Act.8:ご機嫌斜めなネコ、オトコ?
『ねぇ、ルーチェ……僕、それ飲まなきゃダメ?』
ジュストが怪訝そうな声を出し、ルーチェはちょうど小瓶に分け終わった薬の1つを手に取った。
ジュストが飲みたくないと思うのも当然だろう。緑を通り越して、なんというか……茶色いからだ。
先日少しだけ効果のあった変化の魔法を破る薬。改良していたら、毒でも調合しているのではないかと思ってしまうほどの品が出来た。それも大量に。
「でも、この前より効きそうじゃない?」
あはは、と乾いた笑いを漏らしながら、ルーチェは肩に乗っているジュストの鼻先に小瓶を差し出した。
『僕、死にたくない』
「あのねぇ……この前より強めに調合したから色は変だけど、死んだりしないわよ」
先日は10分ほどでネコの姿に戻ってしまったジュスト。
リトルノの根を漬ける時間を更に長くし、量も多く入れてみた。効き目は高まっているはずだ。
しかし、気になることが1つある。
ジュストが薬を飲んでもネコに戻ったということは、ジュストにかけられている魔法は変化の魔法ではないということだ。短時間とはいえ薬が効いたので似たような魔法なのかもしれないが、根本的な解決にはならない。
「また図書館に行かなきゃね」
魔法について調べるなら図書館が適しているだろう。ジュストによると、ユベール王子とはまた図書館で会ったらしいので、運が良ければ何か話を聞くこともできる。
『ねぇ、ルーチェ』
「何 ?」
ルーチェがもう1つの鍋の様子を見ながら蜂蜜の計量をしていると、ジュストが首筋に頬を摺り寄せる。
『僕、もう部屋に戻りたい』
「戻ればいいじゃない。私はこれを完成させないといけないから」
煮立って甘い香りを放つ鍋に蜂蜜を落とす。雫が落ちたところから波立つように桃色に変わって一層香りが強くなった。
『ルーチェと一緒がいいの。テオの薬なんか作らなくていいよ』
ペシペシとルーチェの肩を叩くジュスト。ルーチェは鍋の火を止めて、ジュストを机に下ろした。
「わがまま言わないでよ。ジュストの薬はちゃんと作ったんだから、他に何を調合しようが私の自由でしょ?」
昨夜、テオから『明日、研修が休みだから薬を取りに来る』とボーラが届いていた。
ボーラとは泡を使った水属性の操る伝達魔法のことだ。泡を介して会話をしたり、泡に自分の声を閉じ込めて相手に送ったりすることができる。泡のやりとりをする場合、普通は小さな金魚蜂に魔法をかけた水を入れておくことで受け取れるが、熟練した者ならば水を使わず直接相手にボーラを送ることも可能だ。
『嫌だ! 僕、テオのこと嫌いだもん! ルーチェのこと好きなのは僕だ!』
ジュストは毛を逆立てて言う。どうもテオを敵対視しているようなのだが、一体何があったというのだろう。
「はぁ……わかったから。部屋に戻ればいいんでしょ」
惚れ薬も完成したし、ジュストもうるさいし。
ルーチェは急いで小瓶に惚れ薬を分けてジュストの薬と一緒に箱にしまった。それから、蓋をした箱の上にジュストを乗せて、まだ駄々を捏ねるジュストを宥めつつ、部屋へ戻る。
「はい、飲んで。今回はちゃんと時間を測ってみるから」
ルーチェがベッドの上に乗ったジュストに瓶を差し出すと、ジュストは首を傾げてルーチェを見上げた。
『ルーチェ、抱っこして』
「ダメ……飲んで」
前回、抱っこして飲ませたら大変なことになったのだ。ここは1人で飲んでもらわないと困る。
『飲んだら抱っこしてくれるの?』
いや、どちらかというとルーチェが抱っこされるというか……
「ああ、もう! 飲むの、飲まないの?」
『……飲む』
ジュストはムッとしたような声を出し、大きく口を開けた。ルーチェがその中に薬を流し込み、ジュストの喉がゴクリと鳴って数分――
身体から光を放ちながら、だんだんと大きくなってドサリとベッドに倒れこんだジュストは、両手をついて重そうに身体を起こした。
「痛い」
人間に戻るときは身体に多少の負担がかかるようだ。こんなに大きさが変わるのだから、当然といえば当然だが。
ふぅっと息を吐き出したジュストは、前髪を掻きあげてルーチェに視線を合わせた。
琥珀色の瞳に見つめられ、ルーチェはドキッとする。このオトコ、仕草が妙に色っぽいのだ。
ルーチェより年下のくせに! 「抱っこ」とか甘えるくせに!
ルーチェはふいっと視線を逸らして時計を確認する。お昼少し前だ。
数時間持てば良い方だろうか……
「ルーチェ」
「な、に――っ!?」
突然、ルーチェの手をジュストが引っ張って、バランスを崩したルーチェはジュストに向かって倒れこむ。
そんなルーチェの腰を力強く引き寄せて、ジュストは彼女を膝の上に乗せた。
「ちょっ! くっついたらダメって何度も言ってるでしょ」
「どうして?」
ジュストの肩を押し返すが、ギュッと抱きしめられていて身体が離れない。ジュストがルーチェの首筋に頬を寄せて、柔らかな髪がルーチェの頬をくすぐった。
「ねぇ、ルーチェ。僕のこと好きでもイジワルはしないで。抱っこしてよ」
どうやらジュストは、ルーチェが抱っこをしたがらない理由をかなり前向きに解釈しているみたいだ……
「あのっ、あのね! 17歳の、人間の、男の子が抱っこはおかしいの。それに、こんな風にくっつくのは、恋人とか夫婦とか……」
「コイビト? フウフ?」
ジュストは少し身体を離してルーチェを見上げた。
「え、えっと……そうだ! 貴方のお兄さんとそのお嫁さんみたいな人たちのことよ。恋人はお互いにお互いが好きな人たちのこと。その人たちが結婚したら夫婦になるの」
ジュストが理解できるようにユベール王子を例に出しながら、ルーチェはジュストの身体を押し返して距離を取った。
「でも、ルーチェは僕のこと好きでしょ?」
不思議そうに首を傾げるジュスト。
ああ、どうしたらわかってもらえるのだろう。
「いや……好きってそういう意味じゃなくて」
「僕もルーチェのこと好きだから、僕たちコイビトだね?」
「は!? そうじゃな――きゃあっ」
ルーチェが否定するよりも早く、ジュストは再び彼女に抱きついて、胸に頬を摺り寄せる。
「ルーチェ、小さくて、可愛い。抱っこしてもらうのがダメなら、僕がルーチェのこと抱っこしてあげるから、ね?」
「ジュ、ストっ! ダメだってば!」
意識しているのはルーチェだけなのだとわかっていても、異性にこんな風に触れられてドキドキするなというのは無理な話だ。
ジュストの肩に手をついて押し返しているはずなのに、ジュストの身体はピクリともしない。
ネコのときとは違う、オトコ。
改めてそれを認識して、ルーチェの鼓動は全身が心臓になったのではないかと思うほどに大きくなった。
そもそもこんな近い距離に異性がいることなど初めてで、どうしたらいいのかわからない。
ただ、苦しいほどに胸がドキドキして、でもジュストの身体の大きさやちょっと高めの体温にホッとして……いろいろな感情が混ざった不思議な気持ちだった。
でも一番は、ジュストはちゃんと人間で、生きているのだ……という安心感。
そんなことをぼんやり考えていたら、ルーチェは抵抗することを忘れてジュストの頭をそっと撫でていた。ふわふわとした髪の毛がルーチェの手だけでなく、心までをくすぐるような気がする。
「……ルーチェ、僕……なんだか、いい気持ち、する」
「へ……?」
すると、ジュストが顔を上げてルーチェを琥珀色の瞳に映し、そっと長い指でルーチェの唇に触れた。ルーチェは思わずピクリと肩を震わせる。
「口と口をくっつけるのは、コイビトがすること?」
「え、あ……う、ん……?」
口と口をくっつける――キスのことを言っているのだろう。
ルーチェが頷くと、ジュストはルーチェの首の後ろに手を回して引き寄せてくる。
「えっ!? ま、待って! 違うっ!」
確かにキスは恋人や夫婦がするものだが、ルーチェとジュストは恋人ではない。その前提が間違っているのだ!
「や、ジュスト――っ」
腕を突っ張っているはずなのに力が入っていないのか、ジュストとの距離は縮まるばかり。
ジュストの綺麗な琥珀色が近づいて、息遣いまでが感じ取れて――
バンッ
「もう! お姉ちゃん、ご飯――」
と、勢い良くドアを開けたアリーチェがそこで言葉を止めた。ノックもせずに入ってきたことを考えると、おそらく階下から何度も呼んだのだろう。
「あ、アリーチェだ」
ジュストはニッコリと笑ってアリーチェに手を振った。キスから意識が逸れたのは良かったが、今度は別の問題が浮上した。
「……誰?」
アリーチェはポカンとしてジュストを見つめている。その視線が頭から爪先までを観察し、ジュストの顔で止まってポッと頬を染めた。
どうやらアリーチェのお眼鏡に適ったようだ。
アリーチェはルーチェに視線を移し、ニヤリと笑ってくるりと背を向けた。
まずい! そう思ったものの、時すでに遅し。
「アリ――」
「お母さーん! お父さーん! お姉ちゃんが男の人を部屋に連れ込んでるー!!」
ルーチェの言葉などアリーチェが聞くはずもなく、アリーチェはものすごい勢いで階段を下りていってしまった。
「あぁ……」
ルーチェは目元を手で覆った。この後のことを考えると胃が痛くて昼食どころではない。
「ルーチェ。ご飯できたって。僕、お腹空いた」
そしてこのオトコも……どこまでもマイペースだ。
***
――なぜ?
「まぁ、それは大変だったわね。じゃあ、ジュストくんはこのままここで暮らすでしょう?」
「うん。僕、ルーチェのところにいる」
ブリジッタがニコニコと――いや、デレデレと――しながらジュストに食後のデザートを出し、ジュストはパッと顔を輝かせてフォークを手に取る。
ちなみに今日はチーズケーキだ。
「じゃあ、ネコに戻ってもジュストって呼んだ方がいいんだ?」
「うん。僕、オロって名前じゃない」
アリーチェが緩んだ顔で――デレデレと――ジュストがチーズケーキを頬張る様子を見つめていて。
「ジュスト、ルーチェの婿に来るか? アリーチェでもいいぞ」
「ムコって何? 僕、ルーチェがいい」
グラートも満面の笑みで――つまり、こちらもデレデレと――ジュストに質問攻めだ。
ジュストはそれぞれの質問に答えながらもチーズケーキから目を離すことなく、瞬く間にお皿は綺麗になった。
……おかしい。
つい昨日まで、ルーチェのことを疲れておかしくなったのではないかとまで言っていた人たちのはずなのに。
おかしい。
アリーチェがブリジッタとグラートにジュストのことを報告してしまったため、ルーチェは諦めて彼をリビングへ連れて行った。
どうせ、ジュストが完全に人間に戻ったら隠すこともできなくなるだろうと諦めに似た気分ですべてを話したのだ。
家族3人は、なぜかジュストの登場に浮かれている。
ブリジッタやアリーチェはバラルディ家のアイドルに完全にノックアウトされ、グラートも「俺は息子が欲しかったんだよ」などと言い出す始末。
ルーチェは思いきりチーズケーキにフォークを突き刺した。一口に食べてしまうには少し大きな塊を口の中に押し込んで、席を立つ。
一体何だというのだ。
ジュストと出会ったのも、ジュストについて調べたのも、ジュストが短時間でも人間に戻れるようにしたのも、全部ルーチェなのに。
ルーチェの言うことなど全く信じてくれなかった家族は、ジュストの言うことはホイホイ聞いて!
ルーチェが席を立ったことにも気づかずに盛り上がる3人を見て、ルーチェはもやもやとした気持ちになった。
その中で、ジュストだけはルーチェを琥珀色の瞳に映していて、首を傾げる。
「ルーチェ、部屋に戻るの? 僕も行――」
「ジュストはお母さんたちにチヤホヤされてればいいわよ!」
思いきりそう言って、ふんっと顔を背けてリビングを出て行く。
イライラする!
ルーチェは頭から火が出ているのではないかと思うほどにカッカしながら部屋に戻った。
もうすぐテオが薬を受け取りにやってくる。引き出しから薬を取り出して、またドアへ向かおうとするとジュストが入ってきた。
「ルーチェ 、どうして置いてくの? 僕――」
甘えたように近寄ってきたジュストの雰囲気が少し変わる。ルーチェはその視線が手元に注がれていることに気づいて、それをスカートのポケットに入れた。
そのまま無言でジュストの横を通り過ぎようとすると、腕を掴まれてしまう。
「ちょっと! もうすぐテオが――」
「ダメ!」
ジュストが大きな声を出してルーチェは思わずビクッとしてしまった。
「テオに会ったりしないで! テオのお願いを聞いたりしないで! 僕、嫌だ!」
「な、に……言ってるのよ! 訳わかんない!」
確かに惚れ薬のことは断り損ねたけれど、テオは同級生でお互い何かあったら助け合うことは普通だ。
それに、ジュストがテオを嫌っているからといってルーチェまで身の振舞い方を強制される筋合いはない。
「子供みたいなこと言わないで」
「ねぇ、どうしてイジワルするの? 僕のことが好きだったら、優しくしてよ。僕、イジワルは嫌だよ」
イジワルするな、好き、優しくして……
「もう!!」
ルーチェは先ほどからイライラしていたせいもあって、乱暴にジュストの手を払った。
「優しくしてほしいなら、してくれる人のところへ行けばいいでしょ!」
ジュストに負けないくらいの大きな声で言い捨て、駆け足で階段を下りた。
玄関を出て、息を整えようと呼吸をしているとパタパタと足音が近づいてくる。
「ルーチェ。悪い、なんだか急いでるみたいだけど都合悪かった?」
どうやらすでに近くまで歩いて来ていたテオは、勢い良く出てきたルーチェを見つけて走ってきてくれたらしい。
「ううん。違う……はい、これ」
ルーチェは首を振ってポケットから小瓶を出してテオの手に乗せた。
「これ? やっぱり、俺は薬の調合がうまくないんだな。色が全然違う」
苦笑いをしたテオは「ありがとな」とお礼を言う。
「でも、効くかはわからないよ」
「うん。なぁ、ルーチェ」
少し真剣になったテオの声。ルーチェは彼としっかり視線を合わせた。
「ん。何?」
「お前は……好きな奴、いないの?」
「え……?」
突然の質問。ルーチェは速い鼓動を抑えるように胸に手を当てた。
どうして――?
違う。
鼓動が速いのは、階段を駆け下りたせいだ。階段を駆け下りなくてはいけなかったのは、ジュストが子供みたいなことを言ったせいだ。
だから、ジュストの顔が浮かんだ。ただ、それだけ……
「こんな薬に頼って、バカだって思うだろ」
「そ、れは……」
話を聞いたときはそう思ったけれど。
「でも、好きなんでしょ? うまく気持ちが伝わらなくて、薬に頼りたくなるくらい、好きなんでしょ?」
それだけ真剣な想いなのかな、と……惚れ薬を作りながら思い直したことも事実だった。詳しい事情を知らないルーチェに、頭ごなしに馬鹿にする権利はない。
「ああ。でもさ、薬はずるいだろ? だからもう1回……やっぱり、ちゃんと言おうかと思って」
「そうなんだ」
「好き」という言葉は、年齢を重ねるごとに比例するように重さを増していって……伝えるのが難しい。
だから、ジュストの「好き」はルーチェを戸惑わせる。彼のそれはどれくらいの重さなのだろう。
「ルーチェ」
「うん?」
ああ、なんだか変だ。
テオと話しているのに、どうして?
「俺が好きなのは、ル――」
「ルーチェは僕の!」
どうして、ジュストが――
「へ!?」
急に後ろへと引っ張られて、ルーチェは目を瞬かせた。次の瞬間には、ジュストがルーチェの肩から手を回してガバッと抱きついてくる。
「えっと……誰?」
テオも驚いて目を見開いている。
「僕はジュスト。僕とルーチェはコイビトで、僕はムコにくるの」
「は……え!? 恋人? 婿!?」
テオは更に目を大きくしてルーチェとジュストの顔を交互に見た。
「違っ! 違うの! テオ、ジュストは――」
「僕、君のこと嫌いだから!」
ジュストはそう言ってルーチェに回した腕に力を込めた。
「ちょっと、ジュスト!」
ジュストの言葉を否定しなくてはいけない。ジュストから離れなくてはいけない。けれど、そのどちらもジュストが許すことはなく、テオを睨み続ける。
「君はルーチェにイジワルされたことがある?」
「へ? イジワル……? ない……けど」
困惑したようにテオが眉を顰める。
「ほら! ルーチェは君のこと嫌いなんだ! 僕にはいっぱいイジワルするんだから!」
「……う、ん……?」
嬉しそうに声を弾ませるジュストと首を傾げるテオ。
どうやら完全にジュストの中でイジワルが好きの基準になってしまっているらしい。
「ルーチェは僕のこと好きだし、僕の方が君よりルーチェのこと好きだよ。ルーチェのこと、取ったら許さない!」
最後は噛み付くかのような勢いでテオに向かって叫び、ジュストは軽々とルーチェを抱きかかえて玄関のドアを閉めてしまった。
「ちょ、ちょっと! ジュスト、降ろしてよ」
そう言いつつも、不安定な体勢が怖くてルーチェはジュストの首にしがみついた。
すると、ジュストは先ほどテオと対峙していたときに悪かった機嫌もすっかり直った様子で、ウキウキしたオーラを出しながら階段を上がっていく。
ルーチェ1人を軽々と運ぶ様子はやっぱりオトコ。それを意識した途端、ルーチェの体温が上がった気がした。
「ルーチェって、小さくて軽いんだね」
「そんなことない! お、降ろして!」
ジュストの背中を叩いてみるが、降ろしてくれる気配はない。
結局そのまま階段を上りきって、ルーチェの部屋に入った。
それなのに、ジュストはルーチェを担いだままだ。
「それに……ルーチェ、ホントに柔らかい」
「へ、きゃ!? ちょ、ちょっと、どこ触って――や、やだっ!」
ジュストはあろうことか抱えていたルーチェのお尻を撫で、更にもう片方の手で膝裏から太ももの感触を確かめるかの如く撫でる。
別にいやらしい手つきではない……と思う。そもそもルーチェはいやらしい手つきで触られたこともないので比べられないが。
ただ、恥ずかしくて、くすぐったくて。なんだかふわふわして、これ以上はダメな気がする。
とにかく、何か危険だ!
「っ、ジュ――ぎゃっ!?」
ドスッ
内臓が一瞬浮いたような感覚と、そのすぐ後に膝が思いきり床と衝突した。咄嗟に手をついて顔を打つことは免れたが、かなり痛い。
「イタタタ……」
ルーチェはそのまま冷たい床に蹲った。膝からジンジンと痺れが広がる。
「にゃうー……『ルーチェ、大丈夫?』」
呻くルーチェのもとへ、ネコに戻ったジュストが寄って来て顔を覗き込む。
「大丈夫、に……見えるの?」
なぜ、このタイミングでネコに戻ったのだ? いや、助かったのか?
もうわからない!
「今、何時?」
『わかんない』
そういえばジュストは時計も読めないのだ。
ルーチェは床を這ってベッドによじ登り、目覚まし時計を確認する。2時半を少し過ぎたところ――薬の効果は2、3時間といったところか。
『あのね、ルーチェ。ムコってずっとルーチェと一緒にいられる人のことなんだって! だから僕、ムコになるよ』
「あ、そう……」
ルーチェは大きくため息をついて枕に顔を埋めた。
小さな男の子が「大きくなったらお母さんと結婚する」と言うのに似たものだと思おう。
そうでなければ、やっていられない。
そのうち、ジュストの「好き」の重さは誰か違う女の子に傾いていく。それと同時に彼の「好き」の天秤に乗ったルーチェも徐々に軽くなっていく。
そうだ。そうなのだ。
外見だけは年相応に成長しているジュストが言うせいで混乱していたけれど、それだってルーチェが意識し過ぎているだけだ。
ジュストの好きは、本当の恋を見つけるまでの、短い重さ。そのことを考えると少し寂しい気もするけれど。
「お母さんって、こんな気持ちなのかも……」
思わず笑ってしまうと、枕元にやってきたジュストが不思議そうにルーチェを見た。
『ルーチェ、嬉しいの?』
「ん……嬉しくて、寂しい、かな……」
そう言ってジュストの頭を撫でてあげたら、ジュストは気持ち良さそうにルーチェの手に頬を摺り寄せた。
もう少しだけ……こんな時間が続けばいいな、と思いながらルーチェはジュストを抱っこしてあげた。




