第八話 聖女と商家の影
救出の翌朝、王都は小雨に包まれていた。
灰色の空の下、俺は王宮の医療舎にいた。
昨日助け出した少女たちの手当てが行われている。
その中でもひときわ周囲の空気を変えている女性がいた。
亜麻色の髪に白い外套をまとい、優しく包み込むような声。
泣き続ける子どもに微笑みかけると、その子は不思議と泣きやんだ。
その姿はまるで美の女神のヴェリシアのようだった。
「あなたが……レオン様ですね」
彼女は振り向き、静かに微笑んだ。
「はい。あなたは?」
俺は亜麻色の髪の美人にそう問う。
「シシリア・マルクスと申します。皆を助けてくださって、本当にありがとうございました」
俺は少し驚いた。
この落ち着いた雰囲気、そして言葉遣い、とても貧民街にいたとは思えない。
「なぜ、あなたがあの場所に?」
「貧民街の子どもたちに食事を配っていました。あの夜も、いつものように行っていたのです。けれど、捕まってしまって」
シシリアの声は静かだったが、その奥には確かな意志があった。
「危険だとは思わなかったのですか?」
俺が訊くとシシリアは小さく頷く。
「危険だと分かっていても、見過ごすことはできません。あの子たちは、誰かが手を差し伸べなければ生きられないのです」
俺は言葉を失った。
貧民街の闇を知りながら、それでも歩み寄るシシリアの姿に、どこかティアラの気配を感じた。
「……あなたがいてくれて良かった」
「そう言ってもらえると、救われます」
シシリアはほほえみ、傷ついた少女の髪をそっと撫でた。その仕草が、まるで祈りのように見えた。
午後、王宮執務室。
クラリスが机の上に一枚の文書を叩きつけた。
「やはり裏にいたのはケイト伯爵ね」
ジュリアンが目を見開いた。
「まさか、あの上級貴族が人買いに関わっていたとは……」
「裏で奴隷商を動かしていた証拠を押さえたわ。帝国商人との通信書簡も出てきた」
クラリスの瞳には怒りの炎が宿っていた。
「貴族の地位を利用して、同じ王国民を売るなんて……許せない」
「すぐに逮捕を?」
「もう手を打った。ケイト伯爵は今朝方、王国騎士団によって拘束された」
俺は安堵の息をついた。
だがクラリスはすぐに言葉を続ける。
「ただし……これで終わりじゃないわ」
「黒幕が、まだいるのですか?」
「ええ。ケイト伯爵はただのチェスの駒。本当の黒幕はおそらくアルフォンス・ヴァルデンベルグ」
その名を聞いたジュリアンの顔色が変わる。
俺でもその名は知っている。この国の摂政だ。
「アルフォンス・ヴァルデンベルグ? 摂政じゃないか」
「ええ。帝国との密貿易で財を成し、貴族派を影で操っている。だが、証拠はまだ掴めていない」
クラリスは剣の柄に手を置き、窓の外を見つめた。
遠くで雨が止み、薄日が差し始めていた。
「レオン。あなたにもう一つ、頼みたいことがある」
「なんなりと」
「シシリアを守りなさい」
俺は一瞬驚いた。
「なぜ彼女を?」
「マルクス商会を率いる彼女の父、マルクス男爵は王国随一の商人よ。ケイト伯爵に協力を持ちかけられて断ったらしい。つまり、次に狙われるのは彼ら」
「……わかりました」
俺は静かに頷いた。
その夜。
マルクス商会の屋敷は王都の北区にあった。
大理石の柱が並ぶ玄関、広い庭、そして穏やかな灯火。
だが、その穏やかさの裏に、重い緊張が流れていた。
「レオン様……」
シシリアが現れた。
白いドレスの上に薄い羽織をかけ、穏やかな微笑みを浮かべている。
だが、その瞳には疲れの影が見えた。
「お身体はもう大丈夫ですか?」
「ええ。あの日のことは夢のようで……でも、あの時のあなたの剣が、ずっと頭から離れません」
俺は少し顔を赤らめた。
「俺はただ、守るべきものを守っただけです」
「そういう方だからこそ……」
シシリアは言葉を濁し、俯いた。
「私……これまでたくさんの人を助けようとしてきました。けれど、いつも誰かを失ってきた。でも、あなたが来てくれた夜は違いました。あなたは希望をくれたのです」
その言葉に、俺の胸が熱くなった。
ティアラの声が微かに響く。
『幸運は、信じる者の隣にある』
俺は微笑み返した。
「あなたが貧民街の人々を助け続ける限り、俺もあなたを守ります」
シシリアは顔を上げ、そっと頷いた。
「ありがとうございます、レオン様」
雨上がりの月が二人を照らしていた。
その光の下で、幸運の騎士と聖女の運命が静かに交わった。
※※※※
だが、王都の片隅では。
ヴァルデンベルグ家の館の一室で、黒衣の男が報告を受けていた。
「ケイト伯爵、拘束されました」
「そうか。ならば……彼はもう不要だ」
アルフォンス・ヴァルデンベルグは薄く笑った。
窓の外で雷光が走る。
「姫騎士と最近噂の幸運の騎士か。面白い。だが、運命の糸はもうこちらにある」
アルフォンスの言葉の後、黒衣の男は音もなくその部屋を去った。




