いじわるな歌
私は放課後の零れる様な夕焼けが好き。
季節を通して、その形態は変われども、あの暖かかくて、優しい光。
自然は生きる事をやめないと言うけれど、それは本当で。
不自然な私だけが、ここに取り残されている。
微かにそんな、気がした。
私はカバンから読み尽された一冊の歌集を取り出すと、パラパラとページをめくり、その一つに目を落とす。
夕日が窓ガラスを通して降り注ぎ、ページに色を添える。
ふと扉の開く音がすると、一人の生徒が入って来た。
私は、歌集を閉じると静かに席を立った。
「綺麗な指、してる」
背後から、そんな言葉を吐息の混じった声で言われ、私は鼓動の速まりを抑える事が出来なかった。
慌てて振り返れば、そこには生徒会長の鳴滝由羅が、直視出来ない眩しい笑顔で私を見ていた。私はやりかけの黒板掃除を放棄し、指を隠す。
「鳴滝先輩、えっと、今日って何かありましたっけ?」
「いや、何も無いけど。来ちゃ迷惑だった?」
鳴滝先輩はそう言って再び微笑むと、私の目の前にカバンを突き出す。
「俺が来たら、一緒に帰るって事だろ?」
「でも、今日日直で・・・まだ整理も終わってないし・・・それに」
「バカだな、お前。そんなの真面目にやってるの、お前だけだぜ?」
事実、一緒に当番のはずの相方は、とうの昔に用事が出来たとか言われ、帰ってしまっている。
「そんなこと!・・・ありません・・・」
私は再び鳴滝先輩に背を向け雑巾で黒板を拭き出した。
日直当番になったものは必ず、雑巾で黒板を乾拭きし、濃緑色の綺麗な状態にする、と言うのが決まりであり、一番目に付く大きなキャンパスの掃除は、避けられない必須項目なのだ。
「何、俺と帰らないって事?」
「だって、まだ終わらないし・・・」
私は呟くと、鳴滝先輩の顔をろくに見ずに黒板に向かった。
背後で「ふぅっ」と溜息が聴こえたかと思ったら、教室のドアが開き、そして閉まる音がした。私は、そっと振り返り、鳴滝先輩がいなくなっているのを目で確認すると、掃除していた手を止める。
「どうして、なのかな・・・」
ふと口から出た言葉に私は驚いたが、その理由を考える間もなく下校を知らせる鐘がなり、私の意識は黒板掃除に再び向けられた。
教室を出たのは、夕方の五時を回っていた。
冬が終わろうとしているせいか、外はまだ明るい。
私は、先生に日直簿を届けると、生徒会室に向かった。
生徒会室には帰る前に寄るのが習慣になっている。
私は、先生の推薦で生徒会を補佐する「補佐役」と言うものになった。
はじめから「補佐役」と言うポストがあった訳では無い。
先生にも始めは生徒会の「手伝い」を少しだけして欲しいと言われ、始めた事なのだ。
それがずるずると続き、結局「手伝い役」から「補佐役」と言う場所まで用意され、今に至る。
私は特別この役が嫌ではなかったが、生徒会メンバー次第で、下校時刻が遅くなるのもしばしばで、それが玉に瑕と言ったところだ。
鳴滝先輩はその生徒会の生徒会長で、そこで私と初めて話すようになった。
生徒会室の前に来て少しだけホッとする。明かりが点いていなかったからだ。
恐らく今日はもう皆、帰ってしまったのだろう。
いつもの習性でドアをノックし声を掛ける。
「失礼しまーす」
「・・・どうぞ」
いないと思っていた場所から声が聞こえ、私は驚いてしまう。
だってその声は、鳴滝先輩の声だったから。
「ま、まだ、いらしたんですか?」
私はドアを開け、中を覗いた。鳴滝先輩は校庭の良く見える窓際に腰を掛け、こっちに視線を運ぶ。
窓から差し込む茜色が鳴滝先輩を包み込み、私はその姿に恍然としてしまう。
「来るの、待ってた」
鳴滝先輩は優しい口振りで、私を見つめる。
「・・・先輩・・・あの・・・」
鳴滝先輩が、腰を上げ私に近付いて来た。先輩の微香が鼻先をかすめる。
「ほら、さっさと帰るぞ。『カバン持ち』」
途端、私は現実に戻された。鳴滝先輩は私の前にカバンを突き出し、にやりと微笑む。
「持ってくれるよな?」
鳴滝先輩はいつも私に対して、まるで従者のような扱いをして来る。
しかも、最近はその行動が少しエスカレートしている気がしてならない。
私は補佐役になってから、女子生徒達から、特別に見られていることに気付いていた。
鳴滝先輩は生徒会長になれるだけあって、学力もトップだが顔も特別に綺麗であった。
母親がアメリカ人で、その血が混じっているから余計に他の人達との違いがはっきりとしてしまっている。
鳴滝先輩が壇上に上がり意見する姿は女子生徒の憧れの的であり、そしてその姿は誰よりも清々しかった。
始めのうちは、そんな有名人と『カバン持ち』と言う間柄であっても、一緒に居られることは嬉しかった。だが、クラスの子達とうまく行かないのは嫌で、最近は鳴滝先輩の顔を見るだけで、周りで誰か見ている人はいないか気を使い、嫌な汗まで出てきてしまう。
「鳴滝先輩が私に『カバン持ち』なんてさせるから、私、教室でかなり浮いてます」
目の前のカバンを無視し、私は勇気を振り絞って言った。
「浮く? 仕様が無いだろ、俺といるんだから。お前、そんな事言ったら、俺が『カバン持ち』させるのやめると思ってるの?」
「・・・でも、私は鳴滝先輩のカバン持つ為に、生徒会に入った訳じゃないし、それに・・・先輩の心証だって悪くなります・・・」
鳴滝先輩はフンっと鼻を鳴らすと私の手を捕まえカバンを強制的に持たせた。
「『心証』なんて今更俺が気にすると思ってんの? 気にしてるのはお前、だろ?」
鳴滝先輩の言葉にドキリとする。
「・・・っ」
「ほら、行くぞ」
私は何も言えなくなって、そのまま鳴滝先輩のカバンを持ったまま、後ろに着いて行くしかなかった。
帰り道は無言だった。
私はただ三歩ほど前を行く、鳴滝先輩の広い背中を追いかけて行くだけだった。
駅前のバスターミナルが見えて来た所で、鳴滝先輩のその広い背中が急に止まった。
私はぶつかりそうになり、つんのめりながらも、なんとか無事に止まる事が出来た。
「・・・『石川啄木』知ってるよな?」
「は、はいっ」
いきなり喋り出したと思ったら、突然そんな事を言い出したので私は驚いた。
それに、石川啄木は私の好きな歌人である。
「『人がみな
同じ方角に向いて行く。
それを横より見ている心。』」
「えっ?」
それは歌集『悲しき玩具』の中の歌だった。
「俺は、誰かと同じになってる? 俺は誰とも同じじゃない。お前は?」
私は鳴滝先輩の考えている事が、ひょっとして計り知れない凄く遠いところにある、そんなふうに思えて言葉を失った。
「え? 私・・・? 私は・・・」
私はどうなんだろう? 言葉が思いつかず、答えられず恥ずかしくて目を伏せる。
「お前にはまだ早いよな。まぁ、俺のカバン持ちでもやって精進するんだな」
そう言って、いじわるな眼差しを向ける。
「っ! そんな、そんな言葉に騙されません! それに啄木の言葉を使ってくるなんて、ずるいです!」
膨れっ面の私に鳴滝先輩は一歩近付き、
「『先んじて恋のあまさと
かなしさを知りし我なり
先んじて老いゆ』」
と歌を詠みながら、カバンを持った私の手を取り、口元に寄せた。
「俺は、この歌みたいになってでも、いいと思うけど?」
「!」
私は触れた手を払うと、鳴滝先輩の方へ目を向けることすら出来ない状態に陥ってしまった。
その歌は明らかに恋の歌であるからだ。「私は人より進んで恋の甘さや悲しさを知ってしまった。だから人より先に老いてしまうだろう」と私は解釈している。
そして先輩は「たとえ老いたとしても恋をしていたい」と言っているのだ。
ただ、歌の解釈などその人自身の感覚が一番反映されるわけで、鳴滝先輩は別に私とどうこうなろうとは思っていないのかも知れない。
そう思ったら、なんだか余計に虚しくなって、発火した気持ちも少し落ち着いて来た。
「鳴滝先輩、石川啄木好きなんですね。実は私も好きなんです。」
「お前も何か詠んでみろ」
私は少し考えると今の心境に一番近い歌を詠んだ。
「『やや遠きものに思いし
テロリストの悲しき心も
近づく日のあり。』」
言った後、私は思わず笑ってしまった。
この歌は「暴力的なテロリストの気持ちなんて分かることは無いと思っていたが、今ではテロリストの悲壮な気持ちも、少しずつだが理解してきた」と私なりに解釈している。
それを踏まえて言ったのだ。
「その『テロリスト』って、まさか、俺?」
鳴滝先輩は不服そうに言った。
「ふふっ、どうでしょう?」
「お前、生意気。明日から、もっといじめてやるからな」
石川啄木が好きなんて、鳴滝先輩には似合わない。
でも、私との共通点を一つ見つけて、嬉しくなる。
そして、ふと湧いてきた感情。私は、その時知ってしまった。
『恋』と言う存在を。
石川啄木の一件から、私は自分の急速な気持ちの変化に戸惑いつつも、押し寄せてくる感情に四苦八苦していた。
一番に困ったのは、鳴滝先輩の顔をまともに見られないと言う事だ。
自分の顔がみるみるうちに赤くなるのが分かる。
目を逸らしたら、こちらの気持ちを知られてしまうかも知れない。
そう思ったら、余計に空回りして、今日はせっかく作り終わった会報の誤植を指摘され、先生に怒られる始末だ。
生徒に配布するものは良いとして、OBに送付するものと上層部の方達に送るものだけは、誤植があってはならないとの事で、その部数だけ作り直し、明日中に配送しなくてはならない。
私のミスなので仕方が無いのだが、普段私の事をこき使って来る生徒会の面々は、私を置いてさっさと帰ってしまった。
「はぁ・・・」
私は静かな生徒会室で一人深い溜息をつくと、会報を封筒に入れ直す作業を始めた。
誰も居ない生徒会室。
そこにいつも在る鳴滝先輩の存在。
私は、なぜだか急に感情を抑えられなくなり、涙があふれた。
「恋は盲目」と言うけれど、どうしてこの感情に気付いた時から、こんなにも世界は変わるんだろう。
それは知る前とは、考えも、景色も、音楽も、匂いさえも違ってしまう。
不意に背にしているドアが、がらりと開く音がし、私は慌てて涙を拭った。
私は気付いていない振りをし、そのまま作業を続けた。
だが、いつまでも自分の方に振り返らないのを待ちきれない訪問者は、生徒会室に入って来ると私の目の前に立った。
「『カバン持ち』はまだ仕事中か?」
「!」
その声に私は、再び涙した。
待っていた、いじわるな声。
「鳴滝先輩・・・先に帰ってたんじゃ・・・ない・・・んですかっ・・・んぐっ・・・」
涙が、震える声が、感情が私には抑えられない。
「会報のやり直しくらいで、そんなに泣くのか? やっぱり戻って来て正解だったな」
鳴滝先輩は、近くの椅子を私の目の前に引きずって、荒々しく座った。
「お前、俺のこと・・・避けてた?」
「えっ!」
涙がぴたりと止まった。
「図星か」
「・・・・・・」
しんっと静まる生徒会室。
目の前の鳴滝先輩は机の上にある封筒を手に取ると、糊付けの作業を始めた。
私は、その作業をただじっと見ることしか出来なくて。
不覚にも鳴滝先輩の指が綺麗だな、なんて思ってしまう。
「俺が、手伝うなんてありえないから。お前、覚悟しておけよ。『カバン持ち』以上の事、させるからな」
いじわるな声は、私の心を温かくする。その温かさが心地良くて、私は甘えてしまう。
「鳴滝先輩・・・ありがとう・・・ございます」
声にならない声で、お礼を言うと鳴滝先輩は作業を続けながら言った。
「鼻水・・・出てるから、さっさと拭け」
出来上がった封筒を職員室まで届けると、先生はご苦労様と言ってくれた。
鳴滝先輩も手伝ってくれたのだから、一緒に職員室に来るのかと思ったが着いては来なかった。
校舎を出ると、外はすでに暗くなっていた。
校門の前まで来ると鳴滝先輩が門に背を預け立っていた。
「ほら、カバン持てよ」
相変わらずに、鳴滝先輩は私の前にカバンを突き出す。
「鳴滝先輩・・・今日はありがとうございました」
私はその突き出されたカバンを手に取ると、頭を下げる。
「バカなお前が、補佐役だから仕様が無い」
「・・・・・・まぁ、そうなんですけど・・・」
私は歩き出した鳴滝先輩の後を夢中で追いかけながら、一瞬だけ星空を見上げた。
翌日、登校すると廊下に貼り出してあった生徒会新聞の周りに、人だかりが出来ていた。
新聞に載っている生徒会メンバーの中の私の名前の横に、油性マジックで、でかでかと【生徒会長目的で潜り込んだ・バカ女!】と書かれていたのだ。
私はそれを前にして、その場から逃げ出したいのに一歩も動けずにいた。
後ろで生徒たちが私の事をこそこそと何か言っている。なんて言っているなんて、大体想像がつく。
誰がこんな事を?
ううん。そうだ、皆思っているよね。
私が鳴滝先輩と一緒にいる事、面白く無い子はたくさんいる。
私はそれをちゃんと分かっていて、それでも鳴滝先輩から離れられなかった。
「お前、何やってんの? あぁ、これ見てショックでも受けてたの?」
びくりと肩を揺らす。振り返ると鳴滝先輩が、顔色を変えずにその新聞を見つめていた。
「鳴滝先輩・・・」
「お前、酷い顔・・・ちょっと来いよ」
鳴滝先輩は私の腕をぐっと掴むと、動けずにいたその場から私を連れ出した。
眩暈がする。
「もっ、離して下さい! 私これ以上、傷付きたくない!」
生徒会室の前まで来て、私は鳴滝先輩の掴んでいた手を振り払った。
あの落書きをした子が見ているかも知れない。そしたら、また何か私の傷付くことをされるに決まっている。
「とにかく、中、入って。俺はちょっと今からお前の教室に行って来て、」
「もう、私に構わないで下さい。お願いします」
私は言葉を遮って、静かに、まっすぐ鳴滝先輩を見た。
鳴滝先輩は、ちょっと面食らったような顔を一瞬だけ見せたが、いつものようにちょっとニヒルな顔をして、私を強制的に生徒会室に押し込んだ。
「逃げるなよ?」
そう言って先輩は姿を消した。その時ちょうど予鈴が鳴り響き、鳴滝先輩の足音と合わさって聞こえた。
その音も消えると、再び先程の新聞の文字を思い出す。
【生徒会長目的で潜り込んだ・バカ女!】と書かれていた。
でもそれは違う。
私は鳴滝先輩の事を好きだからとかそんな理由で、生徒会の手伝いをした訳じゃ無い。
好きになるなんて思ってなかったし、そもそもその気持ちに気付いたのだって、つい先日の事なのに。
『本当にそう?』
『鳴滝先輩のことなんとも思ってなかった?』
もう一人の自分が囁いて来る。
「分からない・・・分からないよっ!」
春が来たら、そしたら鳴滝先輩は卒業する。
私はそのまま、学校に残されて鳴滝先輩のいない生活を送るのだ。
私は静かな生徒会室で、目を閉じる。
遠くで、上履きが廊下をこする、きゅっきゅっとした音が聞こえてきて、それが鳴滝先輩の足音だと直ぐに分かってしまう。
生徒会室のドアが開く。鳴滝先輩の手にはカバンがあった。
「帰るぞ」
「えっ! なんで帰るんですか?」
私は、思わず座っていた椅子から立ち上がってしまった。
「お前、バカだな。あんな顔して、授業受けるつもりなのか? 第一今日は半日で終わる日なんだし、俺も帰る。お前の教室に行って、早退するって言っといたから大丈夫だろ」
鳴滝先輩のせいで、こんな事になっているのに、当の本人は相変わらずで私は頭にきた。
「余計な事しないで下さい。私は迷惑なんです。私が鳴滝先輩と一緒にいると、傷付く子がいるんです。だから、もう『カバン持ち』はさせないで下さい!」
すると、鳴滝先輩は私の腕をぐっと握ると、捻りあげた。
「い、痛いっ!」
「お前、全然分かってない。俺が、一番最初に詠んだ啄木の歌、言ってみろ」
「えっ」
「言え!」
ぐいぐいと強く捻りあげる。
「っ・・・『人が・・・みな・・・同じ方角に向いて行く。それを・・・横より見ている心。』」
「お前の解釈はなんだ?」
「・・・・・・」
私なりの解釈はある。
でもそれは先輩の求めている解釈ではない気がして言葉を詰まらせた。
ふいに鳴滝先輩の掴んでいた腕が離れる。
「俺は小さい頃から外見ばっかり気にしてた。母親がアメリカ人だから、他の子とどうしても見た目が違う。よく、心にも無い事を言われた。だからずっと俺は『特別』になりたかった。勉強を人より努力した。人より秀でていないと俺自身がもたなかったからだ。けれど、俺は『特別』になっても、他の奴とは一緒にはなれなかった。だから、この歌を初めて見たとき、思った。もしかしたら、啄木も俺と少し近いのかって。この歌は俺の気持ちそのままだった気がしたから」
驚いた。
鳴滝先輩が、そんな事を思っていた事に。
あの傲慢ないつもの鳴滝先輩はここにはいなかった。
私の心の中に、温かいものが流れ始める。
「『今までのことを
みな嘘にしてみれど、
心すこしも慰まざりき。』」
私は今の気持ちを啄木の歌集「悲しき玩具」から探し出した。
「先輩の事を忘れようとしてみたけど、私の心は全く紛れる事は無かった」と言う意味を込めて。
鳴滝先輩が驚いた顔をして私を見た。
「お前、その歌・・・」
「私は自分の気持ちに疎くて、とてもじゃないけど、先輩の隣にいられるような存在じゃないけど、でも、それでも鳴滝先輩のことを好きでいて、いいですか?」
「あぁ、いいよ」
正直、馬鹿にされると思っていた。
しかし、鳴滝先輩は少しもそんな様子は無く、私の言葉を受け取ってくれた。
もう、授業が始まっているせいか、廊下には誰も居なかった。
日の当たらない廊下は、ひんやりと冷たい。
いつもなら、私に背を見せて歩いていた鳴滝先輩だったが、今は隣を歩いてくれている。
「公然とサボりってのは、いいもんだな」
鳴滝先輩は、笑った。
「私は、別にサボりたい訳じゃないですよ」
などと言って、後悔する。本当は嬉しくて仕方が無い。
「なぁ、この歌知ってるか?」
足をとめた鳴滝先輩を私は見上げる。
「『きしきしと寒さに踏めば板軋む
かえりの廊下の
不意のくちづけ』」
そう言って、鳴滝先輩は私に顔を近付け、そっと唇に触れた。
「! せ、せんぱ・・・い」
「お前、タコみたい。この先、心配になって来た」
私は、突然の行為に、もうどうして良いのか分からずに、困り果てた。
「鳴滝先輩・・・私の事好き・・・なんですか・・・?」
「『物怨ずる
そのやわらかき上目をば
愛づとことさらつれなくせむや』
・・・って歌、俺ははじめ理解出来なかったけど、今ならその気持ち・・・分かる」
その歌は、「嫉妬している女性のやわらかな上目づかいに、私はかわいらしく思い、つれない態度をしたいけど出来ない」って意味で。
「啄木の言葉じゃなくて、鳴滝先輩の言葉が聞きたいっ!」
私は顔を赤くしながら、鳴滝先輩に訴えた。
しかし、鳴滝先輩の声は無く。
私に背を見せたまま右腕を軽く上げ、早く来いと催促するかのように、手のひらを前後に振っていた。
生徒会新聞の【生徒会長目的で潜り込んだ・バカ女!】の横に書き足されている文字があった。
そこには【俺はこいつが気に入ったから、補佐役にした!】と書かれており、そして【生徒会長・鳴滝由羅】とサインがしてあった。
鳴滝由羅の公言は、女子生徒達の間で波紋が広がり、放課後にはケータイ片手の生徒達であふれ返り、廊下は大変なことになっていた。
新聞は人だかりに気付いた先生によって、その日のうちに、はがされ、翌日、鳴滝先輩は校長先生に呼び出しを食らうのであった。
私がその事実を知るのは、ちょっとだけ先の話である。
おわり
石川啄木の詩を言い合う高校生がいるとは、到底思えないのですが(笑)、なぜだか書き始めた時は「これがいける!」と思ってしまったんですね。
石川啄木に、数ミリでも興味を持っていただけたら嬉しいです。