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去りゆく仲間、遥かなる1500m

作者: 吉原タシ
掲載日:2026/07/28

1,高校二年生 初冬。



灰色の空が低く垂れ込め、今朝は校庭の芝生に薄く初霜が降りていた。午後の部活動が始まる頃、風はすでに冷たく、息を吐くと白く煙った。グラウンドでは、女子陸上部の部員たちがストレッチを終え、トラックに散らばっていた。

二年生の高梨たかなし ゆずはいつもの位置、スタートラインの少し手前で、赤いジャージの袖を軽くまくっていた。ジャージは少し擦り切れていて、肩のあたりに白いラインが三本、くっきり残っている。白いシャツの下に感じる心臓の鼓動が、今日も少し速かった。



強豪校ではないが、柚は中距離走のエースだった。中学からずっと陸上一筋で、一年生の頃、新人戦の1500メートルで大会の表彰台に上り、800メートルでも入賞した。一応、短距離の補欠としても要員に名を連ねていたが、こちらは短距離専門の部員が多く、まだ出番がない。

身長は平均より少し低めで、細身ながらも脚のラインは躍動感のある曲線を描き、走るたびに紺色のランニングショーツが風を切る。少し癖のあるボブカットの焦茶色の髪が、頰を撫でる。大きな瞳は、走る前はいつも少し不安げに細められるが、スタートの合図が鳴ると、鋭く輝いた。



「よし、アップからいくぞ。高梨、ペースメーカー頼む!」



顧問の声が響く。柚は小さく頷き、トラックに足を踏み出した。地面の冷たさがシューズの底から伝わってくる。初冬の風が頰を刺すが、それさえも心地よかった。走り始めると、世界が狭まる。息の音、心臓の音、足音だけがすべてになる。仲間たちの声が遠のき、ただ前だけを見る。



しかし、近頃の練習は以前と少し違っていた。柚に続く部員が明らかに少ない。春には三年生を除いて二十人近くいた女子部が、今は十人足らずだ。去っていった仲間たちの顔が、走りながら浮かぶ。



あかり。柚とともに1600メートルリレーのメンバーだった。「ずっと走ろうね、柚!」と笑っていた子。記録会のリレー競技で優勝した夜、二人で校舎の屋上に忍び込んで、星を見ながら誓った。しかし、あかりは専門の短距離の記録が伸び悩み、二年生の夏の終わりに「受験勉強に集中したい」と顧問に申し出た。柚は練習後のロッカールームで、その言葉を聞いた。笑顔で「わかったよ」と答えたが、心の中では何かが軋んだ。



次に、みう。柚と同じ中距離選手だったが、故障が増えて活動を諦め、「就職の面接対策で部活無理かも」と去った。みうはいつも明るくて、走った後のアイスをみんなで分け合うのが楽しみだった。彼女が最後に残した言葉は、「柚はエースなんだから、頑張ってね」だった。それが、妙に重かった。



一人、また一人。理由はいつも同じ。「受験」「就職」「将来」。高校二年といえば分岐点には少し早いかもしれないが、来年は三年生。大学推薦や一般入試、進路の話が周囲で飛び交い始めていた。



練習が終わり、部室に戻る頃には、空はすっかり暗くなっていた。蛍光灯の白い光の下、柚はベンチに腰を下ろし、タオルで汗を拭った。赤いジャージの胸元が、少し湿っている。柚の他には唯一の中距離選手のはるかが、水筒を差し出した。



「柚先輩、今日も速かったです。1500のラストスパート、鳥肌立っちゃいました」



遥は一年生で、まだ目がキラキラしている。柚は微笑みを浮かべ、水筒を受け取った。中には温かい紅茶が入っていた。口に含むと、ほんのり甘い。



「ありがとう。でも、最近みんな減っちゃったね……」



言葉を濁すように言うと、遥の表情が少し曇った。



「うん……。みう先輩も、先月正式に退部届出したみたい。『公務員試験の勉強が本格化するから』って。顧問も、仕方ないって言ってたけど……」



水筒を握る柚の手に力が込もった。仕方ない。確かに、成績が振るわない子が辞めていくのは、現実的かもしれない。陸上部は強豪ではない。県大会で入賞経験があるのも、柚とあと数人だけ。残りの子たちは、補欠や、マネージャーだか選手だかわからないような有り様だった。大学や就職で「陸上経験あり」が有利になる子は少ない。みんな、現実を見ている。顧問も、指導は熱心でも、部活はあくまで課外活動というスタンスだった。



でも、柚の中には、かすかな怒りがくすぶっていた。いつまでも一緒に走ろうと誓ったのに。夏の合宿で、泥だらけになって笑い合ったのに。故障で苦しむ仲間を励まし合ったのに。走ることを、ただの「部活」として切り捨てるように去っていく姿が、許せなかった。いや、許せないというより、理解できなかった。



同時に、羨ましさもあった。あかりが受験勉強を選んだとき、みうが就職準備に切り替えたとき、彼女たちの目は少し軽くなっていた。走る以外の道を見つけた解放感。柚にはそれがない。走ることが、彼女のすべてだった。中学の頃から、走ることでしか自分を肯定できなかった。記録を更新するたび、皆の期待に応えられた気がした。顧問に褒められるたび、生きている実感があった。



部室の扉が開き、顧問が入ってきた。疲れた顔で、出席簿をめくる。



「今日の練習、お疲れ。来週の記録会、高梨は1500で。リレーはもう人数が足りないから参加を見送った。他の子たちは……まあ、調整しながらな」



誰も何も言わなかった。去った子たちの名前が、暗黙のうちに空席として残っている。柚は部室の一角にあるロッカールームで着替えを始めた。と言っても、ロッカーをいくつか並べて入口にカーテンを吊るしただけの空間だ。赤いジャージを脱ぎ、白いシャツを畳む。鏡に映る自分の姿が、ふと遠く感じた。細い肩、引き締まった腰、しかしどこか頼りない表情。走るための体はできている。でも、心はどうなんだろう。



家に帰る道、街灯が橙色に道を照らす。柚は自転車を漕ぎながら、風を切る音に耳を傾けた。冬の夜風が、耳を冷やす。家に着くと、母親が夕飯を温めてくれていた。



「おかえり、柚。部活どうだった?」



「うん、普通……」



曖昧に答えて、寡黙な夕食を終え、部屋に戻る。ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。スマホに、同期の仲間たちとのグループチャットが残っていた。最後のメッセージは、夏の大会後の写真。あかりとみうが、柚の肩を抱いて笑っている。「ずっと一緒に走ろうね!」のメッセージと猫たちのスタンプだ。



柚は目を閉じた。走る意味。今やるべきこと。記録を狙うのか、それとも……。不安が、胸の奥で渦を巻く。初冬の空のように、重く冷たい。



翌朝、グラウンドは霧に包まれていた。柚は一人で早朝練習に来ていた。ショーツの裾を直し、スタートラインに立つ。誰もいないトラック。自分の足音だけが響く。1500メートル、ペースを刻む。息が白く、肺が痛い。でも、止まらない。止まったら、何も残らない気がした。



三周目、ベンチの影に誰かの姿が見えた。遥だった。少し離れたところで、ストレッチをしている。柚はゴール後、息を整えながら近づいた。



「早いね、遥」



「先輩こそ……。なんか、最近よく一人で走ってるみたいで、気になって」



遥の言葉に、柚は苦笑した。気遣いが嬉しいのに、胸がざわつく。遥も、いつか辞めるのだろうか。いや、遥はまだ一年生。まだ、走る喜びを知っているはず。



二人は並んでトラックを歩いた。冷たい風が、ジャージの襟を揺らす。柚は、ふと口を開いた。



「遥、走るのって、楽しい?」



「え? もちろん! 先輩みたいに速くなりたいし、みんなと一緒に……」



言葉が途切れる。遥も、去った先輩たちのことを思っているのだろう。柚は頷き、遠くの校舎を見つめた。朝焼けが、わずかに空を染め始めていた。



走る意味。まだ、見えない。仲間が減っていく中で、柚は自分の足元だけを見つめていた。落胆が、怒りが、羨望が、混じり合って、心を重くする。でも、足はまだ動く。初冬のグラウンドで、柚の影は長く伸びていた。



部活後、昇降口で、柚は部員募集のポスターを眺めていた。部員が減り始めた秋に顧問が貼ったものだ。「一緒に走ろう!」の文字が、妙に空虚に感じる。かつての自分たちも、そう信じていたのに。



夜、部屋でファイルを開く。進路調査票。大学、専門学校、就職。空白のまま。一年ちょっと後のことなのに、何も書けない自分が、怖かった。



こうして、柚の冬は始まった。走り続けることの意味を、探しながら。






2,高校二年生、3月。



急にその勢いを増してきた陽光に、グラウンド脇の芝生が急激に青さを増していた。朝の早朝練習を終えた柚は、部室のベンチに腰を下ろし、息を吐きながらタオルで汗を拭っていた。もう随分暖かくなったのに、赤いジャージの白いラインは霜のように光る。白いシャツの下、心臓の鼓動がまだ速く、指先がわずかに震えていた。以前は遥との二人だけの秘密めいた練習だったはずなのに、今日も彼女の姿はなかった。



遥が退部したのは、年明けのことだった。学業成績が振るわず、親との文武両道の約束を守れなかったのだという。遥は入部した頃から「勉強も両立させる!」と明るく宣言していた。あのキラキラした瞳で、柚に「先輩みたいに強くなりたい」と言い続けていた子。なのに、二期末テストの結果が悪く、母親から「部活を辞めて勉強に専念しなさい」と最後通告が出され、つかみ合いにまでなったらしい。顧問に退部届を提出した夜、遥は柚を校舎裏の自販機前まで呼び出した。



「先輩……ごめんなさい。もう、続けられないんです」



遥の声は涙に震えていた。冬の夜風が、二人の間を冷たく吹き抜ける。柚は言葉を探したが、何も出てこなかった。ただ、胸の奥で何かがゆっくりと崩れていく感覚だけがあった。遥はポケットから小さな袋を取り出し、中から手編みのミサンガを出した。赤と白の糸で編まれたシンプルなブレスレット。高校のエンブレムを模した小さなチャームが、街灯に照らされて輝いていた。



「これ、先輩に。大会で、絶対にいい記録出してください。私、応援してるから。……ずっと、一緒に走りたかったけど……」



遥の目から、大粒の涙がこぼれた。柚は無言でそれを受け取り、手首に巻いた。糸の感触が、冷たい肌に温かく絡みつく。遥は最後に小さく微笑み、「先輩なら、大丈夫です」と言い残して、夜の闇に消えていった。あの背中が、去っていく仲間たちの最後の一人だった。



それ以来、朝の女子陸上部のグラウンドは、ほとんど柚一人になった。放課後の練習も、二年生の柚と、短距離の一年生が何人か顔を出す程度。長距離の子も来なくなって久しい。顧問も、練習メニューを「個人調整中心」に切り替えていた。柚は走る意味も、やめる理由も、見つからないまま、ただ習慣のように足を動かし続けていた。



朝の霧が立ち込めるグラウンド。柚は一人、トラックに立っていた。今朝は冬に逆戻りしたかのように冷える。短い紺色のショーツが、冷えた太ももに張りつき、赤いジャージのジッパーを首元まで上げても、冷気が忍び込んでくる。ミサンガが手首で小さく揺れる。スタートラインに足を揃え、深呼吸。誰もいない。声をかける仲間も、後ろから食らいついてこようとする後輩もいない。ただ、自分の足音だけが、虚しく響く。



1500メートル。最初の周回はゆっくり。息が白く、肺が冷たい空気で痛む。二周目からペースを上げる。足の裏が地面を蹴る感触、風を切る音、心臓の鼓動。すべてが、以前と同じはずなのに、どこか空虚だった。遥の笑顔が、脳裏に浮かぶ。「先輩、今日も速い!」「一緒に鯛焼き食べに行きましょう!」あの声が、もう聞こえない。去っていったあかり、みう、そして遥。みんな、走る以外の道を見つけた。勉強、受験、親の期待。現実的な選択。柚にはそれがない。走ることが、彼女のアイデンティティそのものだった。中学からずっと、自己記録を更新するたびに「自分はこれでいい」と肯定してきたのに、今はそれさえも揺らいでいる。



三周目、ラストスパート。脚が重い。寒さが、筋肉を硬くさせる。ゴールラインを越えた瞬間、膝に手をついて息を荒げた。汗が冷えて、背中がぞわぞわする。ミサンガを握りしめる。遥の想いが、糸一本一本に込められている気がした。「大会で頑張って」。そうだ、県大会まであと二ヶ月。そこだけが、柚の目標だった。この部のエースとして、1500メートルで優勝を狙う。それが、残された唯一の「今やるべきこと」だった。でも、本当にそれでいいのか。走り終わった後の虚無感が、毎回胸を締めつける。



部室に戻ると、顧問が一人で練習記録を眺めていた。壁には、退部した部員たちの名札がまだ残っている。柚は黙ってロッカールームで着替え始めた。これまで数え切れないくらい繰り返してきたように、赤いジャージを脱ぎ、白いシャツを畳む。鏡に映る自分の姿は、以前より更に引き締まったように見える。しかし瞳はどこか疲れている。顧問がロッカー越しに声をかけた。



「高梨、最近一人で頑張ってるな。県大会、期待してるぞ。……申し訳ないが、他の選手はいまひとつ伸びていない」



柚は小さく頷いた。期待。プレッシャー。誰もいないグラウンドで、それだけを背負う重さが、日に日に増していく。部室の窓から見える校庭は、霜が溶け始めた午後の光に照らされ、寂しく広がっていた。かつては賑やかだったストレッチの輪、笑い声、汗の匂い。すべてが、過去のものになっていた。



放課後、柚は一人で追加練習をしていた。スタート練習も兼ねて200メートル×8本。息が上がるたび、遥のミサンガが手首で温かく感じる。あの子の願いを、無駄にはできない。でも、走る意味はまだ見えない。やめる理由も、ない。親は「やりたいなら続けなさい」と言うし、顧問も期待を寄せてくる。走ることが、柚の居場所だった。辞めたら、何が残るのだろう。受験勉強? 進路? ノートに書けない空白のまま、時間が過ぎていく。



夜、家路を自転車で帰る道。街灯が橙色に道を染め、冷たい風が頰を刺す。家に着くと、母親が心配そうに声をかけた。



「柚、部活大丈夫? 最近、遅いみたいだけど……」



「うん……平気」



曖昧に答え、部屋に戻る。ベッドに倒れ込み、天井を見つめる。スマホを開くと、中距離のグループチャットがまだ残っていた。遥の最後のメッセージ。「がんばれ柚先輩!」ミサンガを巻いた手首を、そっと撫でる。涙が一筋、こぼれた。落胆、怒り、羨望。去っていく仲間たちへの感情が、渦を巻く。自分だけ取り残されたような孤独。走る意味を探しても、答えは出ない。ただ、足は動く。たぶん明日も、グラウンドへ行く。



翌朝も、柚は早朝の陽光の中を走っていた。県大会に向けたインターバル練習。400メートル×6本、ハイペース。息が切れ、脚が悲鳴を上げる。誰もいないベンチに、遥の幻影が浮かぶ。笑顔で水筒を差し出していた姿。汗が目に入り、視界がぼやける。それでも、止まらない。ミサンガが、手首で小さく光る。



昼休み、校舎の屋上で一人弁当を食べる柚。冬の風が強く、制服の上に羽織ったジャージの襟を立てる。クラスメートたちは、受験の話で盛り上がっていた。「推薦狙ってる」「塾の模試どうだった」そんな声が、遠く聞こえる。柚には、走ること以外、何もない。羨ましい。みんな、未来を描けている。自分は、ただトラックの上だけ。



午後の練習は、雨混じりの冷たい風の中だった。ショーツが濡れ、肌が冷える。柚は一人、トラックを周回する。足音が、水溜まりを跳ねる。県大会のコースを想像しながら、ラストの直線を全力で駆け抜ける。ゴール後、地面に膝をつく。息が白く、涙が混じる。遥、まだ、意味が見えない。でも、走るよ。君のミサンガをつけて。



日が長くなってきた。しかし夕方のグラウンドで、柚の影が、長く伸びていた。昇降口の部員募集のポスターは、めくれ、色褪せていた。「一緒に走ろう!」の文字が、皮肉に感じる。柚はロッカールームで、ミサンガを外さずに着替える。制服の上着を羽織り、鏡に向かう。自分の瞳に、かすかな決意が宿っていた。



走り続けること。それだけが、今の柚にできるすべてだった。春のグラウンドで、彼女の足音は、孤独に響き続けていた。走る意味は、まだ見つからない。でも辞めようと思えば、いつでも辞められる。あの顧問なら無理強いはしないだろう。それでも柚は、足を止めなかった。もしここで走ることをやめてしまったら、きっと一生、後悔の影を引きずっていく気がした。

自分から陸上を放棄するなど、彼女には耐えられなかった。意味など、まだ見えなくてもいい。今はただ、走り続けること。それが、彼女にできる精一杯の抵抗だった。

県大会まで、二ヶ月。






3,高校三年生、初夏。



五月下旬の空は抜けるような青で、グラウンドの芝生は濃い新緑に輝いていた。強い日差しがトラックのラインを白く照らし、風はすでに夏の気配を帯びて暖かく頰を撫でる。県大会決勝のスタートラインに、柚は立っていた。赤いランニングシャツの下で心臓が激しく鼓動を刻んでいた。短い紺色のショーツが、引き締まった脚にぴったりと張りつき、足元は白い本番用シューズが温まった地面を掴む。手首には、遥がくれた赤と白のミサンガが、擦り切れそうになりながらも、陽光に照らされて輝いていた。



三年生になってからも、柚は走り続けていた。走る意味も、やめる理由も見つからないまま。それでも県大会予選を勝ち抜き、1500メートル決勝の舞台に立った。観客席には顧問と数人の後輩たちの姿。かつての仲間たちの声が、記憶の中から蘇るように響く。



決勝の1500メートルは12名で争われる。地方大会への切符は、上位6位以内。柚はエースとは名ばかり、部の唯一人の中距離選手としてここまで来た。



「On your mark.」



審判の声が、初夏の風に溶ける。柚は前傾姿勢を取り、つま先で地面を強く押した。全身の筋肉が、暖かい陽光の中で張りつめる。隣のレーンの選手たち——県内トップクラスの強豪たちが、息を潜めている。柚は深く息を吸い、目を閉じた。孤独、遥の涙、去っていった仲間たちへの落胆と羨望、すべてが胸に渦巻く。



「Set.」



号砲、スタート。柚は飛び出した。最初の二百メートル、彼女は先頭に躍り出ていた。ずいぶん足が軽い。初夏の風を切り、呼吸を刻む。トラックの曲線が身体に馴染み、日差しが汗をすぐに乾かす。顧問の声が遠く聞こえる。「高梨!行け!」序盤は快走だった。ペースが完璧。今日は調子がいい。心臓の鼓動が力強くリズムを刻み、ミサンガが手首で小さく跳ねる。



六百メートルを過ぎても、柚は三位をキープしていた。脚の筋肉が熱を帯び、息が少しずつ熱くなる。新緑の木々が視界の端を流れ、強い日差しが影を短く落とす。美しい景色だった。でも、徐々に変化が訪れた。一人目の選手が、柚の右側を抜いていった。強豪校のエース。柚とは違う、本物のエースだ。息遣いが耳をかすめる。柚は歯を食いしばり、加速をかける。だが、三周目に入る頃、また一人。左から別の選手が並び、するりと前に出る。先頭集団のペースが上がっている。柚の脚が、重くなり始めた。



ぼやけたスローモーションの中、世界が狭まっていく。トラックの白線がゆらゆらと揺れ、初夏の陽光が視界を白くかすませる。応援の声が、遠い波音のように聞こえる。自分の呼吸だけが、荒く熱い。ハア、ハア、ハア……心臓の鼓動が、耳の奥で鳴り響く。ドクン、ドクン、ドクン。汗が額を伝い、シャツを濡らす。もう、景色は見えない。ただ、前だけ。足を前に出すことだけ。



また、抜かれた。三人目。四人目。柚の順位が、五位、六位と落ちていく。練習でも出来なかったようなオーバーペースに脚が悲鳴を上げる。肺が焼けるように痛い。なのに、止まらない。脳裏に、高校二年間の思いが渦巻く。遥の笑顔と涙。あかりの誓い、みうの背中。孤独な早朝練習、霜の朝、夜のベッドで天井を見つめた日々。走る意味を探し続け、それでも足を動かし続けたすべてを、叩きつけるように。



「まだ……まだだ!」



柚は心の中で叫んだ。ラストラップ。直線に入る。全身の力を振り絞り、懸命にスパートをかける。中学以来五年間の汗、想いを、足に、息に、血に込めて。初夏の薫風が、シャツを激しく叩く。ミサンガが、手首で熱く感じる。遥の願いを、無駄にはできない。エースとして、みんなの分まで。新緑のグラウンドが、ぼやけた視界の中で輝く。



しかし、届かない。五位の選手が、さらに引き離す。六位、七位……最後の直線で、また一人に抜かれる。柚の脚は、もう限界だった。しかし、走り続けていれば、あんなに遠かったゴールラインにもいつかはたどり着く。八位。タイムは、地方大会進出の標準記録にわずかに届かず、二位差で地方への切符は、逃した。



ゴール後、柚はトラックに膝をついた。息が荒く、視界が白く霞む。汗が滴り、熱さを増した地面に落ちてすぐに乾く。初夏の風がゆっくりと肩を冷ましていく。観客の拍手が、遠く聞こえる。顧問が駆け寄る声も、ぼんやりと。柚は顔を上げ、青い空を見た。新緑の木々が風に揺れる。涙が一筋、頰を伝う。負けた悔しさか、達成感か、それとも後悔か。



「高梨、よく頑張ったぞ」



顧問の言葉が、優しく響く。ジャージを肩にかけてくれた。柚は小さく頷き、顧問に手を貸してもらって立ち上がった。がくがくと脚が震え、時折膝が折れそうになりながら、トラックを後にする。初夏の風が、ジャージを優しく包む。走った事実は、胸に残った。でも、意味はまだ、完全には見えない。


いつしかミサンガが切れてグラウンドに落ちている。





4,高校三年生、3月。



中旬、校舎の窓から柔らかな春の光が差し込む。柚は教室の席に座り、進路確認票を眺めていた。大学のスポーツ科学科への推薦入学が決まっていた。陸上を続けながら、学べる道。走る意味を探すための、新たな一歩。合格通知が届いた晩秋、母親は涙を浮かべて喜び、顧問に報告に行くと、彼は柚の肩を叩いて「これからも走れ」と笑った。柚自身も、かすかな安堵を感じていた。



窓の外、グラウンドでは陸上部員たちが、春の陽光の下で練習を始めていた。部の赤ジャージや学校指定の青ジャージが鮮やかだ。柚は立ち上がり、窓辺に寄った。視線を巡らせると、馴染みの姿があった。



遥。



十一月に、遥が陸上部に復帰したと聞いたとき、柚は胸が熱くなった。学業成績を懸命に上げ、親の約束を果たし、復帰を勝ち取ったのだ。遥は今、女子部の有望株として、短距離と中距離をこなしている。彼女の動きは、以前より力強く、安定していた。

遥が、「実は退部してからも、親の目を盗んでこっそり走り込んでいたんです」と舌を出したのは、復帰直後のことだ。



新芽が芽吹いた春のグラウンドで、遥は仲間たちとストレッチをし、笑顔を浮かべている。



そして、遥の手首に——。



柚が編んで、手渡した手作りのミサンガが、陽光に輝いていた。冬休み、柚は一人で部屋にこもり、赤と白の糸を編み続けた。年明け、部室に顔を出して直接手渡した。「またいつか、一緒に走ろう」。遥はそれを、かすかに涙を浮かべて受け取り、すぐに手首に巻いた。あの日から、遥はそれを外さずに練習に励んでいる。



柚は、窓枠に指をかけ、静かに微笑んだ。遥が、仲間たちと軽くアップを始める姿。掛け声が、風に乗って聞こえてくる。彼女は今、柚の後を追うように、しっかりと走り始めている。

遥の県大会予選まで、二ヶ月。



柚の胸に、温かなものが広がった。落胆も、怒りも、羨望も、すべてが遠い記憶になっていく。走る意味は、きっと、こうして繋がっていくのだろう。自分一人ではなかった。孤独だった冬が、今、遥の姿に溶けていく。



卒業式までの残り少ない日々。春の風が、窓を優しく叩く。新しいトラックが、彼女の前に広がっていた。



(完)

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


AI使用の短編とはいえ、初めて最後まで書き上げたもので、愛着がある作品です。


次作「還る手帳 ―少女はシルクロードをゆく―」を現在、カクヨムにて連載中です。

https://kakuyomu.jp/works/2912051604743494473

こちらにも追って転載予定です。

(主人公が同じ名前ですが、別人物です)

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