第十話 絶対遵守の紋様と女神の力
夜明け前の王宮は、静寂の帳に包まれていた。
東の空がわずかに白み始める頃、俺とクラリスは王宮地下の拘束室へと向かっていた。
その地下牢にはすでにジュリアンが待機していた。
牢の中には、昨夜捕らえた暗殺者の女エが座していた。
鋭い瞳を持つ女だったが、今は両手を鎖で縛られ、静かに俯いている。
「この女の胸に刻まれている印……ただの呪印ではない」
クラリスが淡々と口にした。
彼女の視線の先、暗殺者の女の豊かな胸元の下には淡く光る紋様が刻まれていた。
円と三角を重ねた形、その中央に十字の光。それは聖印のようでありながら、不気味な冷たさを帯びていた。
「見たことがある……いや、まさか」
ジュリアンが息を呑む。
「それは神聖連邦ヴァルストリアの異端審問官の印だ。奴らは神の意志と称して他国に暗殺者を送る」
クラリスは腕を組み、静かに頷いた。
「やはり、そう……。この女はヴァルストリアの審問官により送り込まれた。絶対遵守の紋を刻まれているわ」
「絶対遵守……?」
俺は眉をひそめる。
クラリスは端正な顔を曇らせる。その表情は毛虫を見た少女のようだ。
「彼らは上位者の命令に逆らえない。命じられれば、どんな行為でも遂行する。そして任務を果たすまで、紋様が魂を縛るの。命令に背けば、その身を焼き尽くす」
俺ンは鎖につながれた暗殺者の女を見つめた。
その瞳には怯えでも反抗でもなく、ただ虚ろな光だけが宿っている。
「……では、彼女も誰かの命令で王女を」
俺はクラリスの赤い瞳を見る。
「そう。問題は誰の命令か」
クラリスは形の良い胸の前で腕を組む。
クラリスは上着のポケットからなにやら紙片をとりだす。
クラリスはその紙を広げた。
「この印の源流を調べるうちに、一つの線が浮かび上がった。神聖連邦ヴァルストリアは、摂政アルフォンス・ヴァルデンベルグを裏で支援している可能性がある」
「アルフォンス……」
俺の拳が自然と握られた。
貧民街の少女たちを奴隷として売ろうした男だ。
幼なじみのダリアがもし同じ様な目にあうと思うと胸に嫌な焔が灯る。
そしてダリアがこの暗殺者のように操られていたと思うとその炎は否応なしに燃え盛る。
「ただの貴族の裏切りではなく、宗教勢力が絡んでいる?」
ジュリアンはクラリスに問いかける。
「ええ。神聖連邦は七女神信仰を国教としているがその中に、レオンあなたの守護女神ティアラは含まれないわ」
クラリスの声が少しだけ低くなる。
クラリスは赤い瞳で俺を見る。
「ティアラは異端の女神とされ、信仰を禁じられている。もしあなたの幸運がティアラによるものだと知られれば……ヴァルストリアは必ずあなたを異端として処刑しようとするでしょう」
俺は沈黙した。
昨夜、ティアラの声が心に響いた時、確かに何かが彼の中で目覚めていた。
だが、それが世界の敵とされる存在の力だというのか。
「俺の中の力が、彼らの敵だというなら、それでも構わない。守るべきものを守るためなら、女神の力でも運でも使ってみせる」
俺は拳を握りしめる。
その言葉にクラリスは小さく微笑んだ。
「まったく、あなたって人は。ほんとに幸運ね」
クラリスは秀麗な顔に微笑みを浮かべる。
その時、牢の中でかすかな声がした。
「……殺すの? 私を」
暗殺者の女が顔を上げた。
その瞳には、燃え尽きたような光。
「あなたが望むなら、私はそれでいい。命令を果たせなかった私に、生きる価値はない」
俺はそっと牢に近づいた。
「生きる価値がない? そんなことを言うな」
容姿はまったく違うのに年が近いというだけでこの女にダリアを重ねてしまう。
こうなると俺はこの女にひどいことはできない。
「命令に背けば、紋が燃える。魂が焼かれるのよ」
暗殺者の女が苦痛に顔を歪める。
おそらくその紋様の呪いが発動しようとしているようだ。
紋様の呪いが発動すると心臓が焼かれるとジュリアンが言っていた。
「お前、名前は?」
「え、エリス……くっはっ……」
最後と悟ったのか暗殺者の女は簡単になのった。
「じゃあ、その紋を壊せばいい」
俺はエリスの胸元の模様にふれる。たしかに燃えるように熱くなっている。
俺は感覚で幸運の女神ティアラの力を理解しだしていた。この力があるからもしかするとティアラは異端の女神もされたのかもしれない。
「なにを?」
荒い息を吐きながら、エリスは俺を見る。
俺は幸運の女神ティアラに祈りを捧げる。
このものに加護を。
エリスの胸の紋様に、温かな光が流れ込む。
ティアラの加護が応えるように、淡い金の輝きが俺の手を包んだ。
次の瞬間、紋様が激しく脈打ち、光を放つ。
エリスが叫び声をあげた。
「うああああっ!!」
クラリスが思わず駆け寄るが、俺は手を離さない。
光が収束し、やがて静寂が戻る。
エリスの豊かな胸にはもう、紋様はなかった。
ただ、かすかな焼け跡だけが残っていた。
「……消えた?」
クラリスは驚愕の表情を俺に向ける。
「俺の運がやってくれたのかもしれません」
俺は苦笑しながら答える。
ティアラの声が微かに響いた。
『運命の鎖は、もう断たれた』
エリスは息を荒げながら俺を見上げた。
その瞳に、初めて生の光が宿っていた。
「なぜ……助けたの?」
まだ荒い息を吐きながらエリスは俺に尋ねる。
「幼なじみの顔が浮かんだんだ」
俺が言うとエリスは何それと言い、意識を失った。
それから数時間後。
俺とクラリスは王女セシリアの私室でエリスのことを報告した。
エリスはもと東方大陸の奴隷でどうにか辿っても神聖連邦ヴァルストリアはおろか摂政アルフォンスには辿り着きそうにないと。
エリスは、もう敵ではありません。命令の呪縛も解かれました」
俺が跪いて報告すると、セシリアは静かに頷いた。
エリスの生殺与奪の権は王女セシリアにある。
普通なら王族に手を出したものは未遂であっても極刑だ。
「そう……ならば、処刑の必要はありませんわね」
俺はクラリスの美麗な顔を見る。
王女の従姉妹でもあるクラリスはセシリア様らしいわねと呟く。
「姫様、御心のままに」
クラリスは静かに頭を下げる。
「彼女はもう敵ではありません」
セシリアの声は穏やかだったが、揺るぎがなかった。罪を贖うには、命を絶つよりも、生きて償う方が難しいのです。レオン、あなたが責任を持って彼女を導いてください」
「……はっ」
俺は深く頭を下げた。
この時、俺はこの王女に忠誠を誓おうと心からおもか。
その場でエリスがひざまずく。
彼女の声は震えていたが、真っすぐだった。
「この命、レオン様に捧げます。あなたの剣となり、影となりましょう」
その言葉に、俺はわずかに微笑んだ。
クラリスが小さく呟く。
「また増えたわね、あなたの運命が」
俺は答えず、ただ王女の間にかざられる七女神の絵画を見た、居並ぶ七女神のその中で、ひとりだけが欠けている。
俺は病気で亡くなった母親の言葉を思いだした。
母さん、レイラはいつも言っていたな。
あなたに運命の女神ティアラ様の加護があらんことをと。




