めて、身構えながらゴン太の動きを目で追った。
「ハルカはん、あいつが……」
「うん、変態導士のゴン太。捕まえなくてもいいよ、どうせ魔獣にしか興味ない人だし、悪い事は……いや、悪い事もするけどそれは自覚がないだけで、周りがちょっと迷惑するぐらいのことだし」
あれどうしよう、フォローできない。あたしの言い草に、センも対応に困った様子で首を傾げた。いやあの、そんな思いっきり不審げな顔をされましてもね。
「ゴンタ、て……まさかそれ、ハルカはんが付けはった名前とちゃいますやろね」
「…………」
「うわぁ、ほんま信じられへん。導士を逆に名で縛ってまうとか、どんだけ常識外れですのん」
「縛ってない! 普通に話し合いで、いやちょっとだけ拳で語る的な局面もあったけど、概ね話し合いで解決したんだよ! 名前も単に呼び名がないと不便だよねってだけのことで!」
嘘は言ってない! 断じて! ……多分。
強弁するあたしに、センはますます胡乱げな目をするばかり。なんですか信用ないなもう! かじるぞ! ……っていうのは洒落にならないね、やめとこう。
「そんなことより、晩ごはん! ごはーんー!」
「あー、はいはい。とにかく食べんと話もできまへんか。ほな、アリッサはんも一緒に。元の世界に帰る方法とか、詳しいこと話しますさかい」
というわけで、あたし達は揃ってオレストさんちに向かった。ゴン太がどうするか分からなかったんだけど、まぁどこで合流とかあれこれ相談するまでもなく、あっちの都合で好きに動くだろう。そういう点ではああいう人も便利な節があるよね。
また一人と一匹お客が増えたのに、やっぱり奥さんもオレストさんも全然気にせず歓迎してくれた。本当にあったかい人達だなぁ。
夕食の準備を手伝って、昨日と同じく皆さんと一緒に食卓につく。やっとまともなごはん!
あたしの席のすぐそばには、お櫃がどんと鎮座ましましておわします。うん、センが手配してくれたんだよ……炊く分量いきなり増やせないだろうから、って、宿屋さんから強奪してきたんだって。もちろん代金は払ってるけどさ。
あぁ皆の視線が痛い。でもとにかくおなか減ってるし、そもそも注目集めて煙幕張るのがあたしの役割なんだしね。いいよもう、食べるよ食べますよ! いただきまーす!
まずはお味噌汁。具は朝と同じく玉ネギです。ほー、お味噌の滋養がしみわたるー。疲れた時にはスープよりお味噌汁だよね。アミノ酸、アミノ酸! 日本食がこっちにもあって、本当に良かった。
メインのおかずは炒め物。豚肉っぽいお肉と色んな野菜を一緒に炒めてあって、これはちょっと中華っぽい味付けだった。照りがあるから油っぽいんじゃないかと思いきや、全然そんなことなくって、ぱくぱく食べられちゃう。御飯にもばっちりですよ! お代わり!
むむっ、炒め物の具のピーマンみたいな野菜、結構苦い。けど、苦味がアクセントになってますます美味しい! 歯ざわりもパリッとして噛み切りやすくて、なんかもう、こればっかりでも御飯のお供にぽりぽり食べちゃいそうだ。御飯お代わり。
副菜は上品な味付けの煮物ですよ。里芋っぽい、ちょっとぬめりのあるお芋と、豆とか根菜がちょこっとずつ色々入ってる。薄味だけど、炒め物の後では丁度ホッとする感じ。野菜の甘味が、噛むほどにじんわり出てくるのが良いんだよねー。じわじわ滋味。
「ハルカって、すごく食べるンだね……」
「むぐ。い、いつもこんなに食べるわけじゃないよ! 今日はちょっと、色々あって疲れたから、おなかぺこぺこで。今日だけだから!」
隣でアリッサが、自分が食べることも忘れてあたしの食べっぷりに目を丸くしていたもんだから、慌てて言い訳するはめになった。うぐうぐ。喉に詰まるっ。
お味噌汁で窒息の危機を回避すると、オレストさんの奥さんと目が合った。思わず赤面したあたしに、奥さんはくすくす笑いながら言った。
「あなたぐらいの年頃って、食べても食べてもおなかが空くものよね。うちの子もそうだったわ、なんだか懐かしいわね。でも、あの子はもう犬みたいにかき込むだけの食べ方だったけれど、ルカちゃんは美味しそうに食べてくれるから嬉しいわ」
「あ、はい、それはもう。すっごく美味しいです!」
ぐっ。握り拳で力説すると、奥さんだけじゃなくてオレストさんまで声を立てて笑った。あう、恥ずかしい……。い、いいもん、嬉しいって言ってもらえたんだから、気にしない!
美味しいごはんは正義です!
……あ。お櫃、もう空だった。