レイニス・シャフターと碧色の竜
サラが台所仕事をこなしていると、背後から息子のレイニスが歩いてきて、
「母上」
「どうしたのです、レイニス」
「今日の分の勉強が済んだので、今から森に行ってきます」
「もう終わったの?随分と早いんですのね」
「はい。早起きして、先ほど済ませました」
「ただやるだけじゃ充分ではありませんよ。ちゃんと学習してる内容を理解したのですか?」
「はい」
「では、ちょっとここで言ってご覧なさい」
それでレイニスは、今日何を学んだか、言った。
それを聞くとサラは満足し、ニッコリと微笑み、外出を許可した。
レイニスは、やった。と声には出さなかったものの、嬉しそうな顔をして階段を上がって自室に戻っていった。
外出支度を終えたレイニスが、玄関を出ようとしていると、今度はサラがレイニスの背後に現れて、
「レイニス、夕方になるまえに帰ってこないとダメですよ」
「分かりました、母上」
「………レイニス」
「なんです、母上」
「なんで森がそんなに楽しいの」
「途を外れたところに湖を見つけたんです」
レイニスは、森の奥に、と言いかけたが、心配性の母に止められたくなかったから控えめな言葉でいった。
「湖?あの辺りに湖なんてあったかしら」
母が自分の言葉を疑っている、そう思って、レイニスは泣きたくなった。
「危ないから水の中に入ったりしちゃ、絶対にいけませんよ」
「はい。母上を悲しませるようなことはしませんから」
「危ないところには行かないこと。約束してちょうだい、レイニス」
「約束します母上」
それから行ってきますといったあと、レイニスは子供らしく元気よく、外へ飛び出していった。
「まったく………言葉遣いは丁寧なのに危なっかしい子で困るわ………」
サラは困った顔で呟いた。
レイニスと母のサラが住む村は、大陸で最大の国家、ボルシア連邦帝国南西部の地方都市ラナドの南にあった。
村をさらに南下していくと、アレナド共和国との国境線が引かれてあって、見張りの兵士が駐屯している砦があった。彼らは時々、レイニスのいる村に立ち寄り、娼館や酒屋で息抜きをした。
森は、広葉樹が茂ってあり、嵐が吹くとざわざわと、人々の心に不安を煽るように唸ったが、途は平らかで、人工的に伐採されているためか、子供を拐うようなおどろおどろしさは無く、人間に対して親和的な森林になるよう、人間側が再構築してあった。
森を抜けると、アレナド共和国との国境に出るため、貿易商人や外交官を乗せた馬車が通れるだけの途が舗装されてあったが、最近は両国の関係悪化のためか、行き来は少なく、入国目的のはっきりしない者は砦より先に通してもらえなかった。レイニスはこうした整備された途から外れて、広葉樹の連なりを抜けて、枝葉の転がる地面を降りて行ったところに、例の湖を発見したのである。
レイニスが湖と思った場所は、実際には湖ではなく、少し大きい池だった。直径はおよそ五十メートルほどで、湖というには小さく、池というにはレイニスが頭の中で想像する池より規模が二回り以上大きかった。レイニスの家の近くを流れる川が国の軍拡化に伴い、川の色が少しずつ汚れ始めたのとは異なり、この池の水は、澄んでいて、太陽の陽を受けるとキラキラとしていた。
その日、レイニスは池岸で一頭の碧色の竜が憩んでいるのをみつけた。
竜は池を挟んだレイニスの真向かいに着地していたため、遠くからではあったが、体長が二十メートルはありそうだった。
しばらくの間、レイニスは竜を見ていた。竜はレイニスに気づいていないのか、池の周辺で、ただ一点を見ているかのようにじっとしていたが、やがて人の気配に気づいたのか、くるりと首の方向を曲げると、竜とレイニスの目が合った。竜の眼は緑色で、その瞳の煌めきは、エメラルドを彷彿とさせた。周りの肌は、硬い鱗のようなもので覆われていて、鋼鉄のような硬さが、たとえ直接肌に触れてなくても、視覚に訴えてきた。
「………!!」
瞬間。竜が池を飛び越え、レイニスのいるほうの池岸へ飛び移った。大きな池ではあったが、竜が翼を一振りしただけで、レイニスを吹き飛ばしかねないほどの風が起こった。レイニスは思わず目を蓋した。
レイニスが目をあけると、さっきまでそこにいた竜が煙に巻かれたように消えていた。レイニスは、大地から何か猛烈なエネルギーが急激に喪失していくように思えた。
竜が消えて現れたのは、一人の青年であった。黒のズボンに白のシャツを着た青年は街中のどこにでもいそうな、普通の好青年に見えた。美しい碧毛混じりのミディアムヘアの黒髪を、冷風に靡かせていた。青年は、レイニスにニッコリ微笑んで、挨拶を交わした。
「綺麗なところだね」
「………」
「人けが無いのも良し」
「………」
「君、名前は?」
「レイニスです」
「レイニスか。良い名前だなあ………」
「………」
レイニスは青年の名を聞いた。青年は、雨泉浪と名乗った。
「近くの村に住んでいるの?」
「はい、そうです」
「そっか」
青年はレイニスの返答を聞くと、いくぶん暗い面持ちになった。その顔の俯き加減は、さっきの竜が、ただ一点を見つめていたときと似ていた。
青年はレイニスに握手を求めた。レイニスは応じた。
青年は地面にへたった。それから青年は目を瞑った。首をガクッと落としたから、瞑想しているみたいだった。
「ねえ、レイニス君、聞こえる?」
「何がですか?」
「静けさ」
「………」
静けさが聞こえるってどういうことだろう、とレイニスは思った。
「レイニス君」
「はい」
「ここに寝そべってもいいかな………」
ここは自分の家でもなし、レイニスは何と言えばいいか分からなかったが、とりあえず、
「はい、どうぞ」
といった。
「ありがと」
そう言うと青年は、仰向けになった身体を湿気た地面にぴたりとつけた。青年は、また目を瞑った。
「レイニス君も座ったら………」
レイニスはお尻だけを地面につける、体育座りをした。
「あの、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「なんだい」
「………あなたは竜なのですか?」
レイニスは恐る恐る聞いた。
「ああ」
「竜になれる人間ってことですか?」
「時間の割合から考えるに、そう言えると思う」
「………」
「僕は竜でいる時間よりも人間として過ごしている時間のほうが圧倒的に長い。だから、竜になれる人間か、それとも人間になれる竜なのか、と問われれば前者です、と答えると思う。しかし実際のところ、それは時間の長さの問題で、本質的に本当はどちらなのかは僕もよく分からない………」
「………」
「竜を見たのは初めて?」
「はい」
「そっかあ………まあ、そうだよね」
「………」
「僕も今暮らしている国にいるときでさえ、そんなに竜にはならないんだ………父が竜の姿でいることを嫌うからね」
「お父さんも竜なのですか」
「うん」
「………」
「それでも時々、無性に竜の姿となって、空を翔け回りたいときがある………」
レイニスは少し考えて、
「あなたはどこの国に住んでいらっしゃるのですか」
レイニスからのその問いに、青年は答えなかった。少しして、青年は体を起こしてレイニスを見た。
「レイニス君」
「はい」
「今夜、村を出るんだ」
「えっ………」
「大切な人を連れて、逃げるんだ」
「どうしてですか」
「新たな戦争が始まる」
「新たな戦争………戦争はすでに行われています………だから父は戦争のため東部の方へ………」
「戦争は多方面に及ぶ」
「………」
「ラナドより北方へ行きなさい」
「でも、村があります。僕の家や家族のいる村が」
「君の村は再起不能なほど莫大な損害を負うだろう」
「………」
「逃げて」
「………」
青年は、
「《この火を見ていよ………時化などすぐに終わる》」
と古代ミノウチ語でいった。
「今、何と言ったのですか………」
「僕にとっての、幸運の言葉だ」
「………」
「けれど今は贖罪の言葉だ」
青年の青褪めた表情から来る、漠然として抽象的な、しかし、鬼気迫った言葉に、レイニスは何も言うことが出来なかった。
「レイニス君、話せて嬉しかった」
「僕も嬉しかったです………ウィズローさん」
それから、青年は、
「僕はそろそろ行く」といった。




