第二話 暴牛騎士バラン散る
戦場に、血と鉄の臭いが満ちていた。
黒鉄丘陵の大地を染めるのは、兵士たちの屍と焼け焦げた草。
その中心で、ひときわ巨大な影が立っていた。
帝国の猛将、暴牛のバラン。
分厚い黒鎧に包まれたその巨体は、まるで戦場そのものが形を取ったかのようだった。
振り上げられた戦斧が唸りを上げ、王国兵をまとめて薙ぎ払う。
骨が砕け、肉が飛び散る。叫びはすぐに土に吸い込まれた。
「ヒャハハハッ! 王国のガキどもがぁ! 俺の鉄槌の錆にしてやる!」
笑い声と共に、地面が揺れた。
バランが一歩踏み出すたび、土がめり込み、空気が震える。
その地獄の只中に俺はいた。
息は荒く、腕は痺れ、盾にはすでに三度も亀裂が走っている。
仲間たちは次々と倒れた。俺の周りには、もう誰も立っていない。
「くっ……!」
俺は役にたたなくかった盾を捨てる。
「おいおい、まだ立つか、坊主!」
バランの声が雷鳴のように響いた。
バランの鉄槌が唸りを上げ、俺の長剣に直撃する。
ガギィン!!
金属の悲鳴があがり、俺はどうにかバランの攻撃を剣で防ぐ。だが衝撃で俺の体は後方に吹き飛ぶ。
地面を転がりながら、俺の兜が宙を舞い、泥に突き刺さった。
「ハハッ、兜まで飛ばされたか!!見ろよ、そのツラ、恐怖で震えてるぜ!!」
俺は死の恐怖の真っ只中にいた。
ついさっき見た幸運の女神とやらはただの夢だったのだろうか。
俺は立ち上がる。
唇の端から血が流れる。
もう一度ダリアに会いたい、そしてダリアの柔らかくて温かい体を抱きしめたい。
そう思った瞬間。女神ティアラの声が、どこかで響いた気がする。
「幸運は、恐れぬ者の手に宿る」
その声を聞いた俺の心から不思議と恐怖が消えていく。
「来いよ、暴牛」
俺はバランを挑発する。頭は氷のように冷静だ。
「ハッ、良い根性だ!」
暴牛騎士バランは嘲笑する。
バランが突進した。
巨体とは思えぬ速さ。
地面が爆ぜる。
鉄槌が再び振り下ろされる。
俺はそれを長剣で受け止めた。
ギィン!!
衝撃で腕がしびれる。長剣が半ばで折れ、半分が弾け飛ぶ。
だが、俺は踏みとどまった。
その一瞬の間に、俺はすべての力を振り絞る。
「うおおおおおっ!!!」
決死の突撃。
折れた長剣を逆手に握り、渾身の力でバランの喉元を狙う。
だが。手元に残った剣は砕けた。
驚いた事にバランは素手で俺の残された長剣を砕いたのだ。
残った刃は空を裂き、宙に舞い上がった。
「終わりだ、ガキィ!」
バランが鉄槌を高く振りかぶる。
圧倒的な殺気。
その刃が、俺の頭上に迫る。
だが。次の瞬間。
鉄槌が、止まった。
「な、んだと……」
バランの目が見開かれる。
止まった鉄槌の刃先の上、そこに宙を舞っていた折れた剣の刃が落ちてきた。
その軌道は、奇跡としか言いようがなかった。
鋭い光の線が、バランの首筋をなぞる。
――スッ。
一瞬の静寂。
そして、黒い血が噴き出した。
「が、は……ッ!」
バランの巨体が揺れる。
膝をつき、鉄槌が手から滑り落ちた。
そのまま、土煙を巻き上げて地に崩れ落ちる。
暴牛の異名を持つ帝国の猛将バラン、戦死した。
戦場に沈黙が訪れた。
王国兵たちは呆然とその光景を見つめ、帝国兵の列に動揺が広がる。
「ば、バラン将軍が……やられた!?」
「馬鹿な、あの男を……一撃で!?」
「退けっ!! 撤退だ!!」
混乱の叫びが広がり、帝国軍は一斉に後退を始めた。
黒鉄丘陵を覆っていた地獄の喧騒が、嘘のように消える。
俺は両膝をついた。
息が荒い。呼吸するのも苦しい。
体中が痛む。
けれど、確かに生きていた。
俺の目の前で、折れた剣の刃が淡く光り、砂の上で静かに砕け散った。
風が吹く。
煙の向こうに、青空が戻りつつあった。
それは奇跡と言うしかない。
そうとしか言いようがなかった。
だが俺はそれが偶然ではないことを、心の奥で理解していた。
幸運の女神ティアラ。
あの女神が、確かに見ていたのだ。
「俺は、運が良かったということか」
そう呟いて、俺は空を見上げる。
陽光が彼の頬を照らし、血の色を洗い流していく。
俺の真横に漆黒の馬が駆け寄る。
その漆黒の馬に乗るのはグレイモア男爵家の次男ジュリアンであった。
「なんとあのバランを倒したのか。お前はなんと素晴らしい男なのだ」
ジュリアン・グレイモアの言葉を聞いたあと、俺は意識を失った。




